『スパイダーマン:ブランド・ニュー・デイ』は最高だった。最後の一曲を除いて
吹替版を観た私が悪かった
※本稿はネタバレを含みます。
最初に断っておく。
私は、基本的に吹替を認めていない。
俳優の声も演技の一部だと思っているので、海外映画は字幕で観る。
字幕を追うのが面倒だとか、映像に集中できないとか、そういう話も分からなくはない。
分からなくはないが、私は字幕で観る。
そもそも、吹替など認めん。
それなのに今回は、事情があって吹替版を選んだ。
だから、多少の違和感は覚悟していた。
声の印象が違う。
台詞の温度が違う。
翻訳によって、人物の輪郭が少し変わる。
そこまではいい。
吹替版を選んだ以上、こちらも受け入れる。
だが、映画が終わった直後にMrs. GREEN APPLEの曲が流れ始めた瞬間、そんな寛容さは全部消えた。
これは駄目だろう。
『ゴジラvsコング』の日本語吹替を観たときに匹敵するほどのガッカリ感だった。
映画は終わった。
ピーターの孤独も、再出発も、MJとの記憶も、まだ劇場の暗闇の中に残っていた。
私は、その余韻を持ったまま席を立つつもりだった。
ところが、曲が流れた途端、映画の世界から強制退場させられた。
ゆっくり現実へ戻されたのではない。
首根っこをつかまれて、日本向けタイアップの会場へ放り込まれた。
そんな感覚だった。
念のために書いておくが、Mrs. GREEN APPLEが嫌いだという話ではない。
曲の良し悪しですらない。
この映画の、この場面に、日本版の楽曲をかぶせる判断が合っていない。
合っていないというより、余韻を壊している。
映画が作った感情を、最後まで映画自身に預けさせてほしい。
なぜ、そこで日本向けに味を足すのか。
こちらはラーメンを食べ終えた直後に、頼んでもいないショートケーキを口へ押し込まれたようなものだ。
どちらも単体では悪くない。
だが、今ではない。
一緒に観たMCUファンも、「あれは白ける」と言っていた。
そうだよな。
私だけではなかった。
おそらく制作側としては、日本の観客に向けて特別なものを用意したつもりなのだろう。
しかし、特別仕様が常に付加価値になるとは限らない。
何かを足すことで、失われるものもある。
今回失われたのは、ラストシーンが持っていた静かな余韻だった。
映画の最後くらい、映画の空気のまま劇場を出させてくれ。
それが、吹替版を観終えた直後の率直な感想だった。
ここまで書くと、さぞ評価の低い映画だったように思えるかもしれない。
ところが、現時点での評価は10点満点で8点だ。
トム・ホランド版『スパイダーマン』としては、過去最高だったと思う。
アクションもいい。
物語もいい。
「大いなる力には、大いなる責任が伴う」というテーマも、これまでで最も濃い。
だからこそ、最後の一曲が腹立たしい。
本編がよかったから、余計に許せないのだ。
つまらない映画なら、曲が合わなくても「まあ、いいか」で終わる。
今回は違う。
私は、ピーターの物語をきちんと受け取っていた。
受け取ったものを抱えたまま、静かに劇場を出たかった。
それを最後の最後で取り上げられた。
まずは、そんな吹替版の最後に投げ込まれた一曲への不満から、この映画の話を始めたい。
トム・ホランド版としては過去最高
最初に結論を書いてしまうと、本作はトム・ホランド版『スパイダーマン』として、間違いなく過去最高だった。
ただし、これはMCUをほぼ一通り観てきた側の感想だ。
普通の人に勧められるかと聞かれたら、私は勧めない。
面白くないわけではない。
むしろ面白い。
アクションもストーリーも、過去作より明らかに進化している。
それでも勧めにくい。
観客に求めてくる前提知識が多すぎるからだ。
しかも、それは「あのカメオは誰だったのか」と後から調べて楽しむようなおまけではない。
既存作品や周辺キャラクターへの知識が、物語の主線にまで入り込んでいる。
MCUを一通り観ている私でも、何度か置いていかれた。
面白い。
でも、不親切だ。
よかった。
でも、納得はしていない。
今回は、そんな少しねじれた感想になった。
ひとりになったピーター
今作のピーターは、ひとりだ。
家族もいない。
友人もいない。
まともな話し相手はイーディスくらい。
ダメージ・コントロール局とは、利害が一致しているから共闘している。しかし、そこに温かい人間関係があるわけではない。
必要なことだけ話し、必要なときだけ協力する。
この距離感はよかった。
誰にも正体を知られていないピーターが、それでもスパイダーマンであり続けようとする。
今作の中心にあるのは、ひとりになったピーターの奮闘と再出発なのだと思う。
ただ、ひとつ気になる。
ピーター、お前、どうやって生活しているんだ。
過去のスパイダーマン映画には、カメラマンやピザ配達として働くピーターの姿があった。
仕事に遅れる。
怒られる。
家賃に困る。
ヒーロー活動のせいで、普通の生活が壊れていく。
そこには、スパイダーマンではないピーター・パーカーの暮らしがあった。
今作では、その部分がほとんど描かれない。
部屋には、PCや各種機器がずらりと並んでいる。
イーディスの助言があるなら、それらを自作できること自体は分かる。
でも、部品代はどこから出ているのか。
家賃は。
食費は。
叔母の遺産なのか。
トニー・スタークが生前に何かを残していたのか。
説明はない。
ひとりで生きていくピーターを描くなら、その生活の足元も少しは見せてほしかった。
スパイダーマンが孤独なのは分かる。
しかし、ピーター・パーカーは孤独である以前に腹が減る。
私は、そういうところも見たかった。
ピーターがどこで働き、どうやって家賃を払い、スパイダーマンとしての活動をどのように日常へ押し込んでいるのか。
その生活が見えれば、「ひとりになった」という事実にも、もっと重さが生まれたはずだ。
蜘蛛としての進化と、人間としての責任
今作では、ピーターが「蜘蛛」として進化していく。
身体能力が強化される一方で、凶暴性も増していく。
強くなればなるほど、ピーター・パーカーではない何かに近づいていく。
この流れは、どこかトビー・マグワイア版の『スパイダーマン3』を思わせる。
正直、少し手垢のついた展開ではある。
強大な力に飲み込まれ、暴力的になり、最後には自分を取り戻す。
ヒーロー映画では何度も使われてきた型だ。
それでも、今作ではその型が、きちんとピーターの物語につながっていた。
「大いなる力には、大いなる責任が伴う」
スパイダーマンを知っている人なら、何度も聞いてきた言葉だろう。
しかし今作では、その意味がこれまで以上に重い。
力があるから戦うのではない。
力があるからこそ、自分を制御しなければならない。
勝てるかどうかではなく、どう勝つのか。
敵を倒せるかではなく、自分が何者であり続けるのか。
蜘蛛として進化しながら、人間として踏みとどまる。
ピーターは今まで以上に強くなった。
だが、その強さは同時に、ピーター自身を壊す可能性も持っている。
強くなることが、そのまま成長ではない。
自分の力を抑えられること。
怒りに任せて相手を壊さないこと。
自分が正しいと思った瞬間ほど、一度立ち止まること。
今作のピーターが向き合ったのは、敵の強さだけではない。
自分の中にある、もっと簡単で、もっと危険な答えだったのだと思う。
殴れば終わる。
壊せば止まる。
自分には、それができる。
それでも、やらない。
その選択にこそ、スパイダーマンの責任がある。
この部分が、私が今作をトム版最高傑作だと感じた最大の理由だった。
いや、誰なんだ
最大の不満は、説明不足だ。
フランク・キャッスルことパニッシャーとの関係。
ピーターが過去に戦った敵。
本作以前に起きた出来事。
序盤では、かなりの情報がナレーションで処理される。
映画には尺がある。
すべてを丁寧に描けないことも分かる。
ところが、そのナレーションで済ませた人物や出来事が、途中から物語の重要な要素として戻ってくる。
いや、待ってくれ。
それは本編で見せるべき話ではないのか。
カメオならいい。
後から「あれはあの人物だったのか」と気づく程度なら、ファンサービスとして楽しめる。
しかし今作では、既存知識が物語の主線に食い込んでいる。
過去に何があったのか。
ピーターと相手がどのような関係なのか。
なぜ、その人物が今ここにいるのか。
それを十分に描かないまま、物語だけが先へ進んでいく。
観客は、映画を観ながら頭の中で資料を探すことになる。
誰だっけ。
どこで出た。
何があった。
そう考え始めた瞬間、観客は物語から一度降りてしまう。
ラスボスについてもそうだ。
MCUだけを観てきた知識では足りない。
X-MENにつなげる意図は感じる。
もちろん、ジーン本人がX-MENを代表するキャラクターであることは分かっている。
ただし、今作に登場するのは、まだその世界の入口に立ったジーンだけだ。
プロフェッサーXをはじめ、彼女の先にある世界を示す人物は誰も登場しない。
これはスパイダーマンの映画なのだから、X-MENを前面に出さなかった判断も分かる。
それでも、本格的につなげるつもりなら、もう少しだけ橋を架けてもよかったのではないか。
露骨な説明役でなくてもいい。
視線をひとつ置くだけでもいい。
「あちら側にも世界がある」と観客が分かる何かがあれば、印象はかなり違ったと思う。
シリーズを一通り観ている私ですら、何度か置いていかれた。
初見の人は、いったいどうなるのだろう。
情報を詰め込むことと、世界が広がることは同じではない。
登場人物を増やすことと、物語が豊かになることも同じではない。
映画の外側にある情報を知っている観客だけが、「なるほど」と先へ進める。
知らない観客は、「何か重要らしい」ということだけを察して置いていかれる。
これはファンサービスではない。
予習を要求している。
なぜパニッシャーだったのか
パニッシャーの登場にも、疑問が残った。
ピーターが以前、スタテン島でフランクの命を救った。
その過去自体は、劇中で説明されている。
だから、私が前作やドラマを見落としていたわけではない。
問題は、その重要な関係が本作以前の画面外で成立し、ナレーションだけで渡されることだ。
今作のフランクは、少し良いおじさんになりすぎている。
凶暴性を増していくピーターと、暴力によって悪を裁くフランク。
一線を越えようとする若者と、すでに何本も線を越えてきた男。
対比として置かれた理由は分かる。
ピーターが力を制御できなくなる物語なら、フランクを横に置く意味はある。
フランクは、ピーターが一線を越えた先にいる人物とも考えられるからだ。
ただ、作品の中で「なぜパニッシャーでなければならなかったのか」が十分に描かれていない。
命を救ったという過去を関係の土台にするなら、短い回想でも見せてほしかった。
前作にはデアデビルが登場している。
ピーターを止める役割なら、デアデビルでも成立したはずだ。
暴力と正義の境界を描くなら、むしろ彼の方が自然だった可能性もある。
MCUには、ほかにもヒーローがいる。
その中で、なぜフランクなのか。
フランクがいるから物語が動くのではなく、物語を動かすためにフランクを連れてきたように見えてしまった。
キャラクターではなく、役割が先に見える。
さらに言えば、フランクが少し丸くなりすぎている。
ピーターとの会話を成立させるためなのかもしれない。
しかし、パニッシャーが「ちょっと危険だけれど面倒見のいいおじさん」くらいの位置に収まってしまうと、彼を出した意味そのものが薄くなる。
もっと危険でいい。
もっとピーターが嫌悪する存在でもいい。
それでも、ピーター自身がその姿に近づいていると気づく。
そこまで踏み込めば、フランクである必然性も強くなったのではないか。
配置は面白い。
だが、使い切れていない。
そこが惜しかった。
ハルクを物差しにするな
ハルクの扱いは、かなり雑だった。
過去にピーターが戦ったヴィランを相手にしても、現在のピーターがどれほど強くなったのかは分かりにくい。
だから、誰もが強さを知っているハルクを出した。
私にはそう見えた。
要するに、ピーターの強さを示すための物差しだ。
ピーターがスパイダーウェブでハルクを半拘束する。
そして、ジーンの精神支配が解けたことでブルース・バナーへ戻る。
戻った理由は、一応分かる。
何の説明もなく、都合よく変身が解除されたわけではない。
それでも、ハルクとピーターの力関係を見せる場面としては、かなり強引に感じた。
今作では、ピーターの強さを見せるために、ハルク側の積み重ねが脇へ押しやられている。
その結果、
「ピーター、強くなったな」
ではなく、
「ハルク、そんな扱いでいいのか」
が先に来てしまう。
ハルクほどのキャラクターを出すなら、もう少し敬意を払ってほしかった。
便利な戦闘力測定器ではない。
別の作品で積み重ねてきたキャラクターを、主人公の成長を示すためだけに使う。
これは、共有世界を持つシリーズが陥りやすい罠だと思う。
観客はハルクの強さだけを覚えているのではない。
バナーが何に苦しみ、どう折り合いをつけてきたのかも見てきた。
その積み重ねを脇へ置いて、「ピーターは今やハルクを止められます」と見せられても、素直には喜べない。
ピーターを強く見せたいなら、ピーターの戦い方で見せればいい。
ハルクを弱く見せる必要はない。
MJは今回も、ちゃんとうざい
私は全シリーズを通して、MJには「うざい女」という印象を持っている。
今回も、その期待を裏切らなかった。
程よくうざい。
ちゃんとイライラする。
ここまで来ると、もはや安心感すらある。
終盤では、MJの反応やネッドの記憶を通して、消されたはずのピーターが完全には消えていないことが示される。
ピーターという存在は、頭からは消えている。
しかし、身体や感覚のどこかには残っている。
MJとネッドに、そういう痕跡を残したかったのだろう。
意図は分かる。
分かるのだが、少しやりすぎだ。
「どこかで会った気がする」
「なぜか気になる」
そのくらいで止めた方が、余韻は深くなったと思う。
ところが、映画の方からかなり明確な答えを出してしまう。
ピーターの存在は忘れている。
でも、体は覚えている。
そう説明されたように感じた。
最後の場面もエモーショナルに描かれていたが、少し安直だった。
それ自体は悪くない。
ただ、観客が自分で感じる余地を、もう少し残してほしかった。
感情は説明されるより、置いていかれた方が長く残る。
分かりやすく感動させることと、忘れられない余韻を残すことは違う。
今回は、少し答えを出しすぎた。
だからこそ、その直後に流れた日本版エンディング曲が、さらに余韻を壊してしまったのだと思う。
エレーナは、物語の中へ入ってきてもよかった
エレーナを出した理由は分かる。
彼女自身が洗脳を経験しているため、変化していく自分に戸惑うピーターの相談相手として成立する。
後半では、ピーターに頼まれてダメージ・コントロール局の情報も調べる。
ピーターの孤独を見抜く役割もある。
だから、完全に不要な人物だったとは思わない。
ただ、そこまで役割を与えるなら、終盤で本人を物語へ参加させてもよかったのではないか。
今作のエレーナは、情報を渡し、助言をするところで止まっている。
ピーターやジーンと同じ場所に立つことはない。
次作への橋渡し役として配置したのなら、最後に一度でも参戦させた方が、人物として強く残ったと思う。
ジーンを助ける。
敵の狙いを止める。
ピーターとは違う方法で、洗脳や精神支配に対処する。
何でもいい。
エレーナ本人にしかできない仕事が、終盤にもうひとつあればよかった。
そして、なぜか登場場面のほとんどで風呂に入っている。
人物像を印象づけるための演出なのだろう。
実際、風呂にいたことはよく覚えている。
ただ、エレーナが今作で何をした人物だったかより、風呂の方が先に残る。
それでは少し順番が逆だ。
役割はある。
だが、人物として本編へ入ってこない。
次へつなぐための登場なら、今作の物語にも、もう一歩だけ踏み込ませてほしかった。
ジーンとフランクは、この先どうなるのか
ジーンについては、今後何かあるのだろうと思う。
今回だけで終わる配置には見えない。
ラスボスやX-MENへの接続を含め、次の作品へ向けた役割を持っているのだろう。
ただ、今作だけを観た段階では、まだ人物として十分に立ち上がっているとは言いにくい。
今後につながることは分かる。
しかし、今作の中で何を担っていたのかは、少し曖昧だ。
フランクも同じだ。
今後もピーターと関わるのか。
今回限りの共闘なのか。
ピーターを止める存在なのか。
それとも、ピーターが自分の危うさを確認するための鏡なのか。
いくつもの役割が考えられる。
考えられるのだが、映画の中では決め切られていない。
この曖昧さを「次回作への期待」と取るか、「今作で説明し切れなかった」と取るか。
そこは見る人によって分かれるだろう。
私は後者に少し寄っている。
説明不足と考察の余地は違う
この映画は、完全にファン向けだ。
普通の人には勧めない。
ただし、観終わったファン同士で語らせることが目的なら、かなり成功している。
なぜフランクだったのか。
ハルクの扱いは正しかったのか。
ジーンは今後どう関わるのか。
X-MENへの接続はどこから始まるのか。
MJとネッドには、本当に何も残っていないのか。
ピーターの生活費はどこから出ているのか。
話題はいくらでも出てくる。
ファン同士で話し始めれば、かなり盛り上がるだろう。
エレーナのように役割が読み取れる人物もいる。
それでも、説明不足と考察の余地は別物だ。
作品の中に答えが隠されているのが考察で、作品の外側を調べなければ前提すら分からないのは予習だ。
今作は、その境界をかなり危うく歩いている。
カメオを見逃しても、物語は分かる。
後で知れば、もう一度楽しめる。
本来、ファンサービスとはそのくらいでいい。
しかし今作では、分からない人物や設定が物語の主線を歩いている。
観客は、その人物が誰なのか分からないまま、重要人物として扱われる姿を見ることになる。
これは初見の人には厳しい。
子ども向けか、大人向けかという話でもない。
説明が足りているかどうかの問題だ。
MCUマニアである私ですら置いていかれる。
その時点で、入口としてはかなり狭い。
普通の人には勧めない
アクションは過去最高。
ストーリーも過去最高。
テーマも、これまでで最も濃い。
トム・ホランド版としては、間違いなく最高傑作だと思う。
それでも、誰にでも勧められる映画ではない。
むしろ、長くシリーズを追ってきた人が、観終わったあとに誰かと話すための映画なのだと思う。
ファン同士で議論させることが目的なら、成功している。
あの人物は誰だったのか。
あの設定は何につながるのか。
なぜ、あそこでハルクを出したのか。
なぜ、デアデビルではなくパニッシャーだったのか。
話せば話すほど、別の論点が出てくる。
そういう意味では、非常にMCUらしい作品でもある。
単体の映画として完結するより、巨大な世界の交差点として機能する。
ただ、交差点には標識が必要だ。
今作は道を増やしすぎて、標識を置くのを忘れている。
知っている人は進める。
知らない人は、どちらへ行けばいいのか分からない。
面白かった。
でも、引っかかる。
よかった。
でも、納得はしていない。
この少しねじれた感覚も含めて、現時点では8点。
そして、吹替版のエンディングについては0点だ。
作品が積み上げたものを、最後の一曲で現実へ引き戻す。
あれだけは、どうしても受け入れられない。
来週は字幕版を観る。
本来、私が最初から観るべきだった方だ。
字幕で人物の印象がどう変わるのか。
台詞の温度がどう変わるのか。
説明不足に感じた部分が、2回目では補われるのか。
それとも、理解した上で観ても唐突なのか。
そして何より、映画の最後まで映画の世界にいさせてもらえるのか。
字幕版を観たあと、この8点が上がるのか。
あるいは、説明不足への違和感がさらに強くなるのか。
そのときに、もう一度書こうと思う。
※事実関係は2026年8月2日時点の公開情報および複数のレビューを照合して修正しています。
追記
ジーン・グレイって、このタイミングでアース616に出して良い人なのかな?アース10005の人なの?
追記2
改めて字幕で見直しました。
改めて、フランク君は頑丈な人なんだな。
エンディングはやっぱり字幕の方がよかったよね。
よかったら、以下もみていってくださいね

