牧瀬茜 ― 論争の焦点となった出演者:経歴と「バイアス」論の崩壊
牧瀬茜氏は、本件のイベント「2秒の視線」において身体表現の出演者として参加した人物である。他の7名と異なり、沖縄側への攻撃に直接加わった人物ではない。しかし、牧瀬氏がどのような人物であり、なぜその出演が問題となったのかを理解することは、本件の全体像を把握するうえで不可欠である。
本稿は、『沖縄の声はこうして消された』第2章第2節の内容に、砂布均氏の「バイアス」論に対する分析を加えたものである。
はじめに確認しておくべきことがある。沖縄側の異議申し立ての出発点は、牧瀬氏がストリッパーであることではなかった。米兵による沖縄の女性への性暴力は、政治的に強制された構造の中で生じた被害であり、過去の出来事ではなく、現在も生身の被害者・当事者家族がいる現在進行形の問題である。その重大かつセンシティブな問題を沖縄の外の第三者が朗読し身体表現の場とするという企画構成そのものに対する異議が、出発点であった。牧瀬氏が自身のストリップショーの告知と当該イベントの告知を同一の投稿で行ったことにより、ストリッパーであることに触れざるを得なくなったのが経緯である。本稿が牧瀬氏の経歴に踏み込むのは、この文脈においてである。
経歴と現在の活動
牧瀬氏は現役のストリッパーとして活動している。自身も性被害の経験者であり、それを乗り越える過程で性産業に入ったとされる。
これらの経歴について、沖縄側はこれまで配慮して言及を控えてきた。宮城秋乃氏は「私も他の女性たちも大量の誹謗中傷を浴びてもストリップの話だけに留めていた」と述べている。比嘉マリア氏も「提示は控える」としてきた。牧瀬氏本人にとっても良いこととは思えないからである。
しかし、砂布均氏が繰り返し沖縄側の主張を「性産業従事者差別」に捻じ曲げ続けたことで、宮城氏は「書かざるを得ない」状況に追い込まれた。宮城氏は「砂布さんは故意かどうかはわかりませんが何度かわざわざ私が自身や沖縄の女性を守るために書かないといけない状況に追い詰めて少しずつ吐かせて、とても牧瀬さんを守ろうとしているようには思えません」と述べている。
そうして明らかにされた事実は以下である。牧瀬氏は過去に源氏名で性的な雑誌・写真・映像等に出演しており、性暴力を模した行為を含む作品が多い(比嘉マリア氏・宮城秋乃氏の指摘による。今日現在においても入手可能であるという)。宮城氏も、牧瀬氏が「性暴力を思わせるプレイをメインとし、行為を受ける側の女性を演じ、そのビジュアルを性的娯楽として男性たちに提供してきた」と指摘している。近年もその時代からのファンがいるという。
現在もストリッパーとしての活動を積極的にアピールしており、ストリップショーの告知と平和運動の告知を同一のSNS投稿で行っている。辺野古基地反対運動への参加を通じて「2秒の視線」と関わり、今回のイベントへの出演に至った。
イベント当日に起きたこと
イベント当日、牧瀬氏の身体表現は予定通り実施された。すなわち、「排除」は事実として起きていない。
しかし、当日の参加者記録は、沖縄側が事前に懸念していたリスクが現実のものであったことを示している。男性参加者が想定以上に多く、フリートークでは牧瀬氏のパフォーマンスに話題が集中し、テーマから外れる場面があった。ある男性参加者は牧瀬氏の踊りを「手を抜いていた」と繰り返し批判し、牧瀬氏が涙を流す場面があった。
さらに注目すべきは、別の参加者がX(旧Twitter)上に以下のように投稿したことである。
「踊りを手抜きと言われた牧瀬茜さんが泣いていたけど、言い返さないところが純粋なんだなと思った。その純粋さがストリップで表現されていると思うと、改めて牧瀬さんのステージを見たくなった。」
沖縄の米兵による性暴力の朗読会に参加した男性が、その場で「ストリップを見たくなった」と公に投稿した。沖縄側が懸念していた「性被害が性的素材に利用される」リスクは、仮定ではなく現実に発生していたのである。
牧瀬氏自身の発言
牧瀬氏はFacebook上で、批判の中に「差別や誹謗中傷」があったと述べ、「ストリップやストリッパーそしてストリップを見にくる人々への偏見や差別を感じる」と語っている。
同時に、牧瀬氏の発言には次の一節がある。
「私は、自分のしている仕事や自分の人生を誰しもに認めてもらいたい、受け入れてもらいたいとは思っていません。ただ、この社会で共に生きることは認めてもらいたいと思っています。」
「どんな職業であっても、どんな過去であっても、『自分のようなものが……』と思わずに、気持ちがあれば参加したい社会運動に参加できるのがいいなと思います。」
この発言自体は穏当なものである。しかし、問われているのは社会運動への参加の権利ではない。性暴力被害の朗読の直後に、性暴力を模した性的コンテンツの制作歴を持つ人物の身体表現を配置するという企画構成が、被害当事者にとって安全であったかどうかである。
問われるべき過失
比嘉マリア氏は、牧瀬氏自身の過失を問うている。牧瀬氏は朗読会が問題視されている状況を知ったうえで、出演を辞退せず実施した。自身が性被害者であることは、沖縄の性暴力被害者に精神的ショックを与えた事実への免罪符にはならない。にもかかわらず、牧瀬氏は職業差別を受けたと主張した。
比嘉氏はこう指摘する。沖縄側は、性被害朗読会以外の場でストリッパーが踊ることを否定していない。職業としてのストリップにクレームをつけてもいない。性暴力被害の朗読というテーマとのセットに対して、被害当事者としてNOを申し立てたのである。テーマを変えて「基地反対運動に参加しているセックスワーカーの身体表現」としていれば問題にはならなかった、と。
なぜこの背景が重要なのか
声明側は、沖縄側の懸念を「ストリッパーだから出るな」という職業差別として描いた。しかし事実は異なる。
沖縄側が問題にしたのは、牧瀬氏がストリッパーであること自体ではない。性暴力を模した作品に出演してきた経歴を持つ人物の身体表現を、沖縄の性暴力被害の朗読の直後に配置するという企画構成である。別の場でストリッパーが踊ることを否定した者は誰もいない。比嘉マリア氏が述べた通り、テーマを変えて「基地反対運動に参加しているセックスワーカーの身体表現」としていれば問題にはならなかった。
牧瀬氏の経歴を踏まえたとき、この企画構成が何を意味していたかを具体的に考える必要がある。
運動圏の中には、牧瀬氏のストリップショーに通っていることを公言する男性たちがいた。宮城氏が指摘する通り、牧瀬氏には過去の性暴力を模した作品の時代からのファンも近年まで存在する。そのような男性たちが参加しうるイベントで、沖縄の性暴力被害者の体験が朗読される。被害当事者にとって、これはどういう場なのか。
自分の被害体験、あるいは同じ沖縄で起きた性暴力の記録が、性暴力を模した作品のファンがいるかもしれない空間で読み上げられる。その直後に、そのファンの対象である人物が身体表現を行う。被害者の恐怖や苦しみが語られる場と、性的消費の文脈が、ひとつの空間に同居する。沖縄の被害者がなぜそのような場に自分たちの被害を差し出さなければならないのか。これは企画構成そのものへの根本的な問いである。
そして、沖縄側が懸念したリスクは仮定ではなかった。当日、男性参加者が「ストリップを見たくなった」と投稿し、被害当事者がフラッシュバックを起こした。懸念は現実になった。性暴力の朗読を聞いた男性が、その場で性的消費への意欲を表明した。被害者の痛みが語られた空間が、まさに沖縄側が恐れた通りの場になったのである。
牧瀬氏の経歴を知れば、沖縄側の懸念が「職業差別」ではなく、被害者の安全を守るための合理的な問題提起であったと理解し得る。
砂布均氏はなぜここまで言わせたのか
ここで改めて問わなければならないのは、砂布均氏の責任である。
沖縄側は、牧瀬氏の詳細な経歴に触れることを避けてきた。宮城氏も比嘉氏も、牧瀬氏本人のためにならないことを理解していたからである。大量の誹謗中傷を浴びても、ストリップの話だけに留めていた。それが沖縄側の配慮であった。
砂布均氏はその配慮を踏みにじった。
砂布均氏は繰り返し、沖縄側の懸念を「性産業従事者差別」「バイアス(偏見)」として退け続けた。「性被害とストリッパーの身体表現は何らかのバイアスがないと繋げるのが不可能です」と断定した。沖縄側が具体的な理由を述べることを避けていた事実を、「根拠がないから言えないのだ」と読み替え、「偏見だ」と攻撃する材料にした。
宮城氏はこう述べている。「砂布さんは故意かどうかはわかりませんが何度かわざわざ私が自身や沖縄の女性を守るために書かないといけない状況に追い詰めて少しずつ吐かせて、とても牧瀬さんを守ろうとしているようには思えません」。
ここで問うべきは、砂布均氏は牧瀬氏の経歴を知っていたのか、という点である。
運動圏の中で牧瀬氏のストリップショーに通う男性たちがいたことは公然の事実であった。牧瀬氏自身がストリッパーとしての活動を積極的にアピールしていた。砂布均氏が牧瀬氏を「全面支持」するほど近い立場にいながら、牧瀬氏の性暴力を模した作品への出演歴をまったく知らなかったとすれば、知らないままに「バイアス」「偏見」と断定していたことになる。事実を確認しないまま、沖縄の被害者の懸念を「偏見」と退けたのである。
逆に知っていたのであれば、問題はさらに深刻である。性暴力を模した作品に出演してきた人物の身体表現を性暴力の朗読会に配置することへの懸念が「バイアスがないと繋がらない」ものではなく、出演者自身の経歴から容易に結びつくものであることを知りながら、あえて「別物だ」「偏見だ」と言い続けたことになる。沖縄側が配慮して言わずにいたことを利用し、「根拠がない」と攻撃していたことになる。
いずれにせよ、砂布均氏の「バイアスがないと繋げるのが不可能」という主張は、出演者自身の活動歴によって成立しにくい。
沖縄側がこの二つを「繋げた」のではない。出演者の活動歴を踏まえれば、両者を切り離して理解することが困難であった。
牧瀬氏は、性暴力を模した行為を性的娯楽として提供する作品に出演してきた。性暴力と性的消費は、この出演者の活動歴の中で分かちがたく結びついている。その活動歴を踏まえれば、性暴力被害の朗読会にこの出演者の身体表現を配置する企画構成に対して、被害当事者から懸念が生じることは十分に理解可能である。
砂布均氏は「何らかのバイアスがないと繋げるのが不可能」と言った。しかし出演者の活動歴を踏まえれば、バイアスなど必要ない。この企画構成に懸念を抱くことは、偏見ではなく、事実に基づく合理的な判断である。
そして砂布均氏が「バイアスだ」「偏見だ」と攻撃し続けた結果、沖縄側はついに牧瀬氏の経歴を明かさざるを得なくなった。配慮して言わずにいたことを、言わせた。牧瀬氏のためにならないと分かっていたことを、言わせた。結果として配慮は維持されなかった。宮城氏の言葉を借りれば、「とても牧瀬さんを守ろうとしているようには思えない」のである。
「言わせた」だけではない。砂布均氏は公開を直接促してもいた。2026年1月28日、宮城氏は五宝光基氏の「論考」撤回を受けて経緯をまとめた文章の一部を投稿したが、「伏せたかった部分は黒塗りにしました」と配慮を示した。これに対して砂布均氏は1月31日、「全部出したらいいと思いますよ!」とコメントした。沖縄側が伏せようとしている情報の全面公開を、砂布均氏自身が促したのである。
砂布均氏は「村上さんと牧瀬さん全面支持」と宣言した。しかし結果として、砂布均氏の攻撃が沖縄側に牧瀬氏の経歴を公表させる引き金となった。沖縄側が配慮して伏せていたものを、砂布均氏自身が明るみに出させたのである。全面支持の対象を守る結果にはなっていない。
知らなかったのは誰か
この問いは砂布均氏だけに向けられるものではない。
村上薫氏は「2秒の視線」の関係者として牧瀬氏の出演を企画に含めた立場にある。牧瀬氏の活動歴を知らずに起用したのか。知らなかったのであれば、出演者の経歴を確認せずに性暴力被害の朗読会に配置したことになり、企画者としての責任が問われる。知っていたのであれば、沖縄側の懸念が合理的であることを理解していたはずであり、それを「排除」「明確な差別」と断定したことの意味はさらに重くなる。
MarikoCaroline Greet氏は、沖縄側の懸念を「バイアス」「偏見」と退け、宮城氏を「ヘイター」「レイシスト」と断定し、比嘉氏の性被害を「妄想」と嘲笑した。牧瀬氏の経歴を知っていたのか。知っていたのであれば、沖縄側の懸念に合理的根拠があることを知りながら、意図的に「職業差別」に矮小化したことになる。
Akane Ro Ja氏は、沖縄側を「ヘイトスピーチ」「検閲」「純潔思考」と断定した。運動圏内で牧瀬氏のストリップショーに通う男性たちがいたことを知っていたのか。知っていたのであれば、沖縄側の懸念が「純潔思考」ではなく具体的な根拠に基づくものであることを理解していたはずである。
そして、牧瀬茜氏本人の立場についても触れなければならない。
牧瀬氏は、自分自身の活動歴を誰よりも知る立場にある。過去にSM物を中心とした性的作品に出演し、性暴力を模した行為を性的娯楽として提供してきたこと。その時代からのファンが近年まで存在すること。これらを最もよく知っているのは牧瀬氏自身である。
その活動歴を踏まえれば、沖縄の性暴力被害の朗読会で身体表現を行うことに対して被害当事者から懸念が出ることは、予見可能であったと言わざるを得ない。にもかかわらず、牧瀬氏は事後にこの懸念を「職業差別」として退けた。しかし沖縄側の懸念は職業そのものに向けられたものではなく、企画構成に対するものであった。この点を最も理解しうる立場にいたのは、牧瀬氏本人であったはずである。
比嘉マリア氏は次のように述べている。「彼女自身が性被害者であることが今回の朗読会への出演への免罪符とはならない」。「牧瀬茜氏は自らの出演により精神的ショックを与えた加害者だという認識がないばかりか職業差別されたと限定投稿で語ったのは罪の上書きに他ならない」。
本稿は法的意味での加害性を断定するものではなく、企画構成の妥当性を検討するものである。
声明側は全員で「バイアスだ」「偏見だ」「職業差別だ」と主張してきた。しかし出演者の活動歴が明らかになった今、沖縄側の懸念を「偏見」と退けることは困難である。懸念には具体的な根拠があった。その根拠を知らなかったのであれば事実確認を怠ったまま「偏見」と断定したことになり、知っていたのであれば根拠の存在を隠して「偏見」と主張していたことになる。
典拠資料:宮城秋乃氏Facebook投稿(2026年1月28日、3月2日)、砂布均氏Facebook コメント(2026年1月31日)、比嘉マリア氏Facebook投稿(2026年3月3日)、牧瀬茜氏Facebook投稿
関連文書:
【声明側】
【沖縄側(論考シリーズ)】
