『「市民運動を分断する職業差別を許さない」1.31声明』に対する反論     (根拠提示・事実特定の要請)


本稿は、『「市民運動を分断する職業差別を許さない」1.31声明』の事実認定および論理構成を検証し、その評価を支える具体的根拠の提示を求めるものである。声明が用いる「職業差別」「排除」「人権侵害」といった強い評価語が、誰のどの発言に基づき、いかなる推論を経て導かれたのかを問い、あわせて、声明の構図そのものが何を見落としているのかを指摘する。

※ 1・4イベントをめぐる議論の経緯と争点整理は別途以下にまとめている。
https://note.com/alert_rose9948/n/n4930439f174e

1 冒頭部分の構図設定について

本声明の冒頭では、1・4イベントの概要説明に続けて、次のように断定されている。

Facebookで告知後、このイベントの中止を求める投稿が増え、その中には職業差別に基づく理由のものや、牧瀬さん個人を誹謗中傷・バッシングするものが多く見受けられ、現在さらに激化しています。このバッシングの大きな問題は、職業差別にもとづく攻撃が集中的に行われていることです。

「市民運動を分断する職業差別を許さない 」1.31声明

しかし、この書き方は重大な問題を含んでいる。第一に、「中止を求める投稿」と「職業差別に基づく誹謗中傷」が、区別されないまま一括して語られている点である。沖縄側から出されていた主な問題提起は、性暴力被害を扱う場の構成、朗読と身体表現の配置、告知の仕方、被害当事者への心理的配慮、安全性の確保といった、企画の文脈と構造に関する批判であった。これらがすべて「職業差別にもとづく攻撃」として総括されるのであれば、どの投稿のどの文言がそれに該当するのかを具体的に示す必要がある。
また声明は、

主催の発行したビラには「牧瀬茜」個人の名前のみで職業についての肩書きはありませんでした。

「市民運動を分断する職業差別を許さない 」1.31声明

とした上で、

「ストリップするのか?性的なパフォーマンスなのか?」との声があがりました。

「市民運動を分断する職業差別を許さない 」1.31声明

と続けているが、ここでも重要なのは、その声の中にどのような内容が含まれていたのかである。それが単なる事実確認であったのか、人格攻撃であったのか、職業を理由とした排除要求であったのか――これらは区別されなければならない。
さらに声明は、

にも関わらず、以下のような人格攻撃や差別的な中傷が繰り返された

「市民運動を分断する職業差別を許さない 」1.31声明

と述べているが、この段落の時点では、まだ具体的な投稿は一切示されていない。誰の、どの発言が、どの点で「職業差別」や「人格攻撃」に該当すると判断されたのか。それを示さずに「集中的に行われている」と総括することは、事実関係の提示としては不十分である。
本件で問われているのは、「誹謗中傷が存在したか否か」という抽象論ではない。誰が、いつ、どのような表現を用い、それがなぜ職業差別や人格攻撃に該当するのか――この四点を示して初めて、評価は成立する。
現段階では、本声明は「職業差別が主たる問題である」という結論を先に置き、そこにすべての批判を回収しているように見える。しかし後に主催者自身が、「沖縄の声を聞かずに実施したこと」「心理的安全を確保できなかったこと」を問題として認めている以上、この冒頭の整理は主催側の後日の認識とも整合していない。
まず必要なのは、中止を求めた声のうち、どの部分が職業差別であり、どの部分が企画の安全性を問う批判だったのかを峻別することである。それを行わずに一括して「職業差別によるバッシング」と位置づけること自体が、議論の出発点として不正確であると言わざるを得ない。

2 引用された投稿は「職業排除」なのか

声明では、宮城秋乃さんや石嶺香織さんの投稿を根拠に、「セックスワーカーを市民運動から排除しようとしている」「職業差別にもとづく攻撃が集中している」という評価を行っている。その根拠として提示されているのが、次の投稿群である。

①私たちは主催団体「2秒の視線」に対し米兵による性被害者たちに謝罪を求めるのと同時に、牧瀬さんが沖縄反基地運動関連で身体表現するのをやめて一参加者として参加するように求めます。

②なんで一部の人は性的娯楽を運動にまで持ち出して常に隣に置いておきたいの? 「そういう気分の男や女」が運動内にいたら気持ち悪いでしょうが。

③性的な姿を自分に見せてくれる相手に人は特段の情を持つことがあります。特段の情により思考が左右されたり、感情が論理より優先されることがあります。 もし「運動に性風俗・性的娯楽を持ち込まない」を運動内の人々が意識していたら、今回のことは起こらなかったかもしれない

④性暴力の被害者にとって、自身の被害が語られる場で、セックスワーカーがプチストリップ的な身体表現を伴い、それを制作やセックスワークの一環として朗読・表現することは、果たしてどのように映るでしょうか。

⑤米軍による性暴力を考える場に、普段ストリップを生業とする女性による身体表現パフォーマンスは不適切。

⑥買春者が堂々と、性暴力の議論に入ってくるのはキモいからやめてくれ。

「市民運動を分断する職業差別を許さない 」1.31声明

これらを精査すると、共通しているのは、特定の職業一般を社会運動から排除すべきだという主張や、セックスワーカーは運動に関わる資格がないという断定ではない。多くが問題にしているのは、性暴力を扱う場における身体表現の配置、その場の文脈との整合性、被害当事者への心理的影響、性的消費の文脈が持ち込まれることへの懸念といった、企画構成や演出の適切性である。
①の投稿も、「参加するな」と述べているのではなく、「身体表現の演目としてではなく一参加者として参加してほしい」という、出演形態への限定的な要請である。②③についても、「性的娯楽を運動に持ち込むこと」への批判であって、セックスワーカーという属性そのものを否定しているわけではない。④⑤も同様に、性暴力の文脈における表現配置の影響を問う内容であり、職業一般の排除要求とは読み取れない。⑥の表現についても、少なくともそこでも問題にされているのは「買春者が議論に参加すること」であって、セックスワーカーそのものを排除する趣旨ではない。
にもかかわらず声明は、これらの投稿をまとめて、「セックスワーカー排除を主軸とした攻撃」「職業差別に基づくバッシング」と位置づけている。ここで問われるべきなのは、これらのどの文言が、どの論理によって、「職業一般の排除」や「差別認定」に転換されるのかという点である。
少なくとも現時点では、これらの投稿のどこに「セックスワーカーは運動から排除されるべきだ」「職業だから発言資格がない」という一般化された主張が書かれているのかは明示されていない。声明は複数の投稿を束ねたうえで、そこにより強い意味づけ(職業差別・排除意図)を付加している。しかし、その意味づけが投稿本文から必然的に導かれるのか、それとも声明側の解釈の飛躍なのかは、区別されなければならない。
もし声明がこれらを根拠に「排除意図が明白」と断定するのであれば、該当箇所を原文で特定し、どの表現が、どの推論過程を経て、「職業排除」という評価に至ったのかを明確に示す責任がある。そうでなければ、企画の文脈や安全性への批判を、後から「職業差別」という枠組みに読み替えているとの疑念は払拭できない。

3 DM送付・共有の事実認定と「職業差別」への飛躍について

声明は次のように述べている。

「牧瀬茜さんの裸の写真をDMやLINEで送りつけた方もいます」
「その写真は『ストリップは性暴力だ』と謳う方々のグループのなかで共有されています」
「そういう人たちこそが『ストリッパーには何をしてもいい』と考えているのではないでしょうか」

「市民運動を分断する職業差別を許さない 」1.31声明

そしてこれらをまとめて、「セックスワーカーを排除しようとする意図が明白」「職業差別である」「セックスワーカーは性被害者の敵ではない」と結論づけている。
ここでまず区別しなければならないのは、違法または有害な個別行為の問題と、沖縄側から発せられた投稿全体の性格とを同一視できないという点である。
仮に、無断で裸の写真を送付・共有する行為が存在したのであれば、それ自体が重大な問題であり、個別に厳しく検証され、批判されるべきであることに異論はない。
しかし声明は、その行為を行った人物や集団を特定しないまま、「『ストリップは性暴力だ』と語る人々のグループ」、イベントを批判していた側、沖縄側からの問題提起とを一続きに連結し、最終的に「排除意図が明白」「職業差別である」と総括している。
だが、このような評価が成立するためには、誰が当該行為を行ったのか、その人物と沖縄側の投稿者との間にどのような関係があるのか、そしてどの投稿とどの行為とを結びつけているのか、これらを具体的事実によって示す必要がある。
それらが示されないまま、個別の不当行為をもって広範な批判者層全体の意図や性格を規定するのであれば、そこには明確な論理の飛躍が存在すると言わざるを得ない。
まず確認すべきは、そのDM送付や共有を行ったのは誰なのか、どの投稿者と結びつくのか、宮城さんや石嶺さんあるいは沖縄側の問題提起と実際に関係があるのか、どのような証拠で「グループ内共有」が確認されたのかという点である。これらが示されないまま、「そういう人たち」「排除しようとする側」と包括してしまえば、無関係の人々まで含めて差別者として位置づけることになる。
また声明は、「投稿者や送信者は『場の安全性の確保への配慮を訴えるためだった』と言っている」と記しているが、ここでも誰がそう述べたのか、どの投稿を指しているのかが示されていない。沖縄側の投稿群が主張していたのは、これまで見てきた通り、性暴力を扱う場の構成、身体表現の配置、被害当事者への心理的影響、告知や想定される観客層といった企画上の問題であった。それらと、無断写真送付という行為がどのように結びつくのかは説明されていない。
さらに声明は「これらは排除意図が明白である」「職業差別である」と断定しているが、ここでも問われるべきは、どの具体的文言が、どの論理を経て、「職業排除」や「差別認定」に至ったのかという点である。少なくとも、宮城さんや石嶺さんの投稿の中に、「セックスワーカーは運動から排除すべきだ」「職業だから発言資格がない」といった一般化された主張が存在することは、現時点では示されていない。
無断写真送付という深刻な行為があった可能性と、沖縄側が行ってきた企画批判とを、同一の構図にまとめて「排除意図が明白」「職業差別」と評価するのであれば、誰のどの行為を指しているのか、誰と誰を結びつけているのか、その接続の根拠は何かを具体的に示す責任がある。それがない限り、声明は個別の不当行為を根拠に、より広い批判者集団全体に「差別」という評価を付与していることになる。
最後に、「セックスワーカーは性被害者の敵ではありません」という一文についても、誰がその逆を主張したのかが示されていない。もしそのような発言が存在するなら、投稿の原文を示す必要がある。存在しないのであれば、この文は、沖縄側が採っていない立場を前提に議論を構成していることになる。
ここで求められているのは感情的評価の応酬ではなく、事実関係の特定、関係者の範囲の明示、論理の接続過程の提示である。この部分についても、声明側は誰のどの発言を根拠に、どのように「排除意図」「職業差別」という評価に至ったのかを、検証可能な形で説明する必要がある。

4 村上薫さんの評価と「排除」「差別」断定の根拠について

村上薫さんは次のように述べている。

「宮城秋乃さんの一連の投稿は…『セックスワーカーである牧瀬が、反基地・反性暴力の場に立つこと』への排除を主軸としたものに見えます」
「これは…特定の職業・身体・立場を『運動にふさわしくない存在』として排除する言説です」
「ストリッパーであるという理由で、表現や発言の場に立つ資格を否定することは、明確な差別です」

「市民運動を分断する職業差別を許さない 」1.31声明

ここでまず確認すべきなのは、これらは事実の引用ではなく、評価と解釈であるという点である。村上さんは「…に見えます」と述べつつ、最終的には、排除を主軸としている、運動にふさわしくない存在として排除している、明確な差別である、と断定的な結論に進んでいる。しかし、その判断がどの具体的投稿の、どの文言に基づいているのかは示されていない。
宮城さんや石嶺さんの投稿には、性暴力を扱う場で身体表現を行う構成の妥当性、被害当事者への心理的影響、告知や配置の問題、運動と性的表象の距離感といった企画上の文脈への懸念が書かれていた。そこから、「セックスワーカーは運動に参加するな」「職業ゆえに発言資格がない」という一般化された排除意図を読み取るには、論理の飛躍がある。
また、村上さんは次のようにも述べている。

「『性的である』『誤解される』『男性にとって都合がいい』『子どもを入れられない』――これらは、セックスワーカーが社会参加から締め出される際に使われてきたレトリックだ」

「市民運動を分断する職業差別を許さない 」1.31声明

しかし重要なのは、それらの言葉が今回どの投稿の、どの文脈で使われたのかという点である。過去に差別的に使われてきた言葉である可能性と、今回の文脈で企画構成への懸念として使われた可能性とは、区別して検討されなければならない。問題は単語そのものではなく、誰が、どの企画のどの配置を念頭に、どのような意味で使ったのかである。
さらに村上さんは「建設的な問題提起ではない」「排除する言説だ」「明確な差別だ」と評価しているが、この結論に至る論理の過程――どの文言を、どの基準で、なぜ「排除」や「差別」と位置づけたのかが示されていない。
とりわけ、「ストリッパーであるという理由で、表現や発言の場に立つ資格を否定すること」というまとめ方については、宮城さん・石嶺さんの投稿の中に、そのような資格否定が書かれていたのかが問われる。現時点で示されている引用の範囲では、「今回の構成は被害当事者にとって危険ではないか」「身体表現の配置は不適切ではないか」という文脈上の批判は確認できるが、「職業だから排除すべきだ」という一般原則を主張した投稿は確認されていない。
もし村上さんや声明側が、宮城さん・石嶺さんの投稿は「職業そのものを理由に排除を求めていた」と評価するのであれば、該当する原文の特定、どの箇所が排除要求に当たるのか、なぜ企画批判ではなく職業差別と読めるのかを具体的に示す必要がある。そうでなければ、企画の構成に対する批判が、いつの間にか「職業一般の否定」に置き換えられてしまうことになる。
ここで求められているのは、村上さんの感情や経験を否定することではない。問われているのは、その評価が誰のどの言葉に基づいて導かれたものなのか、そして他の読み取り可能性を排除できるだけの根拠があるのかという点である。声明や村上さんの文章が「排除」「差別」という強い評価語を用いる以上、それに見合う具体的根拠の提示が不可欠である。

5 「性被害者にも性風俗従事者がいる」「沖縄の声ではなく職業差別の声」という整理について

声明は次のように述べている。

「米軍による性被害者のなかにも、性風俗業に関わる方がいるのではないかと思います。」
「このような投稿を『差別ではない』と位置づけてしまうと、結果として…当事者が声を上げにくくなったり、運動に参加しにくくなったりする理由を生み出してしまうことになりはしないでしょうか。」
「イベント中止を求める声の根底にあるものは『職業差別』に基づくものでした。つまりこれらは『沖縄の声』ではなく『職業差別の声』です。」

「市民運動を分断する職業差別を許さない 」1.31声明

まず確認したいのは、この部分でも声明は、「ではないかと思います」「…ことになりはしないでしょうか」という推測形を用いながら、最終的には「沖縄の声ではなく職業差別の声である」と断定している点である。ここには論理の段差がある。
「性被害者の中に性風俗従事者がいる可能性がある」という一般論と、今回の批判投稿が「職業差別に基づく要求だった」という認定とは、別の論点である。後者を主張するのであれば、どの投稿の、どの文言が、なぜ「職業そのものへの否定」に当たるのかを具体的に示す必要がある。しかし現時点で声明は、宮城さん・石嶺さんの投稿のどの部分が「職業差別」に該当すると判断したのかを示していない。
さらに問題なのは、「つまりこれらは『沖縄の声』ではなく『職業差別の声』です」という整理である。これは、沖縄側から出された企画への批判や懸念を、出自や文脈とは切り離し、「差別の声」と再分類している表現である。ここで問われているのは、沖縄側の発言であるか否か、発言者が被害当事者であるか否かではなく、その内容が企画構成への批判なのか、職業一般の排除要求なのか、どちらなのかという点である。ところが声明では、その検証を飛ばしたまま、「根底にあるのは職業差別」と結論づけている。
また、「発信者が沖縄の人であっても、性被害者であっても、その内容が職業差別に基づく要求だった場合…」と書かれているが、ここでも前提となるのは「今回の要求は職業差別だった」という認定である。しかし、その前提自体が立証されていない。宮城さんや石嶺さんの投稿に書かれていたのは、性暴力を扱う場の構成、身体表現の配置、告知の仕方、心理的安全の確保といった具体的な企画上の問題であった。それを「職業差別の声」「沖縄の声ではない」と整理するのであれば、どの文言をどう読めば職業差別になるのか、企画批判ではなく職業否定と評価できる理由を検証可能な形で示す必要がある。
ここで指摘しているのは、性風俗業に従事する人々の被害や尊厳を軽視してよいという話ではない。問われているのは、今回の批判が「職業一般の排除」だったのか、それとも「この企画の構成への批判」だったのか、その区別が十分に行われていないまま、後者が前者に置き換えられていないかという点である。声明が「沖縄の声ではなく職業差別の声」と断定する以上、それを支える具体的事実の提示が不可欠である。

6 「制裁要求」「デマ拡散」「重大な差別・人権侵害」と断定している点について

声明は次のように述べている。

「職業差別を批判する声を『沖縄差別』と言い換え、自らを正当化するためにイベントや牧瀬茜さんに関するデマまで流し始め」
「宮城さんは主催に対して『(職業差別を批判した人への)制裁を行え』と要求しています」
「これらは牧瀬茜さん及びセックスワーカーに対する深刻で重大な差別・人権侵害です。」

「市民運動を分断する職業差別を許さない」1.31声明

ここでまず確認すべきなのは、この段落では複数の重大な事実認定が一挙に置かれているという点である。すなわち、「デマを流した」「職業差別批判を沖縄差別と言い換えた」「制裁を要求した」、そしてそれらが「重大な差別・人権侵害」であるという四点が断定されている。しかし、これらはいずれも非常に重い評価であり、主張する側には具体的根拠の提示が不可欠である。

このうち「制裁を求めた」という点については、宮城さんが主催団体「2秒の視線」に対し、誹謗中傷行為への対応を求める文脈で、次のように投稿していた事実は確認されている。

「毎日彼らの投稿をチェックし、誹謗中傷を見つけたら毎回注意し、それでも誹謗中傷をやめない場合は制裁を加えてください」

Facebook 宮城秋乃氏投稿(1月24日16:52)

しかし重要なのは、声明がここに「(職業差別を批判した人への)」という限定を付加し、制裁要求の対象を宮城さんの原文とは異なる形で再構成している点である。原文では、制裁の対象は「誹謗中傷行為を行う者」であり、「職業差別を批判した人一般」に向けられているとは読めない。にもかかわらず声明は、対象を拡張したかたちで記述し、それを前提に重大な差別・人権侵害という評価へと結びつけている。

この点は単なる言葉尻の問題ではない。制裁の対象が「誹謗中傷行為」なのか、それとも「職業差別を批判した立場そのもの」なのかによって、評価は根本的に異なるからである。したがってここで問われているのは、制裁要求の有無ではなく、声明が原文の趣旨をどのように読み替え、どの部分を付加したのかという点である。声明がこの部分を事実認定として提示するのであれば、なぜ原文の文脈を離れてそのような限定を付したのか、その根拠を説明する必要がある。

同様に、「デマを流した」「沖縄差別と言い換えた」「重大な差別・人権侵害である」とする各評価についても、誰のどの投稿を指しているのか、それが事実と確認できるのか、評価に至る論理過程は何かを、それぞれ原文に即して示す必要がある。

(追記)引用に「注釈」を付加して意味を再構成している問題――石嶺香織氏の件

同種の再構成は、声明が第三者の発言を引用する場面にも見られる。石嶺香織さんは、声明が自分のコメントを引用する際に、本人が書いていない注釈を括弧内に挿入し、意味を変質させたとして抗議している。

石嶺氏は次のように述べている。

「私は、牧瀬さんのストリップを見たことがある人を『買春者』などと書いていません。カッコ内の言葉は、勝手に入れられたものです。…引用文の改ざんはやめてください。」

(石嶺香織氏 2月1日 1:39)

実際、声明で現在は

「買春者が堂々と、性暴力の議論に入ってくるのはキモいからやめてくれ。(石嶺香織さん)」

「市民運動を分断する職業差別を許さない」1.31声明(修正後)

とされている部分について、声明発表当初には、

「買春者(=牧瀬さんのストリップを見たことがある人)が堂々と、性暴力の議論に入ってくるのはキモいからやめてくれ。(石嶺香織さん)」

「市民運動を分断する職業差別を許さない」1.31声明(発表当初)

という形で、括弧内の注釈が付されていたことが確認できる。

この「(=牧瀬さんのストリップを見たことがある人)」という注釈は、単なる補足ではない。引用対象の意味内容を、石嶺氏が実際に言及していた文脈("買春をしていると書いている男性が議論に入ってきた"という具体文脈)から切り離し、別の対象へと読み替える働きを持つ。結果として、石嶺氏が「ストリップ鑑賞者一般」を「買春者」と同一視して非難したかのような印象を生み、当人の意図・対象範囲を超えた再構成になり得る。

重要なのは、石嶺氏自身が「その注釈は自分が書いていない」「勝手に入れられた」と明確に否定している点である。もしこの抗議が事実であるなら、これは「解釈の相違」ではなく、引用に付加された注釈による意味の再構成(ひいては引用の改変)という重大な問題である。

そしてこの構造は、先に見た「(職業差別を批判した人への)」という限定の付加と同型である。いずれも、

  • 原文の対象や射程を、括弧書き等の付加によって拡張・変更し

  • その再構成された意味を前提に

  • 「デマ」「差別」「重大な人権侵害」といった重い断定へ接続している

という点で共通している。

したがって、声明が「デマを流した」「沖縄差別と言い換えた」「重大な差別・人権侵害である」といった評価を主張するのであれば、少なくとも次の点を原文に即して示す必要がある。

  • 誰の、どの投稿(原文)の、どの文言を指しているのか

  • それが事実として確認できるのか(原文と一致しているのか)

  • 評価に至る論理過程は何か

  • 括弧書き等で付加した限定・注釈がある場合、それを付す根拠は何か

これらが示されないまま断定だけが流通するなら、議論は検証不可能なまま固定化し、当事者性の高い安全配慮の論点自体が「差別」として再構成されていく危険がある。

7 声明の「法的問題なし」との主張について

なお村上薫さんは、当該声明について

「私も牧瀬さんもこの声明を認めています」

Facebook 村上薫氏投稿(2月1日0:45)

と明記したうえで、

「この声明の内容は弁護士により法的に問題ないことが確認されています」

Facebook 村上薫氏投稿(2月1日0:45)へのコメント(2月1日0:55)

と述べている。
これらの記載から、村上さんが当該文章の内容について少なくとも了承を与えていることは読み取れるが、「法的に問題ない」との評価については、どの原文に基づき、どのような推論を経てその結論に至ったのかが示されて初めて検証可能となる。とりわけ、本声明が宮城さんや石嶺さんの投稿内容をどのように引用し、どの部分を評価として付加しているのかが不明確なままである以上、「法的に問題ない」という主張それ自体も検証の対象とならざるを得ない。
もし実際には述べられていない内容を述べたかのように再構成し、それを根拠に特定の個人を差別的意図の主体として公に位置づけているのであれば、その適法性は当然に吟味されるべき問題となる。したがって声明側および当該発表に関与した者は、どの投稿のどの文言を根拠に、どのような評価を行ったのかを、検証可能な形で具体的に示す必要がある。

8 補論:実際に排除されたのは何だったのか ―― 身体表現ではなく、沖縄の声ではないか

本件において繰り返し用いられているのは、「セックスワーカーの排除」「表現の排除」「職業差別」という枠組みである。しかし、実際の経過を検討すると、少なくとも次の点は確認されなければならない。
第一に、当該イベントは最終的に中止されておらず、身体表現も実施されている。すなわち、「表現の場から排除された」という事実は、少なくとも結果としては成立していない。それにもかかわらず、声明は一貫して「排除が行われようとした」「排除の意図が明白である」という評価を前提として議論を構成している。ここには、事実関係と評価とのあいだにズレがある。
第二に、問題の中心にあったのは、身体表現そのものの存在ではなく、性暴力被害を扱う朗読の直後に身体表現を配置する構成、告知のあり方、心理的安全の確保が十分であったのかという点であった。実際、主催「2秒の視線」側は後日、「沖縄の声を聞かずに実施したこと」「心理的安全を確保できなかったこと」を問題として認めている。この整理は、沖縄側の問題提起が「職業一般の排除」ではなく、企画運営の在り方への批判であったことを裏づける重要な事実である。
第三に、こうした安全性や構成に関する懸念が提示されたにもかかわらず、声明においてはそれらの声が、「職業差別」「排除要求」「沖縄差別を装った攻撃」という枠組みの中に再配置されている。この再構成によって、企画運営への批判は、差別的動機による攻撃へと読み替えられた。結果として、沖縄側の問題提起そのものが正当な議論として扱われにくくなり、説明責任を一方的に負わされる構図が生まれている。
第四に、この構図のもとで、深刻な被害が生じているとの指摘が当事者から出ている。PTSDの発症や強い心理的負荷を訴える声が存在すること、声を上げられないまま沈黙を強いられている人がいることは、軽視できない。
もし本当に守るべきものが「被害当事者の尊厳」と「安全な場」であるならば、まず検証されるべきなのは、なぜ安全性への懸念が十分に受け止められなかったのか、なぜその声が「差別の告発」という枠組みに回収されていったのか、なぜ企画運営上の問題が十分に検討されないまま対立が激化したのかという点である。
少なくとも、現時点で確認できる事実関係に照らせば、実際に排除されたのは身体表現ではなく、沖縄側から出された安全性に関する声ではなかったのか、という問いは避けて通ることができない。「排除」という言葉を用いるのであれば、それは表現の実施が妨げられたか否かだけでなく、誰の懸念が議論の土俵から外され、どの声が正当な問いとして扱われなかったのかという観点からも検証されるべきである。
本件において真に必要なのは、新たなレッテル貼りや断罪ではなく、どの声がどのように扱われたのか、どの論点が切り捨てられたのか、その結果誰にどのような影響が及んだのかを事実に即して検証することである。声明が「排除」や「差別」という強い語を用いる以上、その言葉が何を指しているのか、そして同時に見落とされたものが何であったのかについても、等しく説明されなければならない。

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