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コロナ禍で孤独死した高齢者は「語る」ことができたか──サバルタンと認識的暴力の現在

サバルタンは、語ることができない。

— ガヤトリ・C・スピヴァク(Gayatri Chakravorty Spivak)、ポストコロニアル批評理論家

近代的制度は、専門家が管理する需要を自ら生産し、それ以外の生をもれなく非合法化していく。

— イヴァン・イリイチ(Ivan Illich)、『コンヴィヴィアリティのための道具』(Tools for Conviviality, 1973)

2020年から2022年にかけて、日本の高齢者施設で何が起きたのか――この問いを立てること自体が、なぜか「タブー」になった感覚はないだろうか。

面会が禁じられた施設の中で、高齢者が一人また一人と息を引き取った。死因欄には「老衰」や「心不全」と記され、家族は看取ることもできず、葬儀は縮小され、記憶は社会から静かに削られていった。

「数字」は存在する。何人が亡くなったか、統計は示している。だが、その数字は「数えられたもの」しか示さない。数えられなかったものは、どこへ消えたのか。

この問いを考えるとき、インド出身の批評理論家ガヤトリ・C・スピヴァクが1988年に発した問いが、思いがけず現代日本に刺さる。「サバルタンは語ることができるか」という問いである。

「サバルタン」とは、声を届ける回路を持たない者のこと。支配者の言語でしか記録されず、自分自身の言葉で存在を表現できない人々を指す。スピヴァクが解き明かそうとしたのは、なぜ声を奪われるのか、その「仕組み」そのものだ。

誰か悪意ある個人が黙らせているのではなく、制度や言語、情報の流通回路そのものが、結果的に特定の声を「なかったこと」にしてしまうプロセス――彼女はその構造を可視化した。

この視点は、パンデミック下の情報環境を分析する上で、驚くほど精密な道具となる。そして、この「語れなさ」には、見過ごされがちな三つの層がある。以下、その三層をたどりながら、私たちは問いかける――施設で息を引き取った高齢者たちは、どこへ消えたのか、と。

著者と書籍について

本書の位置づけ

本稿は、ガヤトリ・C・スピヴァクが1988年に発表した論文「サバルタンは語ることができるか?("Can the Subaltern Speak?", 1988)」を手がかりに、パンデミック下の日本で起きた「情報のねじれ」を読み解く批評文書である。彼女の問いを「道具」として借り、現代日本の状況に当てはめて考える試みだ。

スピヴァクは1942年インド・コルカタ生まれ。現在はコロンビア大学教授をつとめ、ポストコロニアル批評の第一人者として知られる。フランス哲学の紹介からフェミニズム、マルクス主義の視点までを統合しながら、「声を奪われた人々」の問題を考え続けてきた。

ガヤトリ・チャクラヴォルティ・スピヴァク

なぜこの問いが今、重要なのか

「サバルタンは語ることができるか」という問いの核心は、単に「弱い立場の人が声を出せない」という指摘ではない。

この視点は、パンデミック下の情報環境を分析する上で、驚くほど精密な道具となる。「あの人が悪い」「この組織が隠蔽した」という単純な構図ではなく、私たち自身が生きている情報の枠組みそのものが、何を「語れる声」とし、何を「語れない声」としているのか。それを問い直すことができるからだ。

そして、スピヴァクの思考をたどることで、批評理論が通常は立ち入らない領域にまで、私たちは導かれることになる。

「語る条件そのものを奪われた人の死を、私たちはどのように記憶すればいいのか」――この問いこそが、以下で見ていく三つの層を貫く、静かで重いテーマである。

1. 可視化された抵抗とその先にある沈黙

彼らの存在が「語り得た気分」を社会に与え、真の沈黙を覆い隠す幻想的代理人となる。

— 本稿分析テキストより

ワクチンの安全性に疑問を呈した独立系医師たちが、SNSから追放された。ロバート・マローンはTwitterから永久凍結され、ピーター・マカローは学術誌の編集委員から外された。MIT研究者らの論文は、掲載誌が圧力を受けて撤回を求められた。彼らは確かに、語った。

スピヴァクの枠組みでは、これが「第一層」である。語る能力は残されており、制度の言語を解し、社会的に「代表可能」な存在として機能した。削除されても言い換え、垢BANされても別の場所を見つけた。学術的な反論を積み重ね、国際的な連帯さえ形成した。

この抵抗の可視化自体は、重要な意義を持つ。彼らの存在がなければ、ワクチン政策への批判的視点はさらに周縁化されていただろう。

しかし同時に、見過ごせない逆説もある。

活発な批判的言説が可視化されたことで、批判に関心を持つ人々の目は、この可視化された論争空間に集中する。マローンは何を言ったか、マカローはどの論文を書いたか——そうした「語れる者」たちの言説が、批判的公共圏の主要な参照点となる。

多くの独立研究者は「本当の科学」を取り戻すという語り方をした。しかしその枠組みは、科学という制度的権威を再び中央に置き直す。

結果として、論争の回路にすら乗れなかった人々——科学的知識以前に失われた「生活的知」(介護現場で死を看取った人、現場看護師の実感)データ化されない感覚・孤独・悲嘆——への注意は、相対的に薄れがちになる。

スピヴァクは、代弁しているように見えてより深い沈黙を覆い隠してしまう存在を「幻想的代理人」と呼んだ。だが、これは第一層の人々の責務を問うものではない。むしろ、可視化された抵抗に注目が集まる構造そのものへの批判である。

マルクスが描いたように、「代弁すること」と「その存在をありのままに示すこと」は別の行為だ。第一層の人々は自らを代弁することはできた。しかし彼らに、語る条件そのものを奪われた者たちを「呈示」するまでを期待することは、別の過剰な要求かもしれない。

批評の倫理が始まるのは、この不可能性を自覚したときだ。可視化された抵抗の意義を認めつつ、なおその先にある沈黙に目を向けること——その二重のまなざしこそが、今求められている。

2. アルゴリズムに棄却された声:「なかったこと」のメカニズム

「無視される」のではなく、「存在しなかったことにされる」

— 本稿分析テキストより

第二層は「語ったが聴かれなかった者」だ。ここには、もう少し具体的な顔がある。

ワクチン接種後に娘が急死したと訴えた母親のSNS投稿は、「誤情報」として削除された。

接種後に心膜炎を発症した若者の記録は、「個人の体験談は医学的エビデンスではない」として無視された。

現場の看護師が記した日誌は封じられた。接種後に入居者が急変した事実が、施設の管理方針に反するという理由で。これらは確かに「語られた」。しかし、それらの言葉は「認識的回路」——ある言説が正当なものとして流通するための制度的回路——に接続できなかった。

そしてこの排除は、時に権威ある声によって執行される。

2023年1月、ワクチン被害者を支援するNPO理事長が、死体検案書の画像をXに投稿した。書類には「接種」が「摂取」と誤記され、死亡時刻も「〇時頃」と概算で記載されていた。

これを見た著名な医師で作家の知念実希人氏は即座に「完全に偽造ですね」と断定し、「恥を知るべきだ」と投稿。この一言で、理事長と団体は「偽造者」として集中的な攻撃に晒され、信用を失墜した。

ここにあるのは、権威ある声が弱い立場の声を「偽物」と烙印し、公の場から抹消する力学である。たとえ司法が後で名誉毀損を認めても、一度広まった「偽物」の印象を完全に拭うことは難しい。

語ることは、聴かれることと等しくない。声は発せられても、「偽造」と断じられたとき、その声は初めからなかったものとなる。被害の声は、二重に沈黙させられるのである。

この構造をスピヴァクは、植民地期インドのサティー廃止言説と同型として分析した。サティーとは、夫を失った寡婦が夫の火葬の場で共に焼身する慣習であり、ヒンドゥー教の一部地域で「貞節な妻の美徳」として行われてきた。イギリス東インド会社は1829年、これを「野蛮な慣習」として法的に廃止した。

問題は廃止の是非ではない。廃止をめぐる言説の構造だ。廃止を正当化した議論は二系統あった。イギリス側は「文明が野蛮から女性を救う」と主張し、ヒンドゥー教のブラフマン(バラモン)階層は「女性は本来自らの意志で死を望んだ」と主張した。この二つの言説が対立しながらも、奇妙な一点で一致していた。インド人女性当事者の声を、どちらも必要としなかったのだ。

女性は「救われる客体」か「崇高な死を望む主体」かのどちらかに回収され、「自分はどう生きたいか」を語る回路が、最初から設計されていなかった。スピヴァクはこの構造を「白い男たちが褐色の女たちを褐色の男たちから救っている」という一文に圧縮した。

現代のワクチン言説に置き換えると、この構造はそのまま再現される。対立する二つの言説がある。公衆衛生当局側は「VAERSの自己申告データは因果関係を証明しない、RCT(無作為化比較試験)レベルの証拠がなければ接種との関連は認められない」と主張する。

批判側は「超過死亡の統計的シグナルがワクチン被害の規模を示している」と主張する。この二つは激しく対立しているように見える。しかし奇妙な一点で一致している——どちらも「集団レベルの数値」を戦場として選んでおり、個々の当事者の声を議論の単位として必要としないのだ。

当事者の声とは何か。「接種の翌朝から動悸が続いている、どうしたらいいんだ」「夫が接種後3週間で亡くなった、死因との関連を調べてほしい」——この種の、断定でも否定でもない、ただ「自分の身体に起きたことを正直に語りたい」という声だ。

この声は、当局側の言説の中では「n=1の個人体験は統計的エビデンスにならない、因果関係は証明されていない」として認識論的に格下げされる。

批判側の言説の中でも、個別の体験は「超過死亡○万人」という集計数値に吸収され、証拠としての有用性を認められる一方で、「その人個人に何が起きたか」という固有の問いは消える。

サティの寡婦が「救われる客体」か「崇高な死を望む主体」かに二分されたように、当事者は「統計的ノイズ」か「被害の証拠」かのどちらかに変換され、第三の位置——「自分の体験をそのまま語る者」——に立つことを許されない。

廃止されるべき「野蛮な慣習」が「統計的に有意でない個人報告」に置き換わっただけで、沈黙を生産する構造は同型だ。

二つの言説が方法論をめぐって対立しながら、当事者の声を収容する第三の認識的回路を共同で閉塞している。この閉塞こそがスピヴァクの言う「認識的回路からの排除」であり、「無視」とは根本的に異なる。

無視は声が届かなかった問題だが、回路の閉塞は声が発せられた痕跡ごと「存在しなかったこと」にする問題だ。第二層の沈黙は、この構造によって生産されている。

第二層の変容:発信できても、届かない

ここにある三つの投稿は、いずれも「語られている」。従姉妹の死、抗がん剤治療中の母を看取ろうとした娘の突然死、ワクハラをした経営者の乳癌発症——いずれも具体的な証言であり、感情を伴った生の声だ。そしてそれらは、確かに𝕏という公共空間に発信されている。

しかし、これらの投稿が持つ表示回数は「53件」「39件」にとどまる。リツイートも、リプライも、実質的にない。

これは第一層の問題——アカウント凍結や投稿削除という「積極的な弾圧」——とは質的に異なる。発言は許されている。投稿は削除されず、形式上は「存在している」。しかし、アルゴリズムによってタイムラインの深部に沈められ、他者の目に触れる機会を構造的に奪われている。

ここに、第二層の新しい形態がある。

スピヴァクが分析した「認識的回路からの排除」は、かつては学術誌の査読、マスメディアの編集ゲート、出版社の校閲といった、明示的な制度的フィルターを通じて行われた。しかし2020年代、この排除はアルゴリズムという「見えない権力」に取って代わられている。

プラットフォームは「誰でも発信できる」と宣言する。だが同時に、何が「トレンド」に上がり、誰の投稿が「おすすめ」に表示され、どの声が「エンゲージメント低」と判定されて埋没するかを、非公開のパラメータで絶えず選別している。

結果として生まれるのが、このツイートのような「無数の孤立した声」の群れだ。X上には、ワクチン後に家族を失った人、自らの身体の異変に悩む人、病院で説明を受けられなかった人の投稿が、おそらく数万、数十万単位で存在する。それぞれは確かに「語っている」。しかし、ほとんど誰にも「聴かれない」。

重要なのは、これらが「陰謀論」や「誤情報」として消去されているわけではないという点だ。
消去される代わりに、可視性を剥奪されている
存在は許容されるが、影響力は与えられない
発言の自由は形式的に保障されるが、言論の自由——他者に届き、公共的な議論を形成する自由——は与えられない。

これは、情報管理の新しいパラダイムである。弾圧はコストが高く、反発を生む。しかし「埋没」は、弾圧とは見なされず、抗議の対象にもなりにくい。プラットフォームは「技術的な中立性」を装いながら、沈黙させるべき声を、ただ深い海の底に沈める。

第二層のサバルタンは、かつてのように「語る手段を持たない者」ではなくなった。彼らは語る手段を持っている。スマホも、インターネット接続も、Xのアカウントもある。

しかし、その声が誰かの耳に届くための回路——アルゴリズムの可視性配分という、現代における最も基本的な公共圏のインフラ——からは、組織的に排除されている。

「発言しても聴かれない」。この静かな排除こそが、2020年代の第二層を特徴づける。三つの投稿に込められた悲しみと怒りは、単に個人的なもので終わるのではなく、この構造そのものを告発している。しかしその告発は、届くべき人に届かないまま、今日も無数に積み上がり、そして消えていく。

3. 「自然死」という名の収容所:統計に埋もれた「前倒し」された死

高齢者の場合、「前倒し」の幅が数ヶ月〜数年程度であれば、同一の観察期間内で相殺が起きやすい。寿命の前倒しが大きい人は超過死亡にはっきり現れるが、前倒しの幅が小さい人は統計の中に埋もれてしまう。

— 荒川・村上論文分析記事より

接種後3ヶ月以内に亡くなった高齢者の死亡診断書に、「ワクチン後有害事象」と記載された例は日本でどれほどあるか。

答えは、ほとんどない

これは隠蔽というより、より根の深い問題だ。
記載するための制度的言語が整備されていないのだ。

荒川・村上論文が指摘した「接種後3〜7ヶ月の死亡集中」と「接種回数に比例した死亡率の上昇」というパターンは、このメカニズムを逆照射する。個々の死亡診断書の段階では「老衰」「心不全」「肺炎」と記録される。診断の仕組みに基づくなら「嘘」ではないのかもしれない。

しかし問題は、接種という出来事との時間的関係が、診断書というフォーマットの設計上、記録できないことだ。

ICD(国際疾病分類)コードには「接種後数ヶ月で前倒しされた死」を名付けるコードが存在しない。

「寿命の前倒し」という概念は、この不可視化のメカニズムを統計の言語で示す。本来2025年に亡くなるはずだった人が2022年に亡くなったとき、その差分である「3年分の生」はどこに記録されるか。年次の超過死亡統計は「死者が増えたかどうか」を問うが、「いつ死ぬはずだった人がいつ死んだか」という時間的損失は問わない。

前倒しの幅が小さければ、集団統計の中で相殺が起き、「自然死の範囲内」として吸収される。個人にとっては取り返しのつかない時間の損失が、制度の粗い網目を通り抜けて消える。二つの制度的言語の狭間で、その死は「存在したが名付けられなかった」ものとして消える。

これが第二層との決定的な差異だ。第二層の当事者は語った——しかし回路に乗れなかった。第三層の死者は、語る主体として立つ以前に、その死を記述する制度的言語そのものが存在しない。

これをスピヴァクは「認識的暴力(epistemic violence)」と呼ぶ。暴力とは殴打ではなく、ある現実を名付け不能にする言語の設計のことだ。死因欄に「老衰」と記されること——それは診断時点の所見に基づけば「正しい」。しかし、この記述は「接種から数ヶ月以内に亡くなった」という時間的関係を記録する欄を持たない。

同時に、超過死亡統計は「前倒しされた死」を捕捉する網目を持たない。二つの制度的言語——臨床医学と疫学——のいずれでも名付けられないこと、そのこと自体が、彼らの死を社会的な現実から抹消する認識的暴力である。

「一人の死は悲劇だが、数百万の死は統計上の数字にすぎない」——スターリンのものとされるこの言葉が仮に真実だとしても、彼でさえ想定していなかった層位がある。数値になる以前に名付けを拒否された死者たち、統計の母集団にすら入れなかった者たちの存在を。

2020年代の日本において、施設で孤独に逝き、死因欄に「老衰」と刻まれ、超過死亡の観察窓から外れた無数の高齢者——彼らがこの層に位置する。

結論:「前倒し」された生を、どう記憶するか——データ時代の「記憶倫理学」

語りえぬものを語ろうとすること。その営みの中にしか、語る者の倫理も、未来の知の形もない。

— 本稿分析テキストより

三層を辿ってきて、見えてくることがある。「正しい情報を広めること」と「制度によって語れなくされた者の存在を可視化すること」は、まったく別の実践だということだ。

スピヴァクは1926年に自殺した若きベンガル人女性、ブヴァネシュヴァリー・バドゥリー(Bhuvaneswari Bhaduri)の事例を挙げる。独立運動の任務を遂行できなかった彼女は、自らの死が「不倫による妊娠」と誤解されないよう、生理中を待ってから死を選んだ。

身体によって社会的テクストを書き換えようとした、稀有な「介入」だった。しかし家族はその意図を読まず、不倫説を広めた。「語ること」と「語られること」の回路が断絶した、象徴的な悲劇だ。

コロナ禍にも、この構造と重なる試みがあった。接種後に子を亡くした親が、「予防接種健康被害救済制度」への申請という唯一の公式回路を使って因果関係の認定を求めた。バドゥリーが生理中の自殺という身体の言語で制度的テクストを書き換えようとしたように、彼らは制度が用意した言語でその死の意味を問い直そうとした。

しかし審査機構は「因果関係不明」という判定言語で処理し、申請という行為の意味を「制度が機能している証拠」へと転換した。

公式の死亡診断書に「老衰」と記された親の死について接種との時間的関係をSNSに投稿した遺族も同様だ。その投稿はプラットフォームに「誤情報」として処理されるか、批判側に「被害の証拠」として動員されるか、どちらかの文脈に吸収された。「あの3週間に何が起きたのか」という固有の問いは、どの回路においても、別の物語に回収されて封印された。

スピヴァクはここで「知識人がサバルタンを代弁せよ」とは言わない。逆だ。代弁しようとする衝動そのものを疑えと言う

第三層の存在を「代表」しようとする身振りは、その瞬間、代表する者自身の言語と制度的特権を通じて、再び他者の声を上書きしてしまう。

「表象は枯死してはいない」——スピヴァクはそう書いた。難解に聞こえるが、意味はこうだ。誰かの声を代わりに語ることは不可能だが、だからといって語ることをやめてよいわけではない。知識人の課題は「代弁」ではなく、語りえなさを生産した構造そのものを批判し続けることにある、と。

スピヴァク

では、具体的に何ができるか。

荒川・村上論文に代表される情報公開請求とデータ分析の試みは、「市民科学」の実践として重要だが、それ以上の意味を持つ。「自然死に埋もれる接種後死亡」という問題を可視化しようとするこの作業は、第三層の存在を代弁しているのではなく、彼らが沈黙させられた構造そのものに光を当てようとしている。

統計という制度を批判するために、統計という道具を逆用する。この逆説的な戦略の中に、「記憶倫理学」の核心がある。

統計を読む際に私たちが問い直すべきことは、「数字が正しいか間違いか」ではない。「この数値は何を数え、何を数えていないか」「誰の死が、どのコードで記録され、どの集計に入り、どの観察窓から外れるか」——この問いを立てること自体が、制度の設計を問う行為になる。

「高齢者は自然に亡くなる」という説明が、問いの立て方によってどれほど異なる意味を持つかを理解すること。これは陰謀論でも過激な反体制論でもなく、データリテラシーの基本であり、制度批判の出発点だ。

しかし最後に、この問いが解決可能な問いではないことも認めなければならない。第三層の存在は、その定義上、完全な可視化を拒む。「痕跡」から逆算することはできても、一人ひとりの時間的損失を正確に回収することはできない。

語りえぬ者がいたという事実への感受性を失わないこと、そして語りえなさを生産した回路を批判し続けること——それが私たちにできる最低限であり、同時に、始まりでもある。

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