勿忘草——わたしを忘れないで、という花の声
春先の野道で、小さな青い花を見つけたら、立ちどまってください。
直径一センチほどの、五弁の花。
中心はやさしい黄色で、まわりが澄んだ青。
群れて咲いている姿は、地面に落ちた小さな夜空のようです。
その花の名前を、ご存じでしょうか。
勿忘草。
「わすれなぐさ」と読みます。
英語では Forget-me-not。
ドイツ語では Vergissmeinnicht。
フランス語では Ne m'oubliez pas。
不思議なことに、世界のあちこちで、この花は同じ意味を持っています。
「わたしを忘れないで」
植物の名前にこれほど切実な祈りが宿っている例を、わたしは他に知りません。
なぜ、この花がそう呼ばれるようになったのか。
中世ドイツに、ひとつの伝説があります。
ある騎士が、恋人とドナウ川のほとりを歩いていました。
川辺に、見たこともない青い花が咲いていた。
恋人が「あの花が欲しい」と言ったので、騎士は降りていって、花を摘もうとしました。
ところが、足を滑らせて、川に流されてしまうのです。
流されながら、騎士は摘んだばかりの青い花を岸へ投げました。
そして、こう叫んだといいます。
「私を、忘れないで」
恋人はその花を髪に挿し、生涯、彼を忘れなかったのだそうです。
花言葉という文化が体系化されたのは、十九世紀のヴィクトリア朝イングランドです。
恋を口にすることがはばかられた時代、人々は花に思いを託しました。
バラを贈ることは情熱を、すみれを贈ることは慎ましさを、それぞれ意味した。
そのなかで勿忘草は、「真実の愛」「真実の友情」、そしてもちろん——「わたしを忘れないで」を背負って咲きつづけています。
アメリカ・アラスカ州の州花にも、カナダ・ニューファンドランドの戦没者追悼の花にも、選ばれています。
人類は、この小さな青い花に、ずいぶん長く、いろいろなものを託してきました。
「忘れないで」という言葉は、軽々しく口にできません。
それを言うとき、人は、自分が消えてしまうかもしれないと知っています。
死別、別離、忘却——いずれ訪れる別れの予感のなかで、ようやく搾りだされる言葉です。
その重い祈りを、たった一センチの、青く澄んだ花に託した中世の人々の感性を、わたしは美しいと思います。
花は、わたしたちより、ずっと長く忘れずにいてくれる。
わたしたちが消えてしまったあとも、毎年、春になれば、青い夜空を地面に咲かせてくれる。
わたしはこの花が好きで、ときどき物語に登場させます。
(どこに、どんなふうに、というのは、ここでは申しあげませんが)
どんな花にも、誰かの「忘れないで」が、ひそかに込められているのかもしれません。
あなたの心にも、ひとつ、青い花が咲いていますように。
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— 佐々原 亞子
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