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noteを書き続けると、noteの文章に最適化されていく。その圧でも消えないものが、自分らしさの核なのかもしれない【noteの続け方 / 詩的エッセイ / ブログ / 思考 / 画像生成AI】

noteを書き続けていると、少しずつ、書き方がnoteに寄っていく

自覚的に、あるいは無自覚に。
これは多分避けられない。
noteに限らず、人は書く媒体に最適化されていくからだ。

もしかしたら、この書き出し自体にも、noteらしさが出ているかもしれない。

ただ、どれだけ文章がnoteらしさに近づいたとしても、残るものがある。
それこそがきっと、自分の核なのだろう。




生存戦略としての最適化

noteの中に吹く風には、独特の雰囲気が含まれる。
Xのような鋭利なスピード感とも、ブログの少し堅苦しい感じとも違う。

どことなく内省的で、それでいて誰かと緩やかにつながることを拒まない。
語る文体や、扱うテーマが変わっても、そんな空気感が根底には、ある。


この場所に身を置いて、一年以上が経つ。
月日が経つにつれて、自然とそのリズムを身につけていくような。
そんな感覚を感じる。

一文を短く切り、適切な位置で改行を入れる。
視認性を上げるための、視覚の余白。

難しい言葉をあえて平易な表現に開き、可読性を上げる。
強調したい文字にボールドを加える。

自分の弱さ、揺らいだ心情を、ほんの少しだけエッセンスとして混ぜ込んでいく。


読み手の呼吸を邪魔しないように。
画面をスクロールする指が、心地よくリズムを刻めるように。

スキ数やコメントといった反応の良さを追い求め、改善を繰り返すうちに、そうなっていく。
連なったフィードバックループがそうさせる。
それは生存戦略に近い。


そうして、きっと「note最適化」が進んでいく


削ぎ落とされていく「型」の向こう側

私の本来の文体は淡白であったように思う。
さほど情感に満ちているような覚えはなかった。
以前から、説明的で、客観的なことのほうが、書きやすく感じていた。

それが、noteを読む中で、書く中で、あるいはリアクションを受ける中で、変わっていった。


海辺や河原の石がどれも丸いのは、波に洗われるからに他ならない。
プラットフォームに流れるアルゴリズムという波も、文章のトゲを削っていく
最適化の圧を受けて、文章は丸みを帯びていく。

そうして丸みを帯びた石たちがnoteの河原には広がり、noteらしさを形作る。
優しさ、穏やかさ、あるいは感傷を生み出す。
そんな同じ形の群れの中にあって、自分の個性すら溶けていくように感じる。


けれど、外見を削られてはじめて、内的な要素が見えてくる
純度の高い本質を、露わにする。


どれほどに、noteらしい穏やかな文体を装っても、「執着」は隠しきれない
どんなテーマで書いていても、つい触れてしまうこと。
無意識に繰り返す、自分にとってのお守りのような言葉。
あるいは、論理を犠牲にしてでも、優先したい感性や感情。

私にとってのそれは、構造化であって、共感であって、透明性なのかもしれない。
感情を扱うときですら、「なぜそう感じたのか」を分解したがるのだから。


noteという強い「最適化の圧力」がかかっても、それらは潰れることがない。
むしろ、周囲が滑らかに整えられたからこそ、浮かび上がる。

削られて、削られて、削られて、なお残る。
凸凹とした異物感、あるいは色合い、あるいは質感として。


「自分らしさ」とは、最後まで抗い続けた残り香

それは、「言葉の癖」というよりも「まなざしの偏り」に近い
世界の切り取り方には嘘はつけない。

道端の雑草の生命力に光を当てるのか、あるいはとりとめもない誰かの一言の裏にある寂しさをすくい上げるのか。
その選択の瞬間瞬間に、最適化の波に洗われた「私の輪郭」が、浮かび上がってくる。


きっと「型」を身につけることは、個性を消すことじゃない。
個性を読み手に届けるための翻訳に近い。

独りよがりで、説明不足だと、誰にも届かない。
分かる人にだけ分かればいいと信じた、かつての私の言葉は、ノイズとして流れていき、ネットの海に消えてしまった。

だからこそ、私たちはnoteという共通言語を纏いながら、届けようとする。
それが、共同体にとって異物であったしても、角を落として丸めて、共同体の優しさでラッピングしていく。


そうやって今日もnoteの河原に、ひとつ記事を並べる。
きっと、誰かが、拾い上げてくれることを願って。



それではまた。


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