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鴨川デルタの暗号|第四章 水の下の京都

鉄扉の前で、悠真は足を止めた。

「開くと思う?」

「鍵が新しい」

澪は錆びた扉を見つめた。

扉そのものは古い。表面には赤茶けた錆が浮き、下の方は湿気で膨らんでいる。だが南京錠だけが違った。銀色の金属が、資料室の暗がりで妙に浮いて見えた。

古い場所に新しいものがある。

それは、誰かが最近ここへ来たという意味だった。

「大学の設備管理用かな」

悠真が言う。

「だったら、こんな奥に置かない」

澪はしゃがみ込んだ。

床に水滴が続いている。

点々と、扉の前まで。

靴跡は薄い。けれど確かに残っていた。

「濡れた靴で、ここまで来ている」

「外から?」

「たぶん。雨は止んでいた。だから、雨水じゃない」

悠真の顔から笑みが消えた。

「川か」

澪は答えなかった。

代わりに耳を澄ます。

資料室の奥。

古い鉄扉の向こう。

かすかに音がした。

低く、細い音。

水が流れる音だった。


「ここ、地下二階だよな」

悠真が小声で言った。

「うん」

「大学の下に水路?」

「京都では、珍しくない」

澪は立ち上がった。

「町の下には、見えない水が流れてる。井戸、暗渠、疏水、排水路。名前を変えて、ずっと残っている」

「怖いことを普通に言うな」

「普通だよ」

悠真は苦笑した。

だが、すぐに真顔へ戻った。

「どうする?」

「今は開けない」

「え、なんで?」

「ここで無理に開けたら、ただの不審者になる」

「それはそうやけど」

「それに」

澪は南京錠を指差した。

「鍵をかけた人間が、また戻ってくる」

悠真は黙った。

その沈黙が、答えだった。


資料室を出ると、廊下の明かりがやけに白く感じられた。

地上へ戻る階段の途中で、ルイが立ち止まった。

「雨宮さん」

「何?」

「さっきの記号。本当に閉鎖水路を示すものです」

「フランスの運河図面で?」

「はい。少なくとも、祖父の資料ではそうでした」

「お祖父さんは何をしていたの?」

ルイは一瞬だけ視線を外した。

階段の壁には、大学創立者の古い写真が飾られている。写真の中の男たちは、みな立派な顔をしていた。人は写真に残る時、都合のいい表情を選ぶ。

ルイも、今それをした。

「歴史研究です」

「水路の?」

「……ええ」

答えるまでに、半拍あった。

澪はそれを記憶した。

嘘とは限らない。

だが、隠していることはある。


午後のキャンパスは雨上がりの匂いがした。

石畳の隙間に水が残り、空は明るいのに地面だけが暗い。

学生たちは何事もなかったように歩いている。

レポートの話。

サークルの話。

恋人の話。

そのすぐ下に、閉ざされた水路があるかもしれない。

人は、自分の足元にあるものをほとんど知らない。

知らなくても生きられるからだ。

澪は、それが少し怖かった。


「腹減った」

悠真が言った。

緊張をほどくような声だった。

「今?」

「今。謎解きはカロリー使う」

「まだ何も解いてない」

「だから補給する」

ルイが笑った。

「僕も賛成です」

三人は大学近くの食堂に入った。

古い町家を改装した店だった。格子戸の奥に券売機があり、奥の席では学生がノートパソコンを開いている。京都らしさと学生街の安さが、ぎりぎりのところで同居していた。

悠真は唐揚げ定食。

ルイは親子丼。

澪はきつねうどんを頼んだ。

湯気が立つ。

その白さを見て、澪は鴨川の水面を思い出した。

「なあ」

悠真が唐揚げを箸で割りながら言った。

「今ある情報、整理しようや」

「珍しくまとも」

「失礼やな」

悠真は紙ナプキンを広げ、ボールペンで書き始めた。

一、飛び石の記号は水位で見え方が変わる。

二、フランスの運河記号に似ている。

三、古地図では鴨川の流れが今と違う。

四、大学資料室に切り取られた地図がある。

五、地下に古い鉄扉。

六、誰かに見張られている。

「こうして見ると、普通に事件やな」

悠真が言った。

「まだ事件とは限らない」

澪はうどんを見つめたまま答える。

「でも誰かが隠してる」

「それは間違いない」

ルイが静かに言った。

澪はルイを見た。

「どうしてそう思うの?」

「切り取られた地図です。あれは古い劣化ではありません。紙の端が新しかった」

澪は少し驚いた。

同じことを見ていた。

「よく気づいたね」

「祖父の資料整理を手伝っていましたから」

また祖父。

澪はその単語を、頭の中で丸で囲んだ。


食堂を出ると、スマホが震えた。

悠真のものだった。

画面を見た彼の表情が変わる。

「やばい」

「何?」

「また投稿」

澪は画面を覗いた。

新しい動画。

投稿者は不明。

夜の鴨川デルタ。

雨の後で水位が上がっている。

カメラは飛び石を映していた。

白い線のほとんどは水に隠れている。

だが、ある瞬間。

川面に街灯の光が反射した。

水面に揺れる線が重なり、記号が別の形に見えた。

半円と斜線。

三角と一本線。

それらが水鏡の中でつながる。

一瞬だけ、数字のように見えた。

「三……一……?」

悠真が呟く。

「いや、座標か?」

澪は動画を何度も再生した。

三十一秒目。

反射が最も強くなる。

その瞬間だけ、記号は完成する。

「これ、地面に描かれた暗号じゃない」

「じゃあ何?」

「水面込みで完成する暗号」

ルイが息を呑んだ。

「リフレクション・コード……」

「何それ」

悠真が聞く。

「鏡像を使う暗号です。直接見ると意味がない。でも水や鏡に映すと読める」

澪は動画を止めた。

表示された一瞬の形。

それは数字ではなかった。

古地図上の方位記号。

北を示す印に似ていた。

ただし、上下が逆だった。

「北じゃない」

澪は呟いた。

「南を示してる」

「南?」

悠真が画面を見る。

「鴨川デルタから南って……市街地やん」

「違う」

澪は首を振った。

「昔の水路の南端」

ルイが静かに言った。

「つまり、閉鎖水路の入口」

三人の間に、短い沈黙が落ちた。


その日の夕方。

澪は一人で父のノートを開いた。

アパートの窓の外では、雨上がりの空が紫に沈んでいる。遠くで自転車のベルが鳴った。どこかの部屋からテレビの音が漏れている。

平和な音ばかりだった。

だからこそ、非通知の電話の声が思い出される。

——見るな。

見るなと言われると、人は見たくなる。

それは好奇心ではない。

自分の自由を奪われたくないという反発だ。

澪はページをめくった。

父の字は乱れている。

研究者の字というより、何かに追われる人間の字だった。

《デルタは入口ではない。水位計である》

澪の手が止まった。

水位計。

飛び石。

水面反射。

見える時と見えない時。

すべてが一つの方向を向いた。

「お父さん……」

声に出した瞬間、自分でも驚いた。

普段は言わない。

言うと、まだ父が帰ってこない現実を認めることになるからだ。


次のページには、小さな図があった。

三角形の中央に一本線。

今日投稿された記号と同じだった。

横に、短いメモ。

《閉じた水は、記録を腐らせない》

意味は分からない。

だが、父はこの記号を知っていた。

それだけは確かだった。

澪はスマホで写真を撮り、悠真へ送った。

すぐに返信が来る。

【これ、今日のやつやん】

続けて。

【明日、現地確認するぞ】

澪は少しだけ笑った。

勝手に決めている。

けれど、その勝手さが今はありがたかった。


夜。

澪は眠れなかった。

窓の外から、水の音が聞こえる気がした。

鴨川はここから遠い。

聞こえるはずがない。

それでも、耳の奥に残っている。

資料室の鉄扉の向こうで聞いた音。

父のノートに残された記号。

水面に浮かんだ暗号。

それらが、ゆっくり重なっていく。

午前零時を過ぎた頃。

スマホが光った。

知らないアドレスからのメールだった。

件名はない。

本文は一行だけ。

《木曜日、飛び石は沈む》

添付ファイルが一つ。

開くと、古い写真だった。

赤煉瓦の水路。

その前に立つ若い男。

澪は息を止めた。

写真の端に写る横顔。

若い頃の父だった。


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