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思想は誰に届くのか ― 吉本隆明と柄谷行人の比較から考える


比叡山の頂にこもる思索は、本当に意味があるのか。

粗末でも、自分の実感から立ち上がった言葉は、人を動かす――吉本隆明が教えてくれること

⚫出発点の違い


吉本隆明

出発は「生活」と「大衆感覚」。

戦後の焼け跡体験、貧しさや家族のこと、社会運動の矛盾など、身近で切実な現実を素材に思索を始めた。

思想は「掘っ立て小屋」であり、粗末でも自力で建てることに価値があると考えた。

柄谷行人

出発は「理論」と「批評言語」。

カントやマルクス、ポスト構造主義など、海外の理論を手がかりに日本の文学や社会を再解釈。

「現実」よりも「理論的な正しさ」を優先する傾向が強かった。


⚫大衆との距離感


吉本

「比叡山の頂」にこもるアカデミズムを批判し、自らは下界に降りることを選んだ。

子育て論や消費社会論、宗教論など、大衆が日常で感じる問題に即した言葉を発信。

賛否両論を呼びながらも、最後まで現実社会に届く言葉を出し続けた。


柄谷

ニューアカブームでは「外国の理論」を日本語化し、新鮮さで熱狂を集めた。

しかしそれは一部の知識人サークルでの現象で、一般大衆の関心からは遠のいた。

『トランスクリティーク』『世界共和国へ』など後期の大著も評価は高いが、専門的で難解であり、大衆に届く言葉とは言い難かった。


⚫「届く言葉」と「届かない言葉」


吉本の言葉は、新聞や雑誌の読者、子育て中の母親、学生運動に迷う若者などに直接響いた。

柄谷の言葉は、アカデミズムや論壇での議論には貢献したが、日常に生きる人々の問題意識とはすれ違ったままだった。


⚫吉本の批判の証明


吉本が言った

> 「比叡山の頂に籠って下界に降りてこない思索など意味がない」

という批判は、柄谷の歩みそのものによって裏づけられたように見える。

吉本が最後まで「届く言葉」を模索したのに対し、柄谷は「届かない言葉」の側にとどまってしまった。


⚫あとがき


海外の理論や難解な言葉が飛び交う時代ですが、本当に人を動かすのは、自分の生活や実感から立ち上がった言葉ではないでしょうか。

吉本と柄谷の対比は、「届かない言葉」にとどまるのか、それとも「届く言葉」を探し続けるのかという、いまを生きる私たち自身の問いでもあるのです。

> 本日、もう1本の記事 「正義はいつ実現されるべきか―再審と抗告制度、失われた時間のはざまで―」 も公開しています。

法の正義と思想の伝わり方――異なるテーマですが、どちらも「人に届くものは何か」を考える契機になると思います。

あわせてご覧いただければうれしいです。



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