【考察】人形浄瑠璃としてのJRPG――ドラクエⅦリ・イマジンドが到達した「情報の削ぎ落とし」と「魅せ方」のバランス
Ⅶリ・イマジンドのやり込み要素もだいたい到達し、ひと段落がしつつあるのでここで総括してみたいと思うっす。
8頭身という「情報の過多」への違和感
最近のRPG、特にドラクエ11やFF7リメイクといった大作をプレイしていて、僕はどこか喉に小骨が刺さったような違和感を拭えずにいた。
画面に映し出されるのは、毛穴の質感まで再現された「究極のリアル」。特にFF7リメイクたるや、説明不要である。しかし、キャラクターが8頭身のリアルな姿になればなるほど、(少なくとも)私の脳は「これは本物の人間か?」という冷徹なスキャンを始めてしまう。いわゆる「不気味の谷」である。人間はリアルな頭身なのに、スライムに代表される超アニメチックなモンスターデザインは健在な違和感もそこにある。


莫大なコストをかけてフォトリアルを追求しても、それは情報を「提示」しすぎてしまい、プレイヤーが入り込む余白――想像力の遊び――を奪っているのではないか?FF7リメイク・リバースを、当時のFF7オリジナルがリリースされた時ほどやり込みしなかったのは、単に社会人になり時間が足りないから、ゲームにかける可処分時間が足りないからだけではない気がしてならない。
僕たちが「等身」に求めていたもの
私たちの世代のドラクエ原体験には、「デフォルメ」があった。 初期の鳥山明デザインが描くドクタースランプ然り、ドラゴンボールのキャラクターたち然り。重心が低く、丸っこい。あの頃の悟空の、小さな身体が画面いっぱいに躍動する姿に、私たちは強い親しみとエネルギーを感じていた。

そこには情報の「欠落」があった。(ただしその欠落は究極のデザイナー鳥山明氏によって正しいデザインがなされたものである)だが、だからこそ私たちは、その小さな身体の動きに、生身の人間以上の躍動感や感情を、自分の想像力で補完(レンダリング)して楽しんでいたのである。

日本人が伝統的に備えている「見立て」のOS
この感覚は、日本人が古来より持っている「人形浄瑠璃」や「歌舞伎」、あるいは「落語」といった伝統芸能の感性にも通じる。
たとえば歌舞伎の舞台。何もない無垢な空間で、最小限の小道具のみを使い、その場の情景を鮮やかに立ち上がらせる。究極は扇子一本、手拭い一枚ですべてを表現してみせる落語の世界や、狂言がそれだ。抽象的な動きが物語の核心を象徴的に描き出す。そこには、演者の所作をトリガーにして、観客が自らの脳内で背景や重みを補完する「見立て」の文化がある。

この「見立て」の極致を、私は『シン・ゴジラ』の制作ドキュメンタリーの中に見た。 劇中に登場するゴジラのモーションキャプチャを担当したのは、狂言師の野村萬斎氏である。画面に映る萬斎氏は、小さなくちばしと、つけ尻尾という、極めて簡素な装備を身にまとっているに過ぎない。しかし、彼がひとたび狂言の「型」を持って動き始めた瞬間、そこには間違いなく、人智を超えた存在としてのゴジラが顕現していた。

情報の「欠落」こそが、観客の「想像」という最高のレンダリングエンジンを駆動させる。この高度な「見立て」の作法を知る日本人にとって、デフォルメされた記号から無限の感情を読み取ることは、極めて自然な営みなのである。
先日目撃した、アイドルマスター・如月千早の武道館単独公演も同様だ。ステージに立つのは3Dモデルの偶像(アイドル)だが、そこにはクリエイターの途方もない「想い」が込められ、最新のテクノロジーがその「仕草」を支えていた。すると、物理的なリアルを超えて「あ、そこに居る」という実在感が、観客の心に直接届いたのである。
「ドールルック」という発明
今回の『ドラクエⅦ リ・イマジンド』が採用した「ドールルック」は、まさにこの「見立て」や「人形劇」という伝統的OSを、現代の技術でアップデートしたものであったといえよう。
8頭身のリアルでもなく、ドット絵の記号でもない。「フィギュアのような人形」というルールをプレイヤーと共有することで、脳は不必要なリアリティチェックを止め、純粋に「物語」と「感情」に没入し始める。 人形をモデルとしつつ、その人形に多少の表情や「ふとした瞬間の仕草」を吹き込む。これはドット絵では描ききれなかった「情緒」と、リアルCGでは消されてしまう「想像力の余白」を両立させ、人形劇のさらに上をいく。人類は、全く新しい表現手法を手に入れたのではないかとさえ思う。
公式の動画をぜひみてほしい。ドール「ルック」と言いつつ、実際に職人さんが、本当にドールを制作するところからスタートしている。つまり鳥山明デザインをベースに、すこし頭でっかちな「お人形」として様式美が確立した状態。違和感なくキャラデザをおこなう作業を最初にやった状態なのだ。これはいわゆるひとマスにキャラを押し込む二次元表現と、8以降の等身表現との間を埋める、発明だ。


なぜ、今「7」だったのか――戦略的実証としての立ち位置
正直に言えば、私にとってドラクエとは、少年時代にどっぷりと浸かった「ロト三部作」、そして社会人になってからリメイクでその物語の深さに改めて触れた「天空三部作」で完結していた。正直、7はその存在を半ば忘れていたほどだ。
では、なぜ今、あえて7だったのか。ここからは私の完全な妄想だが、そこには冷徹かつ大胆な戦略が見え隠れする。
ロト、あるいは天空三部作は、スクウェア・エニックスにとって今後も絶対に失敗が許されない超強力IPであり、原点である。「聖域」ですらある。これらは一連の連続した物語としてある程度統一されたUIUXで制作される必要がある。当然ながらその売上規模も桁違いで、一つの作品で演出の方向性を誤れば、三部作すべてが共倒れになりかねない。
”そろそろ天空シリーズ、どうですかね〜”と、次なる大規模リメイクの計画が立ち上がる中、世界初挑戦となる「ドールルック」という手法をいきなり聖域に投下するのは、あまりにリスクが高い。
そこで選ばれたのが7ではないか。堀井雄二御大にとっても、世間的な評価からしても、「もう少しやりようがあったのではないか」という後悔が残るオリジナルの本作。この独立した世界観を持つ7こそが、新手法を世に問うための、そしてノウハウを蓄積するためにも、最高にして「ちょうど良い」実証の場だったのだと推察する。

次なる冒険への期待――天空シリーズへの最適解
この「実証」が成功した今、ドラクエ4、5、6のリメイクはすでに確実なものとして水面下で動いているはずだ。 ロト三部作に比べ、キャラクターの個性がより鮮明に、よりドラマチックに描かれる天空シリーズにおいて、このドールルック手法はまさに「最適解」となるだろう。
アリーナのおてんばな足蹴り、パパスの背負った重責、テリーの孤高な佇まい。 それらの心情や仕草を、不気味の谷という泥沼にリソースを浪費することなく、最も純粋な形で届けてくれるのは、この「人形劇を超えた人形劇」をおいて他にない。Ⅶで得られたことや、反省点を全てフィードバックした、令和の天空シリーズが、楽しみで仕方がない。
「リアルさ」ではなく「ストーリー」の大切さ。 ドラクエⅦリ・イマジンドが見せてくれたこの手法こそが、JRPGがストーリーを届けるための、未来の最適解ではないか?と感じるのである。
