最後の技術者たち:消えゆくIT伝統芸の記録(5)
第五話 FAX
紙一枚で金が動いた時代
本稿は、読者の問いから始まるドキュメンタリー風創作コラムです。実在の番組取材ではありませんが、かつて日本の技術現場に存在した空気と、現在のAI時代への問いを重ねて構成しています。
第一話では、ファジー制御について古代守さんに話を聞きました。
機械が、人間の『なんとなく』を理解しようとしていた時代。そこには、人間の曖昧さをバカにしない技術者の姿がありました。
第二話では、アセンブラについて真田志郎さんに話を聞きました。
レジスタ、番地、割り込み、クロック。機械語のとなりで、機械の都合を人間が引き受けていた時代の物語でした。
第三話では、COBOLについて沖田十三さんに話を聞きました。
そろばん、銀行数字、紙幣勘定、ATM、夜間バッチ、土地神話。COBOLは、銀行員の身体技術と社会の記憶を機械の中へ移していった言語でした。
第四話では、TRONについて徳川彦左衛門さんに話を聞きました。
国産OS、スーパー301条、通商戦争、Huawei、そしてAI神話。TRONは、社会の機関室を自分たちで設計しようとした技術者たちの記憶でした。
第五話で訪ねるのは、FAXです。
FAX。
いまでは、時代遅れの象徴のように扱われる機械です。
まだFAXを使っているのか。
なぜメールでは駄目なのか。
なぜクラウドに移行しないのか。
なぜ役所や病院や不動産会社には、あの機械が残っているのか。
そう問うのは簡単です。
けれど、その問いだけでは、FAXの本質には届きません。
FAXは、紙を送る機械ではありませんでした。
責任を送る機械でした。
今回、読者から寄せられた問いは、こういうものでした。
『FAXはもう古い技術のはずなのに、日本ではなぜここまで長く残ったのでしょうか。単なるデジタル化の遅れなのでしょうか。それとも、紙で届くこと自体に、何か社会的な意味があったのでしょうか』
この問いをたどるために、私たちは一人の元通信機器技術者を訪ねました。
郊外の小さな住宅地。
古い電話線が今も壁を這う家の一室に、相原義一さん、七十四歳が暮らしています。
相原さんは、かつて電電公社系の通信機器メーカーで働き、その後、自治体、病院、銀行、不動産会社向けにFAX回線、複合機、帳票送信システムの導入支援に関わってきました。
作業机の上には、感熱紙FAX、モジュラージャック、電話回線試験機、送信結果レポート、古い不動産売買の資料、住宅ローン仮審査の申込書、病院の紹介状、保健所宛の報告用紙が積まれていました。
相原さんは、黄ばんだ送信結果レポートを手に取り、静かに言いました。
『FAXというのはな、紙を送る機械ではない。責任を送る機械じゃった』
責任を送る機械。
その言葉を聞いたとき、FAXという古い装置の姿が、少し違って見えてきました。
FAXが鳴る。
受話器の向こうで信号音が鳴り、機械が紙を吐き出します。
ジジジジジ。
ゆっくりと紙が出てきます。
そこには、文字があります。
数字があります。
社判があります。
手書きの修正があります。
『至急』と赤字で書かれた文字があります。
余白には、誰かの癖のある筆跡があります。
相原さんは、古い感熱紙を広げました。
印字は薄れ、端は丸まり、ところどころ黒ずんでいます。
『メールはな、画面の中にある。消そうと思えば消せる。見なかったと言うこともできる。けれどFAXは出てくる。紙が机に落ちる。誰かがそれを拾う。机の上に置かれる。赤ペンで丸がつく。判子が押される。そうなると、もう見なかったとは言いにくいんじゃ』
FAXは、情報を紙に変えました。
紙になると、人間は安心します。
届いた気がする。
確認した気がする。
処理した気がする。
責任の所在が見えた気がする。
その『気がする』を、日本社会は長く信じてきました。
銀行では、FAXで融資資料が送られました。
不動産会社では、FAXで土地の図面や価格表が届きました。
病院では、FAXで紹介状や検査依頼が送られました。
役所では、FAXで申請書や報告書が流れました。
会社では、FAXで発注書、見積書、納品書、契約書の写しが送られました。
相原さんは、古い不動産資料の束を指で叩きました。
『バブルのころはな、FAX一枚で空気が変わった。地図が送られてくる。坪単価が書いてある。手書きで【至急】とある。支店ではそれをコピーして、稟議に挟む。紙が一枚増えるたびに、話が本当らしくなっていくんじゃ』
紙が一枚増えるたびに、話が本当らしくなる。
それは、恐ろしい言葉です。
FAXで届いたから本当。
社判があるから本当。
手書きの訂正があるから本当。
送信時刻があるから本当。
送信結果レポートがあるから本当。
もちろん、本当である保証などありません。
けれど、人間は、紙になった情報に弱いのです。
相原さんは言います。
『人間はな、情報そのものより、情報が乗っている器を信用することがある。昔なら紙じゃ。今なら認証済みアカウントじゃな』
ここで、FAXの話は現代へつながります。
かつては、FAX一枚で億単位の金が動きました。
土地売買。
住宅ローン。
不動産担保。
株式注文。
会社間取引。
緊急発注。
病院間連絡。
行政報告。
紙一枚が届いた。
誰かがそれを見た。
誰かが判を押した。
誰かが電話で確認した。
誰かが稟議に挟んだ。
その瞬間、情報は手続きになりました。
手続きになった情報は、金を動かします。
相原さんは、少し目を細めました。
『FAXはな、通信機器というより、手続きの起爆装置じゃった。届いた紙を見て、人が動く。人が動けば、金も動く。土地も動く。患者も動く。役所の書類も動く。あれは、紙の形をした号令じゃ』
紙の形をした号令。
それは、日本社会の奥深くに染み込んだ感覚でした。
メールではなくFAX。
クラウドではなくFAX。
WebフォームではなくFAX。
なぜか。
そこには、技術的な理由だけではなく、組織の心理がありました。
FAXなら、紙が残ります。
送信結果が残ります。
受信した紙をファイルできます。
そこに判子を押せます。
コピーして回覧できます。
誰かの机に置けます。
そして、何かあったときに言えます。
『ここに紙があります』
相原さんは、少し笑いました。
『FAXが好きだったんじゃない。紙が好きだったんじゃ。もっと言えば、紙に責任を預けるのが好きだったんじゃ』
この言葉は、FAXをめぐる日本型DX批判の核心に近いものです。
FAXが残ったのは、単に古いからではありません。
使いやすいからでもありません。
セキュリティが高いからでもありません。
紙が出るからです。
紙が出ると、人間は安心します。
責任を目で見える場所へ置けるからです。
ところが、危機の時代になると、その古い通信兵器は再び前線に呼び戻されます。
コロナ禍。
医療機関。
保健所。
自治体。
検査機関。
報告書。
発生届。
入院調整。
患者情報。
日本社会がデジタル化を語っていたそのとき、現場のどこかではFAXが鳴り続けていました。
相原さんは、低い声で言いました。
『感染症の時代になっても、FAXは鳴った。人間は未来へ進んだつもりでおったが、危機になると、古い通信兵器を倉庫から引っ張り出すんじゃ』
それは笑い話ではありません。
危機になると、人間は最後に、自分が本当に信用している仕組みに戻ります。
日本社会が本当に信用していたのは、クラウドではなかったのかもしれません。
APIでもなかったのかもしれません。
データ連携基盤でもなかったのかもしれません。
紙でした。
送信済みの紙。
受信済みの紙。
押印された紙。
回覧された紙。
ファイルされた紙。
そこに責任があると信じたのです。
しかし、時代はさらに変わりました。
FAX一枚で金が動いた時代から、SNSの数行で市場が動く時代へ。
紙は、画面に変わりました。
送信結果レポートは、投稿時刻に変わりました。
社判は、認証マークに変わりました。
稟議書の余白は、リポストの数に変わりました。
けれど、相原さんは首を横に振ります。
『変わったのは速度と距離じゃ。人間の中身は、あまり変わっておらん』
昔は、FAX一枚で支店がざわつきました。
いまは、SNSの数行で市場がざわつきます。
昔は、社判のある紙を人は信じました。
いまは、認証マークのついたアカウントを人は信じます。
昔は、『至急』と書かれたFAXで担当者が走りました。
いまは、トランプ、マスク、アルトマンの数行の発言で、投資家が走ります。
株価が動く。
為替が揺れる。
時価総額が吹き飛ぶ。
関連銘柄が連鎖する。
ニュース速報が走る。
AI関連株が跳ねる。
半導体株が沈む。
社債市場がざわつく。
情報の形は変わりました。
しかし、人間が情報を信じ、金を動かし、責任をどこかへ押しつける構造は、驚くほど変わっていません。
相原さんは、机の上の送信結果レポートと、スマートフォンの画面を交互に見ました。
『昔はな、FAX一枚で支店が震えた。いまは、SNSの数行で世界の市場が震える。紙から画面に変わっただけで、人間の信じやすさは、ちっとも変わっておらん』
情報戦争。
その言葉は、現代のSNSだけのものではありません。
FAXの時代にも、情報戦争はありました。
誰が先に情報を送るか。
誰にだけ送るか。
何時何分に送るか。
どの資料を添付するか。
どの数字を太字にするか。
どこに手書きで『至急』と書くか。
どの相手に先に電話を入れておくか。
FAXは、遅いように見えて、十分に速い兵器でした。
一つの支店、一つの役所、一つの病院、一つの不動産会社、一つの本部に、紙として着弾する。
そして、人が動く。
相原さんは言います。
『FAXにも射程があった。送信先の番号が射程じゃ。SNSには、それがない。誰に届くか分からない。どこで燃えるか分からない。昔のFAXは狙撃だった。今のSNSは、空中散布じゃ』
狙撃から、空中散布へ。
情報の戦いは、広がり、速くなりました。
その代わり、責任の所在はぼやけました。
FAXには、送信元がありました。
送信先がありました。
送信時刻がありました。
送信結果レポートがありました。
もちろん、それでも誤送信はありました。
紙詰まりもありました。
送ったつもりで届いていないこともありました。
番号を一つ間違えれば、見られてはいけない相手に届くこともありました。
それでも、FAXには痕跡がありました。
SNSにも痕跡はあります。
しかし、その速度は、人間の検証を追い越します。
投稿される。
拡散される。
市場が反応する。
スクリーンショットが保存される。
削除される。
否定される。
解釈が広がる。
別の投稿が上書きする。
その間に、金は動いてしまいます。
相原さんは、古いFAXの受話器を持ち上げました。
『FAXは古い。たしかに古い。だが、古い通信には古いなりの重さがあった。紙が出るまで待つ。読み取る。確認する。電話を入れる。誰かに回す。その遅さが、歯止めになることもあったんじゃ』
遅さが、歯止めになる。
現代の情報環境は、その歯止めを失いました。
速いことは、良いことです。
リアルタイムであることは、便利です。
世界中へ一瞬で届くことは、強力です。
しかし、速い情報は、速く間違えます。
速く誤解されます。
速く金を動かします。
速く怒りを生みます。
速く神話を作ります。
速く暴落を起こします。
FAXの時代、人間は紙を見てから動きました。
SNSの時代、人間は画面を見る前に、市場が先に動くことがあります。
そこに、現代の情報戦争の怖さがあります。
相原さんは、しばらく黙っていました。
そして、こう言いました。
『昔は、紙が届いてから責任が始まった。今は、投稿された瞬間に責任が世界中へ散る。けれど、散った責任を誰も拾わん。そこが怖いんじゃ』
FAXは、責任を紙に貼りつける装置でした。
SNSは、影響力を拡散する装置です。
責任と影響力は、本来、同じ場所にあるべきものです。
ところが現代では、影響力だけが高速化し、責任は後ろから歩いてきます。
ときには、責任は来ません。
訂正。
削除。
釈明。
補足。
沈黙。
次の投稿。
それで、前の情報の跡だけが市場や社会に残ります。
相原さんは、古い送信結果レポートを机に戻しました。
『FAXの時代がよかったと言っておるわけではない。あれも誤送信だらけじゃった。紙も詰まる。感熱紙は消える。電話代もかかる。夜中に鳴れば腹も立つ。けれどな、少なくとも、誰がどこへ送ったのかを見ようとする作法はあった』
作法。
この言葉が、FAXの時代をよく表しています。
送り状をつける。
宛先を書く。
枚数を書く。
送信後に電話する。
届いたか確認する。
担当者の机に置く。
ファイルする。
原本を送る。
控えを残す。
非効率でした。
けれど、非効率の中には、人間が情報を扱うための摩擦がありました。
摩擦は、悪いものばかりではありません。
摩擦があるから、立ち止まります。
摩擦があるから、確認します。
摩擦があるから、責任の場所を意識します。
摩擦をすべて消した社会は、便利になります。
しかし、便利になった社会では、誤った情報も摩擦なく走ります。
ここで、FAXを笑っている場合ではありません。
FAXは、日本型DX敗戦の象徴として笑われてきました。
それは、たしかに正しい面があります。
行政がFAXに依存したこと。
医療現場がFAXで疲弊したこと。
銀行や不動産会社が紙の文化を引きずったこと。
会社がメールやシステムよりFAXを信用し続けたこと。
批判されるべき点はあります。
けれど、FAXを笑っている人間が、認証マークのついた数行の投稿で株を買い、売り、怒り、騒ぐのであれば、話は別です。
紙に弱かった人間は、画面にも弱い。
社判に弱かった人間は、認証マークにも弱い。
『至急』に弱かった人間は、『速報』にも弱い。
FAXを笑うだけでは、現代のSNS情報戦争を見誤ります。
なぜなら、FAXを信じた人間と、SNSの数行に反応する人間は、同じ人間だからです。
紙に弱かった人間は、画面にも弱い。
社判に弱かった人間は、認証マークにも弱い。
『至急』に弱かった人間は、『速報』にも弱い。
送信結果レポートに安心した人間は、スクリーンショットにも安心する。
情報の器が変わっても、人間の弱点は残ります。
相原さんは、最後に一枚の白紙をFAXに差し込みました。
古い機械が、かすかな音を立てます。
『この機械は、もう古い。だがな、古い機械を笑う前に、考えたほうがいい。わしらは、本当に情報を扱えるようになったのか。それとも、紙に騙されていた時代から、画面に騙される時代へ移っただけなのか』
紙に騙されていた時代から、画面に騙される時代へ。
その言葉は、FAXの終わりではなく、現代情報社会の始まりを指していました。
FAXは、消えゆく技術です。
けれど、FAXが残した問いは消えていません。
情報は、どの形になると信じられるのか。
責任は、どこに宿るのか。
送った者は、どこまで責任を持つのか。
受け取った者は、どこまで確認するのか。
情報が金を動かすとき、誰がその引き金を引いたのか。
その問いは、FAXの時代よりも、SNSの時代の方が重くなっています。
一枚の紙が金を動かした時代。
数行の投稿が市場を揺らす時代。
どちらも、情報が人間を動かし、人間が金を動かす世界です。
FAXは、古い通信機器ではありません。
日本社会が、紙に責任を貼りつけていた時代の記憶です。
そしてSNSは、その責任を剥がしたまま、影響力だけを世界へ飛ばす装置になりました。
相原義一さんは、古い送信結果レポートをこちらに差し出しました。
そこには、日付、時刻、送信先、枚数、結果が印字されています。
相原さんは言いました。
『まず、送信結果レポートを見せてもらおう。そこに、誰が、いつ、どこへ、何を撃ったのかが残っておる』
第五話、FAX。
それは、紙一枚で金が動いた時代の物語です。
そして、紙から画面へ、送信済みから投稿済みへ、情報戦争の形が変わっていった時代の物語でもあります。
FAXは、古い機械ではありません。
情報に責任を持たせようとしていた時代の、最後の通信兵器なのです。
次回は、FORTRAN。
死んだと言われながら、いまもスーパーコンピュータと科学技術計算の奥底で走り続ける、数式の言語を訪ねます。
文・武智倫太郎
