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鴨川デルタの暗号|第五章 夜の飛び石

木曜日の夜、鴨川デルタには人がいなかった。

昼間の騒ぎが嘘のようだった。

雨が近い。

空は低く、街灯の光は湿った空気の中でぼやけている。

川の音だけが、いつもより大きかった。

澪は橋の上から飛び石を見下ろしていた。

スマホの画面には、昨日届いたメールが表示されている。

《木曜日、飛び石は沈む》

悠真が隣で腕時計を見た。

「午後十一時四十二分」

「水位は?」

「少しずつ上がってる。上流で雨が降ったのかもしれん」

悠真はスマホの水位情報を確認していた。

工学部らしい手つきだった。

感情より先に数値を見る。

澪は、そういうところを少し信用している。

「ルイは?」

「来ないって。教授に呼ばれたらしい」

「教授に?」

「うん。急に」

澪は返事をしなかった。

偶然にしては、タイミングが良すぎた。


川辺へ降りると、草が湿っていた。

足元で小さく音がする。

くしゃり。

昼間なら何でもない音だ。

だが夜の川では、妙に大きく聞こえる。

「ほんまに行くんか?」

悠真が言った。

「怖い?」

「怖いに決まってるやろ。夜の川やぞ」

「正直でよろしい」

「おまえな」

澪は少し笑った。

緊張している時ほど、悠真はよく喋る。

怖がっているようで、逃げない。

それは優しさの一種だと、澪は思っている。

本人は気づいていないだろうけれど。


飛び石の一つ目に足を置く。

冷たい。

靴底から湿気が伝わる。

川面は黒く、街灯を細く引き伸ばしている。

昼間は遊び場に見える場所も、夜は違う。

水は人を誘わない。

ただ、黙ってそこにある。

澪は二つ目の石へ移った。

昨日見えていた白線は、ほとんど沈んでいる。

水面の下で、ぼんやりと揺れていた。

「反射が出るのは、あと少し」

悠真が言った。

「街灯の角度と水位が合えば、記号が完成する」

「よく覚えたね」

「誰かさんの説明が長かったからな」

澪はしゃがみ込んだ。

白い線が水の中で歪む。

半円。

斜線。

三角。

それらが、波に合わせてつながったり離れたりする。

暗号は、石に描かれているのではない。

石と水と光の間に現れる。

だから、写真だけでは分からない。

現地に来なければ読めない。

「これを作った人、かなり水位を読んでる」

悠真が言った。

「普通の落書きじゃない」

「うん」

「土木か、水利の知識がある」

澪は頷いた。

そして、息を止めた。

向こう岸。

人影が動いた。

黒い帽子。

低い姿勢。

橋の影から、誰かが飛び石へ降りてくる。

悠真も気づいた。

二人は声を出さなかった。

人影は手に何かを持っている。

小さな缶。

白い塗料。

その人物は、迷いのない動きで石へ近づいた。

そして、水際に屈んだ。

澪はスマホの録画を起動した。

悠真が小声で言う。

「警察呼ぶ?」

「まだ」

「まだって何」

「何を描くか見る」

悠真は呆れた顔をしたが、黙った。


人影は筆のようなものを取り出した。

左手だった。

迷わず、石の縁に線を引く。

細い直線。

次に、小さな点。

さらに、半円。

澪は見逃さなかった。

描いている位置は、今は水面ぎりぎりだ。

あと十分もすれば沈む。

つまり、この記号も“見えなくなること”を前提にしている。

「左利き」

悠真が呟いた。

「第5章の伏線、回収だね」

「何の話や」

澪はわずかに笑った。

だが次の瞬間、足元の石がぬめった。

体が揺れる。

悠真が腕を掴んだ。

「危ない」

「ありがと」

距離が近かった。

夜の川の冷気の中で、悠真の手だけが温かい。

澪はすぐに腕を引いた。

「大丈夫」

「ほんまに?」

「うん」

悠真は何か言いたそうにした。

だが言わなかった。

言葉にすると、壊れるものがある。

澪はそれを知っている。


その時、向こうの人物が顔を上げた。

こちらに気づいた。

「行くぞ!」

悠真が走り出した。

「待って!」

澪も続く。

飛び石を渡る。

夜の水面が足元で跳ねる。

人影は河原へ上がり、北へ向かった。

速い。

だが走り慣れていない。

肩が揺れている。

悠真が距離を詰めた。

「止まれ!」

声が夜に響く。

人影は振り返らない。

代わりに、何かを投げた。

小さな金属音。

悠真が足を止める。

「うわっ」

足元で缶が転がった。

白い液体がこぼれる。

塗料だった。

その一瞬で、人影は橋の下へ消えた。

澪と悠真は追った。

橋脚の影。

湿ったコンクリート。

水の匂い。

だが、そこには誰もいなかった。

「消えた?」

悠真が息を切らす。

澪は周囲を見た。

川側ではない。

上へ登った跡もない。

ならば。

「下」

「下?」

澪は橋脚の脇を照らした。

古い石積みの一部に、暗い隙間がある。

人一人が通れるほどの幅。

普段なら雑草と影に隠れて見えない。

だが今、入口付近の泥に靴跡が残っていた。

濡れた靴跡。

資料室で見たものと似ている。

「地下通路……」

悠真の声が低くなる。

澪は膝をつき、跡を確認した。

靴底の模様。

外側がすり減っている。

同じ人物だ。

「入るんか?」

「入らない」

澪は言った。

「今は危険」

「おまえがそれ言うと逆に怖い」

「普通の判断だよ」

「普段が普通じゃないんや」

澪はスマホで入口を撮影した。

その時、画面に何かが映った。

入口の内側。

壁面。

白い記号。

三角形の中央に一本線。

閉鎖水路の印。

だが、その横にもう一つあった。

漢字のような、小さな文字。

澪は拡大する。

「水……?」

いや、違う。

古い字体だ。

「永」

悠真が覗き込む。

「永?」

「水が長く続く、という意味もある」

「京都っぽいな」

「でも、ここに書く意味が分からない」

澪はさらに画面を見た。

文字の横に、薄く数字がある。

三一。

いや。

上下逆にすれば、一三。

「十三……?」

悠真が言った。

「何の数字や」

澪は答えられなかった。

だが心臓が少し早くなる。

父のノートにも、似た数字があった気がした。


二人は川辺へ戻った。

投げ捨てられた塗料缶を拾う。

ラベルは剥がされていた。

指紋も期待できない。

だが缶の底に、小さなシールが残っていた。

「これ、画材屋の管理シールやな」

悠真が言った。

「店名は?」

「読める。寺町の店っぽい」

澪は記憶した。

寺町。

古書店と画材店が並ぶ通り。

京都では、古い紙と新しい絵具が同じ道で売られている。

過去と現在が、当たり前のように隣り合う町。


午前零時を回った頃、飛び石はほとんど沈んだ。

人影が描いた新しい記号も、水に隠れた。

だが、街灯の反射が水面を走った瞬間。

暗号は完成した。

澪は息を呑んだ。

白い線が水鏡の中で重なる。

そこに現れたのは、方位でも数字でもなかった。

一本の矢印。

南ではない。

南東。

「南東って……」

悠真がスマホの地図を開く。

鴨川デルタから南東。

その延長線上にあるもの。

大学。

そして、さらに先。

「南禅寺の方角や」

澪は画面を見つめた。

南禅寺。

水路閣。

琵琶湖疏水。

父が追っていた水の道。

すべてが、一本の線になっていく。


その夜、澪は帰宅しても眠れなかった。

机の上には、父のノート。

鴨川で撮った写真。

塗料缶。

動画のスクリーンショット。

証拠は増えた。

だが謎は深くなっている。

誰が記号を描いているのか。

なぜSNSで拡散させたのか。

なぜ父のノートに同じ印があるのか。

そして。

帽子の人物は、本当に敵なのか。

澪は録画を再生した。

人物が石に線を引く場面。

左手。

濡れた靴。

小柄な体格。

走り方。

そこで、澪は映像を止めた。

手首に何かが見える。

細い赤い紐。

京都の寺社で売られているような、お守りの紐。

だが結び方が違う。

中国結び。

「……中国語由来」

第六章へ続くはずの言葉が、澪の中で静かに形を持った。

スマホが震えた。

知らないアドレスからのメール。

本文は一行。

《次は、石ではなく紙を見ろ》

添付ファイルはない。

澪は父のノートを開いた。

ページの端に、何度も見落としていた小さな紙片が挟まっていた。

古い和紙。

そこには、たった一文字だけ書かれていた。

——蔵。

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