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政商列伝:鮎川義介・日産創業者が見た夢と破綻の影

鮎川義介と日産の歴史

 鮎川義介(1880年生まれ)は、日本の実業家であり、日産コンツェルンの創始者として広く知られています。山口県出身の彼は、満洲(現在の中国東北部)における大規模な産業開発や日産コンツェルンの形成に深く関与し、その巨大な影響力ゆえに『満洲の政商』と称されました。本稿では、鮎川義介の生い立ち、業績、そして晩年に至る評価について簡潔にまとめます。

 鮎川義介に関する伝記は多数出版されており、彼は政商としての功罪や、A級戦争犯罪容疑の観点から、多角的に評価されてきた人物です。本稿では、その詳細な評価を取り上げるのではなく、豆知識として簡潔にまとめた内容をお届けします。

 一般社団法人 日本自動車工業会の報告によると、2023年の日本における自動車輸出金額は21.6兆円、自動車関連産業の就業人口は約558万人に達します。この就業人口は、日本国内の全就業人口のおよそ1割に相当します。さらに、自動車関連業をすでに退職した団塊の世代やその家族を考慮すると、自動車産業が日本社会に与える影響は計り知れません。

 つまり、本稿に記載されている内容は、日本国内においては、自動車産業の基礎知識として理解されているべき常識の範疇です。

日産の形成と歴史
 現在の日産が直面している経営危機の背景には、鮎川義介の創業理念や日産の企業形成の過程も影響しています。そのため、日産不要論を理解するには、こうした基本的な知識を押さえることが重要です。

 日産自動車の歴史は、1931年にダット自動車製造株式会社を買収したことから始まります。日産の源流は、1911年に創業された快進社自働車工場に遡り、ダット自動車商会、そしてダット自動車製造へと発展しました。1933年には、戸畑鋳物株式会社がダットサンの製造権を取得し、自動車製造株式会社を設立。その翌年、日産自動車株式会社と改称されました。

 アメリカや新興国では、現在でも日産ブランドよりダットサンブランドの方が、一部地域で知名度が高いことがあります。一方、日産は高級車ブランド『Infiniti』を立ち上げ、高級感のあるイメージを確立することで市場での地位向上を目指しました。この戦略は、トヨタの『Lexus』が成功を収めた事例を参考にしたものといえます。ただし、日本国外におけるNISSANブランドの価値は、Datsunを上回るかもしれませんが、Infinitiには及ばないと評価される場合もあります。

 1971年にサファリラリーで優勝したDatsun 240Zは、サーキットレースにも出場しながら一般公道も走行可能な車として注目を集めました。このような性能により、Datsunブランドはスポーティで信頼性の高いイメージを築き上げました。また、Datsun Truck(日本では『ダットラ』と呼ばれる)は、海外でもカーマニアの間で高い評価を受けており、日産ブランドよりもDatsunブランドの方が価値のあるケースも見られます。

 ただし、これは1970年代の話であり、社歴90年を迎えた日産も、半世紀前には輝かしい栄光を誇っていた時代があったというエピソードです。その栄光をいまだに忘れられない日産の姿は、パンチドランカーになりながらもボクシングへの情熱を捨てきれないカーロス・リベラ(Carlos Rivera)のようなものです。

 ちなみに、このカーロス・リベラはカルロス・ゴーン(Carlos Ghosn)を引っかけたジョークでもあります。なお、『カーロス』も『カルロス』も英語では共に『Carlos』と綴ります。

技術の日産:幻想と現実
『技術の日産』というキャッチフレーズは、日産が長年にわたってコマーシャルで使用してきたもので、いわば自称に過ぎません。実際、国際的に日産の技術力が高く評価されているわけではないのです。私自身の評価では、日産の技術力はマレーシアのプロトンと比べ、若干高い程度にとどまります。

 こうした技術力の不足は、同社の競争力低下にも如実に表れています。そのため、日産が再び競争力を取り戻すためには、技術力の向上が不可欠でしょう。そして、この課題に真摯に取り組むことこそが、再生の出発点となると考えられます。

 ところが、『技術の日産』というキャッチフレーズの影響から、日産の技術力が高いと誤解している日本の消費者が一定数いることは問題です。さらに、社内教育を通じて、いわば『日産カルト』ともいえる思い込みが助長され、技術者までもが自社の技術力を過大評価している現状には危機感を覚えます。

技術力への正しい認識と経営の取捨選択
 まずは、日産が自社の技術力が十分とはいえない現実を直視する必要があります。そうした認識をもって初めて、『遅れた技術を見直すべきか』『技術力を磨いて競争力を高めるべきか』といった経営上の意思決定が可能になるのです。また、技術力に限らず、ブランド力や販売力などを含めた自社の強みと弱みを正確に把握していないことこそが、現在の日産が直面する最大の課題といえるでしょう。

1.鮎川義介の生い立ちと初期の経歴

山口県に生まれた背景と家族
 鮎川義介は、旧長州藩(山口県)に由来する家系に生まれました。長州藩は幕末維新の中心的な勢力として知られ、明治維新以後も政治や産業の分野で多くの人材を輩出しています。

 特筆すべきは、母親が明治の元勲・井上馨の姪にあたることです。この血縁を通じて、政界・財界とのつながりを得やすい環境にあったとされています。長州閥の人脈を背景とし、若い頃から国家の近代化や産業振興の重要性を深く意識したといわれています。

東京帝国大学工科大学機械科での学び
 鮎川は、当時の最高学府である東京帝国大学(現・東京大学)工科大学機械科を卒業しました。在学中は工学の基礎を徹底的に学びつつ、技術の実用化や産業振興の可能性に強い関心を抱いたといわれています。こうした経験が、のちに彼が技術と経営を融合させた独自の経営手法を生み出す下地となりました。

芝浦製作所(現・東芝)への就職と渡米経験
 大学卒業後、鮎川義介は芝浦製作所(現・東芝の前身)に就職し、機械技術者としてキャリアをスタートさせました。この職場で研究開発や製品製造に従事し、日本のものづくりの現場を経験しました。

 その後、鮎川はアメリカに渡り、グールド・カプラー社の可鍛鋳鉄工場で働き、可鍛鋳鉄技術を習得しました。この経験は帰国後の事業活動に大きな影響を与えました。彼は海外で得た知見を基に、国内外の産業構造の違いを理解し、将来のビジョンを具体化させたとされています。

戸畑鋳物の創立と日産コンツェルンの形成

戸畑鋳物株式会社の設立
 1910年、鮎川義介は福岡県戸畑(現・北九州市戸畑区)に戸畑鋳物株式会社を設立しました。この会社は可鍛鋳鉄製品を製造し、鉄道や船舶、機械などの需要に対応する基盤的な産業として成長しました。鮎川は製造プロセスを改良し、生産規模を拡大しました。

久原鉱業の社長就任と『日本産業(通称・日産)』への改称
 戸畑鋳物での成功を基盤に、鮎川は久原鉱業の経営にも携わるようになりました。当初は久原房之助が設立した鉱業会社でしたが、鮎川が社長に就任後、事業多角化を進め、鉱山業から製造業や化学工業へと領域を拡大していきます。こうした大規模な拡張により、1934年に『日本産業株式会社(通称・日産)』へと改称しました。

 日産は銅や石炭の採掘を基盤としつつ、鉄鋼や機械製造、化学工業など幅広い分野に進出。その拡大は、国の産業政策や軍需需要を背景に急速に進み、やがて『日産コンツェルン』と呼ばれる巨大企業グループが形成されました。

3.満洲での活動と『満洲の政商』

『弐キ参スケ』の一角として
 1930年代、日本が満洲(中国東北部)における支配を強める中で、鮎川義介は大陸での大規模産業開発を主導する立場に立ちました。その際、昭和10年代に満洲で大きな権勢を誇った5人の人物は『弐キ参スケ』と呼ばれています。

弐キ:東條英機(関東軍参謀長、のち首相)、星野直樹(満州国総務長官)
参スケ:岸信介(満州国総務庁次長、戦後首相)、松岡洋右(満鉄総裁、のち外相)、そして鮎川義介(満洲重工業開発総裁)

 この呼称には揶揄や批判的なニュアンスが含まれており、5人は終戦後にA級戦犯容疑で巣鴨プリズン(巣鴨拘置所)に収容されたという共通点もあります。

満洲国成立と大陸への進出
 1932年、関東軍の主導で満洲国が成立し、日本は満洲を『資源の宝庫』として位置づけました。鮎川は、日本産業を満洲に本格展開させ、大陸での事業拡大を図ります。この決断には、戦略物資の確保や軍需産業の発展を目指す日本政府・軍部の思惑が大きく影響しました。

満洲重工業開発株式会社(満業)の設立と推進役としての鮎川
 1937年、鮎川は満洲重工業開発株式会社(通称・満業)を設立し、初代総裁に就任します。同社は鉱山や製鉄所、化学工場などを統合し、重工業の効率的な発展を目指しました。日中戦争や太平洋戦争期には、軍需産業を支える大きな役割を果たすことになります。

 しかし、この過程では軍部との思惑の食い違いが生じました。鮎川は当初、アメリカ資本を導入することで満洲をアメリカのように大規模に発展させたいと考えており、総額30億円(現在価値で数兆円規模)の投資計画を構想、うち10億円をドル資金に依存する青写真を描いていたのです。

 ところが、当時の日米関係の急激な悪化や、軍部が対ソ戦を睨んで満蒙開拓団による『兵農兼業』型の大量移民政策を推進したことなどが障壁となり、外資導入構想は頓挫しました。こうした鮎川の『満洲をアメリカのカネでアメリカのようにする』夢と、軍部の戦略的思惑はしばしば『同床異夢』と呼ばれ、最終的には軍部が主導権を握る形となりました。

 一方で、満洲での経済活動は日本の侵略政策や搾取と表裏一体であったとの指摘も根強く存在します。実際、労働力の確保には強制的な手法が用いられるなど、満洲国支配の負の側面を考慮する必要があります。

4.戦後の活動と晩年

GHQによる逮捕と戦犯容疑
 第二次世界大戦終結後、GHQは日本の財閥や軍需企業に対する追及を進めました。鮎川義介も経済活動への関与から拘束され、約20か月間にわたり拘置生活を送りましたが、最終的に不起訴処分となり釈放されました。この間、GHQは財閥解体を推進し、日産コンツェルンは持株会社の分割や主要企業の独立など、大規模な組織再編を余儀なくされました。

中小企業への貢献と政界への進出
 釈放後、鮎川は実業家としての経験を活かし、中小企業の振興や新産業の育成に尽力しました。特に、地域密着型の産業を活性化させるプロジェクトに関与し、戦後復興期において重要な役割を果たします。1953年には参議院議員に当選し、経済政策に携わりつつ、産業界と政治の橋渡し役として活動を続けました。

満洲の遺産と周恩来首相の言及
 終戦後、日本が満洲や朝鮮に残したインフラや技術者は、中国や北朝鮮に引き継がれました。後年、中華人民共和国の初代総理(首相)である周恩来が、『日本人には何も有難いことをしてもらっていないが、満洲の遺産を無傷で、留用技術者つきで譲り受けたことには感謝している。この点について鮎川氏にお礼を言いたい』と述べたと伝えられています。鮎川自身も晩年の著述でこのエピソードに触れ、『見果てぬ夢』に終わった満洲の開発構想を、誇りと無念さの入り混じった感情で振り返っています。

晩年と死去
 1967年、鮎川は86歳でこの世を去りました。晩年まで産業振興や技術革新への情熱を失うことなく、若い世代の育成にも力を注いだとされています。その死は、明治から昭和にかけての日本の産業発展を支えた人物の生涯を象徴するものでした。

鮎川義介の評価

『政商』としての評価
 鮎川義介は、政府や軍部との密接な関係を活用して事業を急速に拡大したことから、『政商』として批判を受ける一面があります。特に、満洲での活動は日本の侵略政策と密接に関連し、軍事政策を支える産業インフラの整備に大きな役割を果たしました。鮎川自身が、関東軍や満洲国政府と太いパイプを築き、資金や資源、人材を優先的に確保した事実は否定できません。また、労働力の強制的な動員など、現地住民を巻き込んだ搾取の側面も指摘されています。

日本の近代産業発展に寄与した実業家としての側面
 一方で、鮎川の業績を肯定的に評価する見方も存在します。戸畑鋳物や日産コンツェルンは、鉄鋼、機械、化学産業など多様な分野で日本の工業化を支え、アメリカから学んだ生産管理技術を日本に導入して大量生産や経営効率化を促進しました。

 戦後は、中小企業の振興や復興政策に注力し、自らが築いた財閥構造とは異なる形で日本経済の再建に貢献しています。参議院議員としての活動も含め、日本が再び世界的な産業競争力を持つ国へと成長するための基盤づくりに力を注いだともいえます。

歴史的意義と現在への影響
 鮎川義介の活動は、日本の近代産業史において重要な位置を占めています。明治期から昭和期にかけて、日本が急速な工業化を達成し、国際的な競争力を獲得する過程で、彼の事業戦略と技術革新は大きな役割を果たしました。また、満洲での活動は『政商』という言葉で象徴されるように、経済と政治が密接に絡み合った時代の一端を如実に示しています。彼の生涯は、日本の近代化がいかにして進められ、その過程でどのような光と影が生じたかを理解する上での貴重なケーススタディとなるでしょう。戦後の復興期における彼の活動は、現在の日本が持つ産業構造や国際的な経済的地位を考えるうえでも欠かせない一部であり、同時に戦時下の活動の負の側面を踏まえた公正な評価が求められる人物でもあります。

まとめ

 鮎川義介は、明治・大正・昭和という激動の時代を生き抜き、技術者としての専門知識を基盤に、政治家や軍部との協力を通じて巨大な事業グループを築き上げた実業家です。その生涯には、日本の産業発展を支えた多大な功績と、戦時下における責任を問われる側面の両方が存在しました。

 特に『弐キ参スケ』の一角として推進した満洲開発や、外資導入の構想と軍部との対立は、当時の政治・軍事・経済がいかに密接に絡み合っていたかを示す象徴的な事例です。戦後、鮎川は財閥解体の影響を受け、GHQの追及にも直面しましたが、中小企業支援や参議院議員として日本の復興に尽力しました。

 また、周恩来首相が『満洲の遺産を無傷で引き継げたことへの感謝』を述べたというエピソードは、鮎川の抱いた『見果てぬ夢』に対する一種の皮肉であるとともに、近代日本史の複雑な遺産を象徴するものとして語り継がれています。

 鮎川義介の功罪を総合的に捉えることで、近代日本の産業発展が持つ光と影、そして現代への教訓を得ることができます。彼の人生は、経済、政治、技術がいかに密接に結びついていたかを示す、激動の時代の象徴的な物語です。

日産の企業体質と日本の課題
 日産の企業体質には創業時からの課題が指摘されています。それは、日本政府や戦争を利用して事業を拡大し、財閥解体後も政府への依存を続けてきたという点です。このような体質を改善しなければ、日本人は日産を支えるために巨額の公的資金を投入し続けるか、最終的には日産を存続させるかどうかという難しい選択を迫られることになるでしょう。

武智倫太郎


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