キリスト教徒がいないと、社会が上手くいかない理由
■日本に置ける状況とアメリカとの違い
日本人は、アブラハム・マズローの欲求段階説と、経済学の父であるアダム・スミスの『神の見えざる手』、自由市場原理などを後ろ盾として、民主主義と相性の良い資本主義経済を採用しました。
その二つを組み合わせた結果、「衣食住などの生理的欲求と安全を確保さえすれば、国民は勝手に経済成長に役に立つ行動をとる。ただ自己実現さえ目指させればよいのである」という結論に至り、日本人はそれを実行しました。
その時に出た問題をまとめました。
例えば、日本人の子供の将来の夢は、『漫画家とYoutuberと医者』です。一方でアメリカの子供たちの夢は割と現実的な職業が多めです。
なぜこのような違いが産まれるのか文化的背景を元に考察しました。
先に要約すれば「キリスト教国という文化的背景を無視して、キリスト教抜きの西洋社会をやると古代ギリシャや古代ローマや中国史みたいに滅ぶよ。歴史も証明しているよ」という内容です。
たぶん本当はこの辺の詳しい話は「プロテスタント経済論」などに詳しい経済学の人の方がうまく説明してくれそうですが、たぶん日本社会ではあまり喜ばれないので、きっと私より賢い人はみんな知っているけど話さないのでしょう。仕方ないので失う地位もない私が書くことになりました。
なおここに書いている文章で、何かの役に立ちそうだと思った方は、他の方が書いた引用部分を除けば、ご自由に文章をお使いくださって結構です。私では知名度が低いので、なかなか広まりません。本当は別の権威のある学者さんなどが書いた方がいいんじゃないかなと思います。
(※拙著は、以下の要約記事があまりにも長すぎたのでさらに要点を要約したものです。前作はキリスト教に全く造詣がないし興味もない無神論の人でもわかっていただけるように説明していましたが、そこまで厳密に神とか善意とかそういうのを疑っていない心の優しい人が読むには長すぎたかなあとも思うので、善人はこっちの方が読みやすいかも知れません。
「俺は悪人で邪悪で神が大嫌いだ!誰だキリスト教が社会にいいとかふざけたこと言いやがった野郎は!許さねえ!『チ。』とか読んでないのか!」という方はこっちの方がいいかも知れないです、(※と思ったのですが、最近誤字脱字を直しているうちにこっちが最新版という感じになってしまったのでこっちを読んだ方がいいかも知れません。内容はほぼ同じです。書いている順序が多少違うだけです。こちらの方が古いので、私がどれだけ誤字脱字をしているアホなのかを探すのには役に立つかもしれません:2026年追記)
ーアダム・スミスの『見えざる手』の違いー
アダム・スミスはスコットランド寄りのイギリス人の経済学者で、経済学の父と呼ばれています。『国富論』や『道徳感情論』などを書いた人として有名です。
見えざる手とは、自由な経済活動によって自由市場原理が働き、自然に適正な値段が定まるという説として説明されています。
昔、日本の学校ではよくこの『見えざる手』は『神の見えざる手』と説明されることが多かったのですが、その著作には「神の」とは直接は書いていないと言う人もいた為、最近は「見えざる手」と翻訳する日本人が増えているようですね。(2026年追記:今見たら減ってました。2025年前後では見えざる手だという人もいました)
■不正を正す『見えざる手』の不在
しかし日本ではこれは見えないところで不正を犯すことに働きがちで、水素水(※変な健康食品や謎の高額の壺などの詐欺商品)やら売春やらで生計を立てようとする人が多かったりします。
『経済は感情で動く』という書籍がありますが、実際にその通りです。
そして、現地の人々の文化に応じて「何に価値を求めるか」が異なるわけです。
たとえば、「隣人を愛しなさい」と言えば、信徒たちはそのためにお金を使い、「裁判で偽証してはならない、偽りの分銅をつかってはいけない(※重さを誤魔化して不当な利益を得ないように、商売ではフェアな取引をしなさいという意味)」と言えば、ぼったくりのような水素水などの健康に影響を及ぼさないが健康的だと言われる謎の商品を人に売りつけることもありません。
これで水素水の価格は自然に下がり、人を大事にする仕事が褒められて価値が高まります。信徒たちは、自由と言えども、イエス様や神様の言うことをよく聞いて教わっているのですね。
マタイによる福音書 23:17 (新共同訳)
愚かで、ものの見えない者たち、黄金と、黄金を清める神殿と、どちらが尊いか。
このように教会は物の価値を清める効果があります。
文化や感情はそもそも貨幣の価値を決めていくのです。
(※他にも聖書には「神や掟や平和を愛し合う同胞には利子をつけないことで債務奴隷をつくらない構造をとったり、寡や孤児への再配分、畑の落ち穂拾い(貧しい人は他人の畑の手で取れる程度の麦などを食べていいが、収穫する程にとってはいけないという規定があります。日本の保証され過ぎて破綻した福祉や生活保護と違い、支える側も貧乏になった時は支える側が自然に優先になる形式で無理がありません)貧しい人が質にものを入れる時は外套などの生活必需品や商売道具まで取らないような規定」があります。一方で今日の所謂『所有権』のようなものも十戒に書いており、「隣人の妻や財産を欲しがってはいけない」という規定もあることは面白い話です。財産の権利は、資本主義を掲げなくてもすでに聖書に書いているのですね。
完全な利他でも完全な利己でもないバランスの取れたシステムです。
これらの考えは、現行法の土台に参考にされています。日本の教科書に載っている社会学の本でもたびたび聖書は引用され、民主的な書物の中でも、参考にすべきと書かれています。ですから聖書という土台を抜いたら、何もかも崩れる可能性が高いので、西洋思想を学ぶときはやはり学んで損はないと感じています。自然法の文脈でも著名な学者が「聖書はそれらの利益を侵害しないので参考にすべき」と書いています)
ジョン・ロックの説を土台にすれば、人は人間の自由意思で信仰を持っているので、西洋では「自由市場」ですが、日本人の場合は自由にしても、自由に貢献したいという力そのものが産まれても、それを団結させて何かの他の企業の利益を侵害してしまうほどの大きなボランティアをする力がありません。足を引っ張らないで嫉妬せずに歓迎する土台になる文化や法律における機能が少ないのでまとまらないのです。しかし聖書圏ではその文化的背景や歴史や所有権に関する法律があります。嫉妬に関する罪は七つの大罪として扱われていますが、日本では向上心の原動力のように言われる風土です。
そのため、西洋と同じ結果にはなりません。
『所有権の侵害』や『嫉妬』を良くないものであるとする社会風潮も案外大事なのかもしれません。
日本にはこれがないので「楽をして儲ける仕事に永久に就職できるようになるための学費」などが非常に高額になります。
また楽な仕事に何度も行政からの補助金が流れるとその政治家が当選するような形となります。
聖書であれば本来は寡婦や孤児や貧しい人の再配分であったり今でいう行政や教育の仕事を担う費用になるはずなのですが、関係のない漫画や噴水やプロジェクトマッピングをする仕事、政治家先生と仲の良いカルト宗教やマスメディアの仕事の方がモテて楽であるという金額設定になり、みんな楽でモテてそうな仕事をするために、結婚するために、政治家の目が届く範囲の都市に集まるしかありません。多分その方がお金が落ちやすいのでしょうね。
また、売春が一番手っ取り早く初期投資もなく儲かるので、みんな春を売り性交渉の値段が落語の『千両蜜柑』のようになりつつあります。「ええい!ままよ!」このようにして男女の関係も自然に悖るものとなっていき、多くの人の愛が冷めて、どんどんギスギスした感じになっていきます。最悪それが原因で人が魂ごと永遠に死にます。
このように状況が異なるので、再現性がないということになります。
日本人は再現性のない土台が異なる経済論を盲信し続けていることになります。
現実にしっかりと間違った問題を出し続けているのにも関わらず、しかし、西洋の偉い学者が言っているし、意味のない計測結果を誤魔化して上手くいったことにしているので正しいことにしています。
たぶん先に面白くて楽な仕事をしている人は、その状況を変えたくないのでしょう。
実際に西洋の学者の書籍に書いていることは、教会が民を良く教えて育てて守っている時に限って正しい結果を出すので余計に質が悪いです。
個人的にはキリスト教会がある共産主義国が成功例を提示してほしいです。資本主義か共産主義かではなく、教会と信徒によって成功していることが証明できるからです。
■とりあえず動く速度が大事だという思想の抑止力
本当は、この話は後述するアブラハム・マズローの唱えた「欲求段階説」に反する土台として項目に入れるべきだとは思うのですが、全体がとても長いので、重要なことを先に書いた方がいいと考えてこの部分に挿入しました。
社会全体の貢献や未来ではなく、本人の幸福や達成感、多くは存命中の結婚や成功等を目指すので、天文学や遺伝系の分子生物学などの、人の人生が何度か終わる100年、1000年以上の単位の引き継ぎが必要な研究や事業では、リスクを軽視した短絡的な判断を下しがちです。例えば武漢ウイルスや毒イナゴの意図せぬ発生、原子力発電や環境汚染や地球温暖化、土壌汚染狂牛病などの異常プリオンの発生のメカニズムの軽視などがそれに該当します。これは東アジアだけの問題ではないですが、生命工学に関してはローマ教皇が正式に禁じているので抑止力があります。
しかし、日本であれば「何事も試すべき行動しない者に成功はない」という言説がまかり通っています。このリスクヘッジの基準は、例えば、ネジが一本外れて、その車の制御が効かず、最悪ガソリンスタンドなどに突っ込んだとしても、一度に多くても1~1000名くらいの被害で済むから、賠償金は払えるだろうという計算をする、戦中も活躍した重工業系の成功者の発言でしょう。あるいは壊すことが仕事の「速度」を重視する軍隊の思想かも知れません。
しかし、分子生物学でこの発言を参考に動いてしまったら、
もしかしたら最悪の場合、全人類が滅ぶかもしれません。
実際一度でも人工的なウイルスが広まったら変異を含めてコントロールすることが難しいです。抗体もできるので、今も薬学者たちが「抗体を生じさせたウィルスがどのくらい発見されているか」に関するデーターをとっています。
これはウィルスがある日突然変異することを示します。例えば、今まで咳が出る程度だった症状だったコロナウィルスが変異して、子供を産めないタイプの新しいコロナウィルスになるかも知れないというわけです。
もしそうなってしまったら変異したのは偶然ですので、誰も賠償できませんし、何より作る方法がたんぱく質だけなので、一度増殖に成功すると、材料に関して言えば非常に安価になってしまいますので、やり方さえ教わればもしかしたらその背景にある科学知識のない途上国のマフィアでも実行が可能になってしまう可能性を秘めています。
今まではウラニウムを持っているかどうかで警察が動きましたが、たんぱく質を探すことは難しいでしょう。悪い人や自暴自棄になった人の手に渡ったら終りかもしれません。そんなわけで軍隊や資本主義の成功神話だけではこの先は難しそうなのです。
そもそもそんなものを作らない、遺伝子を組み替えた場合は変異のかなり低いリスクでも、厳重な注意が必要などの規定が必要ですが、法律の方がまだ間に合っていません。
■とはいえ日本人はキリスト教会が好きではないのでどうすればいいか
しかし日本人にとって教会の風習は受け入れがたいという話もあるようで、何とかして西洋思想のいいとこどりをして漫画や売春などの日本の風習は残したいと考えているようです。
私も昔は宗教は根拠のない迷信だと思っており、まだ社会人になって数年目の時、宗教は現代に必須ではなく、実存主義的、科学的であるべきだと考えていました。
聖書には、現代でも参考にすべき重要な知恵は確かにあるが、
現代では「この禁止事項は要らない」と思えそうな部分があるので、参考程度に牧師さんの話を聞こうと思っていました。
特に「売春と偶像崇拝の禁止」などは、みんなが喜ぶこともあって、犯しても問題がない罪であろうと思っていました。
そのため得に3DCGデザイナーの仕事をやめるわけでもなく、また牧師さんからも得に禁止はされませんでした。(※禁止したら帰ってしまっていたでしょうから牧師さんの英断に感謝しています)
ただ、偶像を作ると、基本的には、そこに人があつまっってしまいます。「それなら経済も潤っていいのではないか」と思うでしょうが、しかし、実際は、結果こんな感じで滅ぶことがあります。
①人が集まって、都市集中国家化する。
②田舎は少子化する
③都会で遊んでいる子供に田舎で農業してお金を送ってくれるお爺ちゃんが倒れる頃に飢饉が起こりがち。軍事やインフラも劣化しやすい。(※この段階で異民族に襲われると滅ぶケースもあり)金が集まるので売春も横行しやすい。利権や土地の相続を望んで結婚詐欺も増える。(※まあ売春の一種である)
④それでも子供は芸術や文芸や芸能にいそしむべく田舎に帰らないので、いやな仕事を誰かに押し付けたい故に奴隷需要が増加する。
⑤奴隷確保のための略奪戦争をする為に雑に大義名分でっちあげたり、植民地政策や移民政策を行って外国人を働かせる。他には、例えば日本では都市には前衛的で独創的な変わった建造物が乱立しまだ新しい建物さえ撤去するが、田舎の道路はボコボコで、海沿いの川の橋などはえぐれたまま放置されるような状態になる。あるいはドイツだと子供に地雷を撤去させたり、あるいは国内で特定の人物や種族を差別し、古代ギリシャなら「俺たちはヘレネーの子孫だからいいがお前らは違うので奴隷」と言う言説を唱えたりする(国内での差別)この時期のエンタメは偏向報道的になり、自由に意見が言えないことが多い。
⑥そしてそれらすべては紛争の原因になりがち
…という感じで、いくらか植民地か戦争か差別か内乱か飢饉かなどのルートは違いますが、どれをとっても高確率で滅ぶのですね。イースター島のようになる可能性もあります。
細かく見ると違う原因で滅んでいるかのように見えますが、大体原因と結果は同じです。その途中経過が微妙に違うだけで、概ね同じです。聖書の申命記28章の呪いの箇所とそっくりな現象が起こります。他には聖書のハバクク書にも似ていました。もしくは部分的にはバルザックの実話をもとにした小説『ゴリオ爺さん』に似ています。複数分岐はあるが、結果はだいたい同じという感じですかね。一本だけ長い苦しみがあるが緩やかに衰退し予想外の環境の変化に耐えられずに死ぬケースがあります。

何が怖いかというと、百年くらいの数代をまたいで起こる現象なので、歴史を学ばないと気がつけないことです。
こうして詐欺師が儲かり、真面目に働いている人は疲弊して、悪貨が良貨を駆逐してしまい、物価は上昇します。
価値のない結果にお金だけが動いてしまう状態です。
つまり、国内だけの理屈で海外からの輸入を考えなければですが、
インフレが起こることになるのです。
デフレが起こることもありますが、これは外国の安い労働力に頼るケースです。日本の人材が生み出す価値に対して、あまりにも給料が高すぎることで失業します。これは、古代ローマで奴隷が安い穀物を生産した時に似ています。一般的にローマ帝国の弱体化の原因とも言われます。
そして、なぜ奴隷を求めるのか…といいますと、
やっぱり「絵を描いたり歌を歌ったりエンタメの仕事しかしたくないから3Kの嫌な仕事を誰か経済的に立場が弱い差別階級や外国人に任せたい」と考えるからだったりするんですね。これは同盟国から預かった軍司資金を神々の石像ばかりの神殿制作に使ってしまう古代ギリシャによく似た状況です。
(※聖書が入る以前の紀元前ぐらいの古代ギリシャや古代ローマや古代中国の歴史や古代エジプトの歴史を見れば、「これはヤバいなあ」と思ってくれるでしょうから、私に説明させるよりご自分の目で確かめた方がいいのかも知れません)
(※とはいえ、軽く説明しますと、民主制でいったん政治家の人気取りのために偶像を作る仕事や売春にお金を払うと、次も次もと民衆があつまります。こうなると財政が厳しい時期や戦火に巻き込まれて推進力をあげねばならないときにおいても、政治家がまともな政治をしたくなると、必ず民衆を喜ばせるお金を流さねばならなくなります。そうしないと支持率を下げる写真をとられてしまうかもしれないですし、死後も残る自分の石像を不細工に作られかねません。当時も日本のパパラッチが支持率を下げる写真を撮るように、「お前の顔をモデルに山羊を犯すパーンの石像をつくってやるぞ!!」とか言って脅されるのかも知れません。(※何となく、他の絵画と石像がたまに似ていないので、一部ギリシャ神の類は本人と似てない可能性を考えています)
これは紀元前の古代ギリシャの迎合政治家と呼ばれる人や喜劇作家たちにも見られる状況です。そんなわけで、すでにキリスト教のない民主主義は失敗しているのです。ソクラテスの話を聞いてひたすら勉学にいそしみ手痛い指摘も受け入れて超人になる人たちならわかりませんが、残念ながら、日本でも古代ギリシャでもまともな政治家や哲学者は適当な冤罪で陶片追放したり自殺させたりして殺してしまいがちです。イエス様もよく似た理由で冤罪で十字架にかかられました。要するに大衆を自由にすると、正論を言う人が死にがちということです。
ローマの信徒への手紙 5:7 (新共同訳)
正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。
ですから聖書に「大衆の暴走」「身分の高い者や教師の受難」を書いておき、子供の時からこの逸話に触れることは、非常に大事なことなのです。
正論を言う人が、上から強いられて強制されるのではなく、彼らが誰からも見捨てられ、その意見を聞いてもらえず、「同情」され、尚且つ正論を言う人がいなくなったらどのような悪いことが起こってしまうか、ということを教えるので今までの封建制とは違うのです。案外こういう逸話が抑止力になるのかも知れません。ホセ・オルテガ・イ・ガセットの『大衆の反逆』も参考になるかもしれません。
丁度、親に嫌々言いなりになっていた子供が、親が仕事で疲れてぐったりしている時に、気を使ってお手伝いすることで自主性を覚えて成長する感覚に近いかも知れないですね。(※元気なお父さんお母さんは偶に子供たちの教育のために自分がつかれているフリをすることは案外教育にいいのかも知れません。そもそもフリではなく本当に疲れますが…)
■休みない労働と、祭の規定の欠如
日本では信仰すると余計に守らなければいけない掟が増えて面倒くさいと言われがちな聖書ですが、よく見ると、聖書には祭りや休みの規定もあります。
そのため、偶像崇拝の問題を提示はしましたが、
自己表現や交わりの場という意味では、
過度でなければエンタメそのものは問題ではないのかも知れません。
むしろ祭りの規定を守っていないからこその暴発である可能性が高いとも言えます。祭りと戦争の類似点を指摘する『ロジェ・カイヨワ』という学者もいます。
これは貧富の差だけを解決してもダメだという事なのかもしれません。
『いくらお金だけあっても働き詰めで、精神の余裕がなく自己表現の場所がない』これが若者のやる気をそいでいるのではないでしょうか。
人が欲することは値段が上がっていきます。私は3DCG屋さんですが、2025年前後では、WebデザインやPhotoshopやillustratorや動画編集やAI生成の教材が良く売られています。無料で配られるコンテンツが多く、仕事は減っているのにもかかわらずです。
みんな、一生自己表現できる仕事に就く可能性にお金を払います。宝くじのような倍率であるのにもかかわらず、この可能性に時間とお金を投資する人が後を絶ちません。売る方も楽なので皆が教材を売り出すのです。
中にはエンタメ職に天下りするために業務上の規約違反をする人さえいます。傾国の美女という言葉がありますが、まるで傾国のクリエイティブ職です。みんなこのファムファタルに夢中です。
しかし、この誘惑に勝って、正気に戻るならば、全員が働いて一部の人が年がら年中エンタメ職をやるより、休みが多めの気軽で時間も裁量も個人の自由で調節できる農業や酪農を行った方がかえってインフレが起こっても食べる者が手元に存在して安定性も高く、多めに休めるのではないかと思います。休みが多いなら、つまらない企画で嫌な思いをすることもなく、自分の裁量で好きなクラフトを作ることができます。
現状の日本の資本主義社会は温暖化などの問題で、循環可能性を欠いているので、何れ変わらねばなりません。その時にどのような社会にすれば持続可能性(サスティナビリティ)があるのか想定した方が良いでしょう。
■祭りの独占:他業種から自己表現の場や意味のない技術力の娯楽の機会を奪う
いわば、これは富の独占ではなく、休みと祭りの独占ともいえるのかも知れません。
祭りというものはただ御神輿を担ぐだけでなくてもいいのです。
他の業種の「やってみたいけど採算が取れないよくわからない娯楽」なんかが息抜きになったり新しいアイディアの源泉になったりします。私は企業対抗の制限のあるロボコンみたいな魔改造という番組が好きだったりします。
他にも倉庫で働く人が、運搬の速度を競う運動会みたいなものを開催して遊ぶらしいです。働く人にはこういうお祭りが必要なのでしょうね。
その機会がなぜか税金やNHKや新聞などの出版業界から、必死に働いている人だけが搾取され働きづめで、年がら年中特定のエンタメ職の人だけが独占しているような状態といえばそうです。
防人という身分の低い役職の人にまで和歌を詠むように話した天皇とは対照的な状態と言えるかもしれません。
(※余談ですが仁徳天皇は「民の釜戸に煙が上がっていない」と言って減税をした逸話で有名ですが、どうして部下たちはその話を天皇に告げなかったのでしょうか?恐らく部下は自分の利益が減ってしまうことを恐れて、天皇に何も知らせていなかったように思います。部下に裏切られた状態で、社会の状況を知るには、無意識の状態で自由に語った言葉が参考になったのかも知れませんね。きっと、天皇家の人々は、少ない情報で推測が可能な、勘のいい方だったのでしょう。きっと現代のように、歴史に残っている皇室スキャンダルで脅されたり、妻を失った辛さから出家させたりして人の弱みに付け込んで自分勝手に働こうとした人がいたのだろうと思います。一面の情報から思慮深く判断される天皇は、一面の情報だけで人を扇動して攻撃させるマスメディアとは対照的です)
その為、全員で休む負担としての娯楽はいいですが、特定の人だけが恒常的に行う教育性の低い娯楽職はダメなのかもしれないということですね。まあ本当に実践したら教師職の教材づくりあたりが狡いと言われそうです。
現状の日本の娯楽職は、ある種の国中の美女と自己表現と休みや余裕みたいなものを独占をしており、人々にその機会を分けていない…という言い方もできるかも知れません。『神の見えざる手』は、ただ戒めるだけではなく、楽しむように、休むように、集まって交わる機会があるように…とも促す働きもあるのです。
そうしないと休めない不器用な人もいます。出会えない人も話せない人も肩を押されるのです。「ここにおいで楽しいから。試練はあるが、貴方が喜ぶようにこの世界をつくった」と言うか言わないかは、聖書を信じていない人に関しては一見ただの気の持ちように見えるかもしれませんが、「大事にされてない感じや不安」を消し、あるいは教会が「そんなことない」と証明する動機となり、これは非常に重要なことだったのではないでしょうか。
日本で言えば、地域社会の欠如の問題とも言えますが、聖書には、そこに強制力があります。実は一定数の不器用な人や真面目な人は、国の補助や誘導がなければ、案外自分の欲することを自分から行いません。
恐らく「休め」と「今日は羽目を外して喜べ」とを命じない限りは、真面目で親切で人が他人にやってほしいことを率先して行う人から疲弊してしまい、甘え上手で楽な道を進み直ぐに美しい女性に手を出す短慮なものばかりが増加してしまうのでしょう。だから、地方にいる人は少子化し、エンタメ職をやっている人だけが増えます。そのように真面目な人はエンタメをするにも高い成果を出しやすいので、よく殺されます。「お前が余計に仕事をすると俺も努力しないといけないから真面目にやらないでほしい」とは言えませんが、そうしないと田舎者に自分の楽しい仕事を奪われてしまいます。
■楽な大学で大学生の時に付き合ったカップルは愛が深い
聖書には新婚さんは1年間まるまるお休みになる規定があります。
聖書圏の西洋でも何故かここは参考にされていないようです。
戦争が多いからでしょうか。それとも花の都のあたりに詐欺が多く、奴隷の女性を売りたい時に夫婦仲が良すぎると儲からないからでしょうか。
これは余談ですが、たぶん大学の時に付き合った夫婦が仲がいいのは、「1年くらいは一緒に住んで夏休みや冬休みや春休みを過ごすからでは」と思ってしまいます。嫌いなら1年も二人きりで一緒にいたくなくて浮気相手のところへ行くでしょう。
現代日本では金や機械で代価できる仕事も多いのにもかかわらず不満を持つ夫婦やカップルが多い理由として、何かやってほしい以上に「愛されていない」と感じる夫婦が多いからではないでしょうか。
西洋ではたぶん戦争で新婚免責をされると困るからか「新婚なら一年休む」という聖書の制度を採用していないようですが、意外に、この1年はすごく大事だと思うんですね。「忙しいだけで愛してないわけではないのだ」ということがわかるからです。少なくとも日本ではこれらのすれ違いと離婚と家庭崩壊が起こることを考えたら、初婚1年くらい休ませるのは国益としてかなり安いものだと思います。これには学術的根拠はありません。大学時代に付き合った人を見た所感や、自分自身の体験からくる勘です(因みにこの間に避妊をして性交渉すると子供ができないうちに分かれる気はします)。
【関連する心理学的・社会学的理論】
愛着理論(Attachment Theory):
ジョン・ボウルビィやメアリー・エインスワースによって提唱されたこの理論によれば、安全で安定した関係は繰り返される親密な交流によって形成される。1年間の濃密な共同生活は、成人間の愛着形成において有利に働く可能性がある。
親密性と接触時間の相関:
Aronらの「親密さを築く36の質問」などの研究に示されるように、質の高い会話と物理的な接触時間は親密さを高める。
結婚初期の質と長期的満足度の関係:
Huston(2001)の研究によると、新婚時代のポジティブな経験は、その後の関係満足度や持続性に影響を与える。特に最初の1年は「新婚ブースト」とも呼ばれ、感情の結びつきが強化される期間とされる。
(中略)
留意点と反証可能性「同棲が長いほど離婚率が低い」という仮説は、一部では否定されている。目的意識や価値観の共有度が重要であり、期間だけでは評価できない。
そんなわけで私が芸術系の田舎の大学で見たカップルから推察した仮説も、
たぶん学術的根拠がある程度あるようですね。
日本は少子化していますし、新婚さんが初婚で1年くらい休むことに関しては、売春でもやっているヤクザ以外は特に困ることもないのではないでしょうか。
筆者はある意味親が多少小金持ちだったので、「絵を描く大学」という比較的楽な学校にいました。
特に女の子はそういう仕事をしても許されやすいので筆者のいた大学も女だらけか、いても長男ではない男性や小金持ちや親が絵を描く仕事をしているような人や大学を卒業したら家業があるような人ばかりです。
だから自己表現をしたり休んだりする時間が多かったのですね。
(※ただし就職などの問題で分かれるカップルは正直多かったです。しかし、初恋を引きずって「あの子が一番良かった」と言って独り身になりがちでお勧めはしませんが、しかし、大学での恋愛は大体、大事な思い出になって「別れなければよかった」と後悔するようです)
これが工学部とか男しかいない地域だとその期間が一度もなく、人生の楽しみが無かったという人も多いです。しかも、そのまま男性しかいない職場で休みも少ない仕事をします。
これは機会が不平等だと思うのですね。
別に工学部だから気持ちが悪い男性が多い、というわけではなく恐らくは私と同じ田舎の大学にいたらこういうオタクっぽい人もたぶん普通に彼女いたんだろうなとも思うのです。田舎ではあまり顔や身分の差もなくスクールカールとなんかもありませんでしたし、平和で自然なカップルが出来上がっていました。
都政は600万円くらいでつくれそうなマッチングアプリを数億かけて制作しましたが、この様なアプリだけではなく、何か、政策として「祭り」とか「休み」などが必要である可能性を見ています。良くも悪くもですが、画学生は大学がその期間の代わりを意図せず果たしてしまっていたように思います。
聖書上のおやすみに関して、牧師さんがこうおっしゃっていたのを思い出します「えー!安息日に休まないだけで厳罰?神様ってやっぱり怖い!って思う方も多いかも知れませんね。しかし、案外ここまで言わないと人って休まないんですよ…これはね、(この後を覚えてません)」
本稿で説明した通り、偶像崇拝を行うと国が滅びやすいという話をしましたが、「その時は聖書に書いていることが間違っているように見えたが、実はそうしないとあとで問題が出る、しかしそれを深く説明すると長すぎるし悪用したがる者が出る」という可能性が高いように思えたので、他の一例としてここに掲載しました。休みや祭りなどの「生きがい」って、大切だと思うんですね。しかし多くの先進国ではそれは特定の仕事をしている人だけが享受していて、他の人は「恋する日を待たずに消えてゆく子供達」として働いていたケースもあるわけです。まあ無理に恋をする必要はないですが、「休み」は欲しいですよね。
■3DCG屋さんの視点で、実際にミクロ的に起こっていたこと
首都圏のエンタメの会社に就職した3DCG屋さんが見る限り、首都圏の人は優秀なら東大などの難関大学に行って仕事をしますが、首都圏にいるのにそれになれない人は、多くは転勤などを避けるためにエンタメ職を狙う人が多いので、はっきり言えば努力が苦手でボーっとしていて母親が自分の子供を手元に置きたいとか引きこもりだったような人がいます。
正直あんまり向上心がなく実力では負けているのに何故かみんなが気を使っているケースも多いです。社長でも出資者でもないのになぜ彼だけ優遇されるのかよくわからないのですが、親御さんが良く教材費を出してくれるからかもしれません。
彼はとにかく怒られることが嫌いなので、仕事上の怠慢を指摘されると拗ねて攻撃的になります。彼がいなくなるとお金を出してもらえなくなるがそれをはっきり言うことができない周囲は、作品の出来よりも、彼が機嫌を損ねないことが大事なので、優秀で真面目故に彼の不備を指摘する田舎者を「態度が悪い」と言って左遷したりクビにしたりすることが多いです。
首都圏には遺産や不動産や漫画や小説などの版権を持っていて、定期的にまとまったお金が払われ続ける、段違いの金持ちがいます。
彼らも自分が嫌いな人が自然に不幸になるのを知っているので、わざと機嫌を悪くしているきらいもあります。それで、いつまでも幼稚で、努力しないし失敗も恐れますし、忠告も聞かないので、はっきり言って低俗で歴史認識が間違っているコンテンツもそのまま発売されます。
彼に意見を言うと機嫌を損ねられるからです。むしろ彼が赤恥でもかいてくれて、親御さんが裏でこっそり修正のお金を出してくれる方が、エンタメ業界にとってはいいのです。
このように、大幅な貧富の差があることは、彼らの為にも可哀想なことです。まるで母親を殺して自由に歌を歌うネロ帝のように不幸です。わざと転ばされて、それをおぜん立てして自分たちに依存させて気を使わせるようなやり方を好みます。日本で言えば、宮崎駿の息子に関しても、恐らくはそうだったのでしょう。才能を発揮されると困るのでわざと間違った方法を教えて煽てあげて、わざと失敗させて財産や椅子は別の人がもらっていきます。
他にも、婚活をしてわかりましたが、結局、私の仕事は都内にあるので、婚活をすると、都内の余り忙しくない仕事をしている人がまめに私に連絡することになります。
もっと必要な仕事をしている人は人手不足ですし、目立たない仕事なので予算も少ないのか年収が低かったりします。これで、真面目に謙虚に働く人は女性の出会いが少なく、暇でサボるのが上手い物腰が柔らかな優男ばかりが丁寧で親切で愛情深いように見えてしまいます。
それが自然の摂理であり、聖書を学んだ者たちによって動かされる神の手はその自然による破滅を妨害するのです。
たぶんそうしないと社会が滅ぶからでしょうね。
多くの哲学者や社会学者が「平和とは不自然によって成立する」と書いています。
■数学と天文学と社会学はキリスト教圏で発達し自然には生まれてこなかった
中国史も権力闘争に忙しく『杞憂』という言葉があるように、重すぎるリスクヘッジは度外視せざるを得ませんでした。
それは隕石の衝突を推測しなかった恐竜のように、予測不能な事柄で滅んでしまうのです。例えば中国では多民族の侵略などがそれに該当します。
自然、つまりは進化論の行く先は「暖かくて住みやすい所に生息する恐竜と寄生虫が最強」の世界であり、我々の祖先である哺乳類は多分鼠みたいに小さいか、マンモスのように寒い所に逃げていた鈍い生き物だったのかも知れません。(※巨人の様な大きいナマケモノみたいな化石もあるようですけれども…)少なくとも人間の様な知能の高い生き物は、速度が必要で考える暇がありません。森林の奥地に逃げた猿みたいにすみにくい所に追いやられた負け組の生き物だったことでしょう。魚も弱くて海にいられず淡水や泥砂に逃げた者が進化したように、追いやられた者が進化して生きました。恐らく、考える葦である人類が産まれるには、世界が一度何らかの理由で冷え切らねばなりませんでした。
考える者は恐らくは神と不自然によって生まれるのでしょう。科学が発展した地域はキリスト教圏ですし、イスラム国は知識を蓄えたおかげで西洋はルネッサンスの時期にそれを逆輸入でき、ユダヤ人のノーベル賞科学者が多く、「聖書は第一の書物、宇宙は第二の書物(ガリレオ・ガリレイ)」「神の秩序を宇宙から探る」という理由で自然科学や天文学や数学に予算が払われました。これに関しては後半で詳しく説明しますが、それらはやはり神の見えざる手なしには自然には軍事や産業や航海に関係しない科学が発生する暇がなかったのではないでしょうか。
ーマズローの提唱した『自己実現』の内容の違いー
日本人が参考にした西洋の社会形態が成功する補足資料として、昔は心理学の側面から、アブラハム・マズローの欲求段階説が採用されていました。
しかし、日本では、アメリカと異なる文化的側面があります。地味でキツくて尊敬されないアルバイトなど、やりがいを感じない職場では「お前が真面目にやると俺たちもやらないといけなくなるから迷惑だ」という批判を受けるそうです。ただ少しお客に親切にしただけでも出る杭は打たれる社会、それが日本です。自然な良心や思想の自由は認められていません。一番サボりたいあんまりご家庭で愛されてなさそうな外見のグチグチしたパートのおばさんにあわせて仕事をしなければならないのです。
アメリカ人のように英雄的行動をとっていると「でしゃばっている」と言われてしまう日本では、まあ平たく言えば「他人に迷惑をかけてはいけないが、正義感を発揮させるといい子ぶりやがってと言われるので、自分一人でできる努力しか行わない、黙って勉強して、いい大学を出るところくらいまでしか努力しなくていいという文化」です。
このため、例えば、子供が目指すところは『漫画家とYoutuberと医者』になったようです。
■自己実現の欲求を果たす前の段階である社会的欲求の所属先が米国と異なる
アブラハム・マズローはアメリカの人ですが、
所属欲求や社会的欲求をした時の社会の所属先が当然日本と異なります。
今は文化的クリスチャンと呼ばれる…さほど神を信じていない欧米諸国の人間も多いようですが、それでも少なくとも韓非子系の封建組織と実質誰も騙しあいを止められなかった世界の価値観に比べれば、「正直者で貢献心が強く積極的で気が利く親切な利他心のある理解者がどこかにはいる」傾向にはあると思います。日本では他の労働者がサボるのに邪魔になるので、よく成績は悪いが真面目な優等生が虐められて自殺することがあります。
しかし「多少の虐めはあってもアメリカの虐めより暴力的ではないではないか。治安は日本の方が良い」という人もいるのですが、
以下の引用先のリンクによれば、
積極性のある人助けは少ないとも言われています。
イギリスのチャリティー機関「チャリティーズ・エイド・ファンデーション(以下、CAF)が、8月に発表した報告書「World Giving Index(世界人助け指数)2024」を見てみよう。」
(中略)
この報告書によると、日本の人助け指数は20で、ランキングはビリから2番目の141位。相変わらず、G7の中では最下位で、アジア諸国の中でも最下位だ。
(中略)
台湾(59位)、韓国(88位)、中国(95位)(注1※中国は他の資料では49位だったので誤植だと思います)となっている。
リンク元にも書いていますが寄付率の低さも昔から指摘されてきました。
(注1※よく見ると別の資料では中国が49位に入っていたのでたぶんこちらが正しいようです→■)
他のnoteにも何度かその理由を細かく書いていますが、やはり聖書の影響が強いようには思います。(ポルトガルやラトビアは下位なのですが、人助け指数は50%を超しています。日本は24%です。40%を切っているのは38%フランスのようです)東アジアや東南アジアの植民地になった国の人助け指数が高いようです。
しかし、日韓のランキングが低めなのは面白い現象です。
同じく箸を使う地域で上座仏教国であるタイは12位と上位、ベトナムも47位で東アジアのナショナルカラーがレッドでお箸を使う大陸国の中では高い方です。隣の国のムーランルージュやポルポトで有名なカンボジアがビリなのに。ラオスは低めです。
上位のインドネシアはムスリムが多いようですが、こちらも植民地になったことのある国ですね。ベトナムも植民地になったからか、国民が信仰している宗教の割合では一位は仏教ですが、次に多い宗教はカトリックのようです。そういえば、私が足を怪我をした時に入院した病院の外国人の介護士の人は、ベトナム人とフィリピン人でした。確かに親切でした。フィリピンの人はクリスチャンだったようで、私が聖書を読んでいたら、話しかけてくれました。ベトナムの人に日常であまり使わなそうな方言の植物の日本語を聞かれましたが、メモを取っており、とても謙虚に日本語を勉強しようとしていました。
そういえば牧師さんがキリスト教の特徴を説明するときに「日本では迷惑をかけてはいけないなどの””やってはいけないこと””に対する罪はあるが、キリスト教では””やらない罪””というものも存在します」と説明していたのを思い出します。助ける義務が文化的にないとも言えますね。
日本人はそのような手助けは「政府がやればいい」と考えるようです。
そのために、国民は何かするときは「必ずお金を貰ってボランティアをするな」と言う人さえいます。しかし政府は憲法曰く、人民を奴隷化できませんので、募集に人が来なければ理論上は放置されるはずなのですが、大丈夫なのでしょうか。
日本人はこのようにして自分の悪事を隠し、社会的圧力で自分の儲けを独占した人を貧乏にして抑圧することが得意です。
これは証拠はないのですが、実際、ボランティアの炊き出しなどをすると、儲けが減るからか知りませんが、わざと悪戯して食中毒を発生させる人さえいます。特定の団体に敵対するボランティアグループや共産党に関係する政治団体に歯、よく、他のグループのいじめられっ子が入ってきて、その子が脅されて、共同体で悪いことをすることもあるのです。
しかし脅されていることが分かっているから優しい人に限って不起訴にします。こうして証拠が残らないのです。まるで『沈黙』に出てくるキチジローです。
(※2026年追記:あとで聞いたらああいう嫌がらせをするのは中韓系の帰化人の商人だという人もいるのですが、虐められている人が日本人だったり、そもそも混血も多いので、話は複雑そうです。
少なくとも私は東北の出身でしたが、こういうタイプの人は雪かきが必要な住みにくい所に少ないので、あまりそういう人がいませんでした。いても左遷されたのでしょう。さほど元気がないです。ゴキブリや寄生虫やコレラに似ているなと思いました。そのため、初めて関東やその人達が良く往来する新幹線や空港付近に行くとやたら性欲の強いクズが多いなと思っていました(※親切で知的な関東の人が可哀想です)そもそも歴史的に日本は中韓の大陸から上陸した人が南半分にいたので、私が在日韓国人でないかと疑っている人物は、ほぼほぼ日本人なのかもしれません。正直違いが判りません。)
裁量が多いという意味では、仮に優れた者が上にたてば安泰になりえると言えばそうですが、厄介なのは彼らの性欲が強く売春が大好きであることです。自分が女性を犯すだけではなく、結婚を紹介して感謝されてお金をもらうのも好きですし、もちろん騙して詐欺にかけることも大好きです。その上、遊郭の類を江戸時代からの文化だと主張する人もいます。人情深い人が多いですが、田舎から来た貧乏人が息子や娘に袖を振ると、逆上して影で殺す人がいます。美人薄命と言う諺がある程です。南の方の強くて恣意性の高い武士や新選組などの子孫なのかもしれません。
■騙しあいが前提の社会だと最悪人類が滅ぶという見解
個人的には、日韓の人助け指数のスコアが低い原因としては、『孫子の兵法をビジネス利用しよう』という発想…つまり実質陽動や社会扇動や騙しあいが自由という実態があるからではないかと思います。(※これの何がタチが悪いかはこちらのnoteをご覧ください→■。哲学者曰く、信頼関係が欠如している場合は、最悪は理論上は人類が滅ぶそうです)韓国はどうか知りませんが、少なくとも日本にはビジネスに役に立つ孫子の兵法みたいな本が売っています。
この土地に自然な善意のようなものが育っても、せっかく人を信頼しても裏切られてしまうので、善人なら死にますし、中途半端なら相手を恨んで復讐し、もし責任感がある人が完璧に自分の仲間を守るとしたら、先に騙し討ちをかけて天下統一をもくろむでしょう。いずれにせよ、これらの手法をが生み出すのは基本的には混乱と破壊と悲喜劇です。一瞬ややむをえずに使うにしても、指輪物語に出てくるフロドの指輪並みに慎重に扱わない限りその力のとりこになってしまう事でしょう。
日韓は、実質の人治国家的で人情や忖度によって物事が動きやすく、法治国家としての意識が薄いこともあるのかも知れません。
なお、韓国が詐欺大国だというお話に関してはこちらの引用をご覧ください
22年に実施された国際調査で「ほとんどの人は信用できる」と回答した韓国人は世界平均の30%を下回る23%だった。自国民より日本人を信用するという韓国人は多く、日本人を装った詐欺師や詐欺を働く日本人もいる。韓国人相手に気を張っている日本人が日本人に会うと気を許して騙されやすいという人もある。そう話す人も詐欺師まがいのケースがあるが、かくいう筆者も詐欺師に遭ったことがある。
数年前に書籍を出版した際、出版話を持ち込んできた在日3世を名乗る自称エージェントが詐欺師だった。筆者が知らない間に出版契約を結んで印税の半分近くを着服した。警察は韓国の法律上、横領になると話したが複数の韓国人から訴えられていたようだ。日本に逃亡した可能性が濃厚になり捜査が見送られた。
佐々木和義
広告プランナー兼コピーライター。京都の商業写真・映像制作会社を経て広告会社に転職し、住宅・不動産広告や三陸津波防災PR等に従事した。韓国に進出する食品会社の立上げを請け負い駐在員として2009年に渡韓。日本企業のアイデンティティや日本文化を正しく伝える必要性を感じ、2012年、広告制作会社PLUXを設立し、現在に至る。日系企業の韓国ビジネスをサポートする傍ら日本人の視点でソウル市に改善提案を行っている。韓国ソウル市在住。
このように所属先の文化が異なりすぎて、日本での資本主義は『職業選択の自由』によって崩壊するか、自分だけ遊び惚けて移民や海外の安い人材に他の仕事を任せる情けない国になってしまいました。
ー自由という単語から想起することー
自由市場や自由という単語にも、日本と参考元の欧米諸国では異なった意味合いを持っているように思います。哲学をたしなむような日本人にとっては『自由の刑』という言葉が通用しますが、恐らくは、庶民的にとっては自由と言えば「楽で楽しい」という印象があるのではないでしょうか。
■そもそも自由という単語から想起される意味合いが異なる
日本人にとっては「子どもが何も持たされずに外にほおりだされる厳しい自由」というよりは、「毎日決まったカリキュラムのある学校の何もしなくていい昼休みが自由」という感覚です。
あるいは親や教師や国家が常に自分を守ってくれている前提で学んだり、一部作業を行っている間に存在する「休み」というケースです。これは学校の教師や親や国家に守られて、労働を頼まれて行う人間の感覚の休みです。聖書で言えば奴隷の感覚の「休み」という意味での自由です。
休んでいいのかどうかは国家や学校や雇用主が決めます。その間は守られた状態なので本当に何をする必要もなく、自分の責任でその間のんびりしていても、誰かに叱られたりしません。他人の責任で休んでいるので、場合によっては勝手に働くことを禁止されることもあります。ある意味、奴隷根性が座った人の考える自由です。指示待ち人間とも言えます。
これが、反対に、奴隷や労働者や生徒や学生ではなく、
責任のある自由な人や、あるいは国家全体を動かす責任のある指導者、あるいはそれを委託され、やろうと思えば自己責任でたくさんの行動をとれる人の自由は異なります。日本でも「自由の刑に服している」という哲学者の言葉は知名度が高いはずです。休むときは自分の責任でいくらでも休むことが可能ですが、何もしなかった責任をとってくれる人がいません。
人によっては、逆に休めずにずっと仕事をしてしまって、無駄に疲れてしまいそうですね。そして本を読んでも読んでも読み終わらないような無限に近い知識や、まだ知らない科学や宇宙やその外側、生きるためにすべての知恵を得て、見えない未来を見据え、そしてそのコストを払いきることが難しいが故に社会の方も地に足をつけながら正解を選び続けることも、かなりきつそうです。
■聖書的には、死につながる自由は自由ではない扱いである
例えば、人間の赤ちゃんは高いベッドから転がり落ちたり歩いて転んだりして死んだり怪我をしたりしてしまうことがありますが、大人はベッドから落ちても骨も丈夫で背が高いのでダメージが少なかったり、あるいはベッドから落ちないように気を付けたり、落ちると痛いという知識を持つことができます。その頃にはベビーベットの柵は取り払われるでしょう。また歩いて転んでも、自分で消毒して絆創膏を張れるようになれば怪我で破傷風で死ぬことを防ぐことができます。
日本では死ぬ自由があることも自由ととらえますが、聖書圏では恐らく未熟な子供などが死ぬことは自由に含みません。聖書の自由とは、自分が全知全能になって永遠に死なないときにも自由になれる自由です(※日本人には支離滅裂な思考言動に聞こえるかもしれません。あるいは、理解できても「そんな、あるかどうかもわからないものを提示されても困る。ましてやそれを欲しいという動機に毎週日曜日に献金をせびろうと言ったって、俺は信じねえぞ、俺は現世利益の方が大事だ」と言われそうであることは重々理解しています)
このように自由になるには知恵や力が必要になってきます。
力によって自分を殺すことができるようになるころには、自傷行為をしないことを学びます。これは現代日本の大人も時々できていない問題です。
このように我々は、聖書の神様にとっては、「人類とはまだまだ心が傷つくと自殺してしまうような危険な子供や患者みたいなもの」なので、全部の自由はまだもらえません。
危険だからです。
神様は聖書の言葉や祈りを通して、死なない方法を教えてくださり、また忠実で安全な者には力をお与えになることもあります。(※因みにその力をちゃんと役に立てない場合は没収されることがあるそうです(※聖書のタラントンの例えやムナの例えを牧師さんに尋ねてみるといいかも知れません)
そうなると自由度が増えていきますが、段階を踏まなければいけません。何となく、禁断の実とは、酒みたいなもので、早い段階で食べたりアレルギーがある人は食べられない代物だったのではないかと思います。アレルギーは嫌かも知れませんが、他に美味しい食べ物があるので安心してください。余計なものを見ないので付き合いやすいという人も多いのです。
まあ、どうせ日本人が興味が一切ない神学的なことを端折って一言で言えば、「知恵が無ければ自由ではないが、知恵によって自滅する」とも言えます。
■満足な豚の自由?不満足なソクラテスの不自由?家畜の不自由?賢者の自由?誰から見て自由であることが自由なのか
例えば、豚が毎日望み通りご飯を貰って、自分がそうとは気がつかないうちに幸せに安楽死したとしても、知恵によって自分がどうなるかわかってないで自由とは言えないという思想があります。
しかしこれは私だけの思想なので、人によってはこの豚は自由とも言えます。聖書でも恐らくこれはこれで自由であると考えられていると思います。あるいは、聖書を知る人の中でも、諸説あるのかも知れません。
自由の形とは、人によって違いますし奥深いのである側面では一見不自由だが自由という複雑な形状だと思います。
私も実は全部はよくわかってません。
しかし、私にとっては自由ではありません。どうしてそうなのかはわかりませんが、自由だと思いません。ただ、日本ではこの豚は自由なのです。
恐らくは、私がこれが無意識且つ非論理的に直感でなんか自由だと感じないっぽい理由は、いくらか聖書ではなく哲学で聞いた価値観が原因です。
どちらかというと西洋的な「満足な豚より不満足なソクラテス」という格言の様なものを、無意識のうちに正しいと思ったのかも知れません。
しかしこれが正しい根拠は特にないのにです。
これは多分、論理ではなく、美意識の問題なのだとは思います。
恐らくは西洋にも存在する概念で私のように日本人であってもそれが自由ではないと思っている人もいるのだと思います。
ところでこの美意識があることは自由なのでしょうか?
それともこの美意識を持つと不自由になり、美意識を捨てることこそが自由なのでしょうか?皆さんはどう思いますか?
日本人の多くは社会人になると哲学を青臭いものだと言って捨てて忙しくなるので「休み」や、つまらない仕事ではなく夢のある仕事を目指しなおしたり、家族を支える責任から降りることを「自由」と呼ぶ人がやはり多いように見えます。つまり日本人にとっては自由は「楽になること」であり、「責任を果たすために凄く疲れること」ではないと思っている人の方が多いのです。
ジョン・スチュアート・ミルの『自由論』では英語の「free」と「liberty」の違いで説明されているらしいです。この楽になる自由が、制約のない状態の「free」であり、自由の刑の中で責任を持って行動することが「liberty」と呼ばれるそうです。
まあ言わんとしていることはこうです。
日本では自由論で言う「free」という意味での自由が主流なので民衆が「自由」になっても、日本で提供するサービスが高く、悪くなる一方なのです。
我々の生活が良くなって発展していくには責任のある自由であるlibertyを持っている人が先に行動し、彼等に雇われ人が不自由についていく必要があります。残念ながら自分から行動しないで指示を待つ人はこの先ずっと雇用主が自由をくれるまではずっと不自由です。(※キリスト教徒なら安息日や安息年(ヨベルの年)やブライダル休暇(新婚さん丸一年休み)はありますが)
しかし日本ではその働きがありません。
■自由の形は人によって違うので、真似しても自由になれない。
聖書の示す「自由な者」というのは、家畜の自由と賢者の自由の両方を含んでいます。ある意味で家畜の不自由だけではなく、賢者が陥る間違った方向へ進んで戻れなくなる不自由についてすら書いています。
自由の最適解は人によって異なるのです。そして我々人間にはよくわかりませんが、神様にはよくわかっています。これを信じることに関しては今までは科学的根拠はなかった者の、いずれ科学で調べた脳や性格の特性や哲学や心理学の側面から、その正しさは証明されていきます。そして「確かに私はこちらの方が向いていた」と証言し、今まで滅茶苦茶な立場の逆転をしていたことに呆れかえることでしょう。
つまり雇われる者は神に従うことで本当の自由を得ます。これの解説は難しいかも知れませんが、自由の刑の辛さを知っている人は良い雇用主に雇われる方が楽であるという幸せを知っていると思います。
一方で考えたり知的好奇心が強い者はその世界が楽しくはないかも知れません。だから神様に色々聞きだします。なお神様は良いことのために知恵を求める者を喜ばれるようで、誰にでも惜しみだてせず教えてくださるとも書いています。しかし知恵を教えることで死んでしまうこともあるので場合によるようです。
同時に聖書には「知恵が増えれば悩みも増える」とも警告しています。それが何か人にはわかりません恐らく全知全能になることも可能なのにそうならないということは、神様はすべての知恵を順序悪く人が受けると死ぬことがあることをご存じなのでしょう。
だから無理に知恵を求めて神様を困らせてはいけません。
それを与える時まで待ちましょう。
多くの日本人に信じてもらえないのはわかるのですが、神様は人々を愛されるのです。救うために他の子に「あいつを愛するようなら私は愛されていない。死ぬ」と言われ、別の子が「彼のために私は貴方に愛されないことを我慢します」とでも言われない限り、神様は我らを愛される方なのだと思います。
他にも、パンドラの箱のような知恵もいくらか存在するのでしょう。
知ると絶対に死ぬような話です。たぶん「信仰によって生きる」ことが大事である由縁だと思います。私たちは一度記憶を失わねば死ぬようなものなのです。
因みに私は容赦なく知恵を聞いて、嫌いな子を神様に殺させてしまいました。なんて親不孝なのでしょう。おかげで皆さんに知恵を話すことも可能です。日本人があまりにも私を信じないので、憎たらしくなって知恵によってずたずたにプライドを壊して殺してしまいたくなったから知恵を学びました。私はもう神を信じなかった日本人や韓国人が憎く、愛していません。
知恵によって貴方が苦しんで死んでもいいと感じています。
苦しんでいると笑いながらザマアミロと思えます。
蛇のしたかったことはこういう事なのかもしれません。
私と彼等とは、恐らくその自由の形もお互い違うので、私や彼らの自由の形を押し付けあうということは、恐らくは、お互いの不自由でした。
■自由のためには自分の適職は他人が決めるべき?
実のところ、教会にいると、教会の才能を見抜くことが得意な誰かが「この人が○○向きだ」だとかを霊的に決めて、ハリーポッターに出てくる組み分け帽子のように役割与えてアドバイスしてくれることがあります。
たぶんそれがないことが原因なのですが、これを日本で話すとまず「科学的根拠がないことで恣意的に人の自由を侵害する気であるか、キチガイの統合失調症だ」と言われるのでこの話を私もしたくない気持ちです。
実は、聖書では雇用主と奴隷の関係としては、世の身分の高い人は神様が選んでそうしたので従いなさいと書いています。実際、異邦人であった存在のキュロス王などがイスラエルを助けたこともあるので、それは異邦人の王でもそうなのでしょう。
この身分が高いものは神が定めるだとか、適性は教会で祈りながら与えられるという形式は、日本人にとって受け入れがたいことかもしれません。
日本人は努力によって職業選択の自由があると考えます。
しかし、ここまで読んでくれた人はわかってくれると信じたいのですが、
聖書を真剣に信じている人が多い地域においては「それは、自分勝手な決めつけで客観視できていないので、自分の価値観から自由になっていない為、素直に神や隣人の話を聞いていないわけであって、ある側面で不自由になりえる」という世界観が主流なわけです。
それは放置された赤ちゃんが絡まりそうなコードを無理に引っ張ってしまい、もっとごちゃごちゃと縛られるような感じです。
こういう時は、大人の人に手順を聞いて順序だてて縄をほどかねば自由になれません。あるいは赤ちゃんでなくても、自分の背中の結び目に関しては、他人からほどいてもらった方が楽に自由になれます。
その人にとっては大人の人が何をしているかわからず、途中少し紐を引っ張られて窮屈だと思って不自由に感じても、いずれその人は最終的にはコードから解放されて自由になることができます。
日本人の状態はこういう状態です。自分自身を客観的に見ることができないので、自由に行動しているつもりで自由になれません。
その上、コードをほどいてもらうにも相手の大人が親切な人かどうかわからないので、もっと縛ってほどくために脅したりお金をだまし取るのではないかと警戒しています。その為、牧師さんの多くがまず「あなたの神は貴方を愛しているから信じて」と言います。コードのほどき方を説明しても余計ややこしいからです。まず言うとおりにしろということですね。ここは信じてもらうしかないのです。
しかし現実は「こんなに親切にするということは、きっとお金が目当てに違いない」と思われている可能性も非常に高いのです。悲しい話です。
そのため、私はあえてこういいます。
科学の時代だからこそ、脳や肉体や性格に向き不向きがあり、それはゲノムの時点である程度定まる可能性が高いと思っています。
今まで証明できなかった雇われるべき者と雇うべき者の素質の違いは、今後は脳科学で立証されると考えます。(性格と立場も起因するので血統だけがそれを決めるとは思いません。人が植物や動物を食べる時、同じゲノムの植物でも日の当たり具合や水の当たり具合や病気の度合いで治療が必要か他の人を助けるのに利用できるかを決めるように、人が神様や人に選ばれる時は他のやる気や自惚れなどの意思の要因もあるのです。努力が全く無関係とは言えません)
それ故、「司祭や王族などの管理者や特別な知識を持つ君侯や預言者」と「日々を愛する労働者」が存在し、その役割分担は分かれていたのでしょうね。しかし神を信じない我々にはわからないことです。人は努力によって平等だと誤認していました。これは例え善意ややる気のある献身や怠惰の対極にある熱心な努力であってもあるいは謙虚さであったにしても「高慢」でありました。
■余談:高慢という単語も日本と聖書圏では意味合いが異なる
自由もそうですが、『高慢』という単語も日本人の思う印象と、聖書での意味が違う単語だろうなと思うのでせっかくなので追記します。自由という単語と多少関係もありますしね。
聖書における高慢というのは自分が人より優れていて自惚れているという日本のイメージに多少反している行動をとる人が多かったりします。
例えばバベルの塔では「他の地域に散らされるのが嫌で有名になっておこう」という理由で神の提案より自分の考えで行動しています。
どちらかというと自信がなさそうなのですね。
サウル王も部族長のサムエルに「高慢と反逆の罪」を指摘されてしまった王様ですが、彼も「自分は大したことがない」と感じているらしく王に定められたときも隠れてしまったりします。
聖書ではさらっと書かれていますがサムエルに「自分など何者でもない」と思っていそうなサウル王に「神に選ばれたものではないか」とたしなめられています。なんか聖書の中で高慢の罪を指摘される人の多くが「神様に愛されている自信がない」人が多かったりします。
一方で、新約聖書の方には「(神が裁かれるので)自分を自分で裁くことさえしない」とも書いています。神様を差し置いて勝手に自己卑下をすることさえ高慢であるということですね。
そして日本はどちらかの自由だけを押し付けがちな状態です。全体的に同じ教育を施すので、ある世代は雇われ人のような育て方をしますが、ある世代では個性派教育をして責任のある自由を要求します。しかし日本人が考える自由とは、雇われた人が計画して与えられる休み時間としての自由を連想します。
これも聖書や祈りがなく、中央集権で、一人一人を牧師さんや他の信徒が相談したり理解したりしていないことによっておこるように思います。
長くなってしまったのでこの辺で自由についての議論を止めておきますが、
いつかこの話もゆっくりしたいと思いますけれど、恐らくは、子供達全員に当時の需要を要求して、全員をそのように育てようとする日本の義務教育が悪いのかも知れませんね。私は個性派教育の時代の人間ですが、実際の現場ではさほど役に立つこともなく、寧ろ日本では雇われ人としての無個性を要求され続けていました。結果個性的であれと言われたのにも関わらず、個性を発揮できなかった職種の人は、自らを「敗北者」であると感じ、劣等感の中で漫画家や声優などを目指そうとしていきます。
西洋では教会が育てていた子供たちへの、本人の「自由になるより従いたいか」「自由になったほうがいいが最初からそうだと怪我をするので厳しくするべきか」あるいは「今は違うが理解すれば最終的には従う方が楽だと考えそうなのか」を本人の希望をお祈りや聖書を読んだ感想によって個々人と相談して、大人の人たちが様々な提案をしたり、時にはチャンスも提供されたかもしれません。そのような細やかな個性の相談や生き方の提供があったのでしょう。これがない状態で子供を育てたのは文科省の失態ともいえるかもしれません。
全国一律の教育は多様性に欠け、乱暴であり、多様性を認め過ぎると今度はただの無法地帯になってしまい、植物で言えば雑草ばかりの畑が生える自由、動物で言えば考える人間ではなく速度の速い欲深な恐竜が最も強い状態の自由になります。恐らくは人間は不自由でもないとここまでの科学を発展させた社会をつくれないのでしょう。
日本に神と個人的に祈る教会がない故に、何か大事なことを見落として、結果子供の幸せな人生そのものを失ってしまうのかも知れません。恐らくは、マズローの提唱した社会的欲求の所属先にも問題があったのです。幸せと自由は日本人である私にとっては必ずしも同一ではない事柄に感じるのですが、実際はどうなのでしょうね。
ー余談:他の要因の考察ー
以下は余談なのでまあ読まなくてもいいですが、私が思いついたことに興味のある人は読んでみてください。
■騙して当然の社会が背負うコスト
日中韓には非常に強力な戦術がまとめられている『孫子の兵法』があります。戦わずにして勝つという点で平和的だという人やビジネスにも応用しようという東アジア人もおり、書籍が書店に販売されています。
しかし戦わずして勝つというよりは、奇襲や社会扇動を行うというものです。他のnoteでも書きましたが、例えばカントの著作の『永遠平和のために』の第六条項に違反します。哲学者の意見では、「信頼関係を築けない場合そもそも条約締結が形骸化する為、もしこの第六条項を違反するのであれば、理論上は殲滅戦、人類の巨大な墓標の上に永遠平和が樹立する」と非常に危険視しております。
ところが日本では「戦争以上に悪いことは存在しない」という感覚であり、社会扇動や暗殺や毒殺などは、最小限の被害で済むので、騙し討ちの方が良いと考える大人もいます。「孫子の兵法をビジネス利用しよう」という本が出版されるほどです。特に仕事が奇襲になるので、自衛官の中ですら、自分の仕事が楽で主導権を握れるという点で、もっと使うべきだと考えている人さえいます。
彼の言い分では、彼が卑怯な真似で一般人を害した時にした言い訳は「俺よりもっと酷い奴がいるだろう。戦争をする奴とか!」とおっしゃっておりました。彼は強姦と社会的名誉棄損で自分たちに都合の悪い思想を持つ女性を自殺させていました。…あるいは、彼は自衛官を名乗ってはいましたが、実際は韓国のカルト宗教の一員かもしれません。中には怖い人と戦うのが嫌で、適当な性格の悪そうな女に冤罪をかけて強姦をするそうです。
用は、彼等は仕事はしないといけないのですが、より楽な仕事をやりたいので、自分で自分がやりたい仕事を作って性欲のはけ口にするわけですね。せめて何もせずサボっていてください。
この暗殺や毒殺や社会扇動、そして陽動による一般人への自殺強要に関する欠点とは、「実行者が間違っている時でさえ、誰もその実行者に反論ができない」ということです。
全て秘密裏に行われるので、何故被害を受けているかわからないまま、責任の所在も何がしたかったかもわからず、冤罪で殺された人に関しても保証も賠償もありません。
これでは権力者だけが恣意的に無責任に凶悪な力を行使できることになってしまいます。一度使えば手放せなくなる指輪物語に出てくるフロドがもっていた透明になる指輪のようです。
これでは被害者が泣き寝入りするしかないのです。
最悪が複数の人がこの力を使って大混乱になることです。日韓の人は独裁者が疑心暗鬼になるのが悪いという言説を話すのが好きですが、疑心暗鬼にさせた側に問題がないと思ってそうなので大変腹が立ちます。最悪被害者の言説そのものも信じてもらえないようにするために彼女に統合失調症の誤診をさせておけばより加害が発覚しないようです。まあ彼らにしてみれば「演習に死ななそうな思想犯とかを犯して彼女扱いして嫌がらせして大人しくさせて特定政党に不利な意見を言わせない」のが恒例なのでしょうね。昔は共産党員の女優などを犯して、そのあとどうでもいい醜い男性と交配させてその醜くて結婚できない子供の土地などを奪うのが彼らの常勝手段だったようです。証拠はありませんが、私がその被害者だからよくわかります。
聖書のヨハネによる黙示録をよく読むと面白いのですが、悪魔や偽預言者などと一緒に火と硫黄の燃える池に投げ込まれている人々の中には「人を殺す者」など投げ込まれるのももっともそうな人もいますが「嘘をつく者」も入っています。「嘘ぐらい許してくれよお」という日本人は多いと思いますが、手を汚さずに間違った情報で人を怯えさせて人殺しに変えてしまう恐れがあるという点では、きっと下手な暴力よりもとんでもなく凶悪であることが分かっていたのでしょう。
しかし日中韓ではどちらかと言うと疑心暗鬼になった為政者が悪いという言説を話す人が多く、詐欺にあう男女に関しても騙された方が悪い、騙されて怒る方が悪い、自分たちの愛の提供を喜ばない方が悪いという感覚があります。
これはある意味でヨーロッパにもある価値観かも知れません。いただきりりちゃんの理屈ですね。少しも貴方たちとの思い出は要らないので時間の無駄ですから押し売りはやめていただきたいものです。
日本でも奴隷商売が盛んになった時代に西洋の知識が入ったあたりで江戸の遊郭がそれに似ているような気もします。為政者をスキャンダルでバッシングするために識字率が上がったことも、フランス革命前後のヨーロッパに似た現象です。文化が似てしまったかもしれませんね。
一方、戦争は公に何をするか発表しますし、賠償責任があります。
責任の所在がある点が異なるのです。彼らは秘密裏に行い隠します。
これなら公に立っている人が不義を成したら裁判で裁くことができ、戦争責任を追及し賠償を払わせることも可能です。
場合によっては被害が最小限になることもあります。
(※とはいっても戦争は大体、嘘(詐欺)と戦争の合併症になるので実際はもっと大変なことになりますが、理論上は戦争の方がマシな計算にはなるそうです。何故ならいつ裏切るかわからないので約束そのものが出来ず、話し合いそのものができない為です。両方、賢い者同士のじゃんけんで訳の分からない行動をとるしかありません。常人からしたらはっきり言って怖いし気持ち悪いので、よく戦争が終わったら殺されがちです。そして最終的には平和なところを外部の勢力が壊していきます。中国史あるあるです)
(※例えるならウィルス(蚊)とライオンどっちが怖いかみたいな話です。最近日本ではマダニから感染するSFTSが流行っていますが、獣もダニからウィルスに感染します。こうなるとカント曰く「非常に悲しむべきことだが、あたかも宗教戦争の如く」戦い続けることになり、たぶんお互い嘘を付き合わねばなりません。相手が嘘をつくのに誠実にやっても死ぬだけだからです。その為誠実な者も狂暴にならねばなりません。私はオタクなので三国志が好きですが、曹操が『治世の能臣、乱世の奸雄』と呼ばれるのはそういう事なのでしょう。三国志演技では嫌われてかわいそうなので、治世の能臣にしてあげてほしいものです。本来は優しい人間だったように思うのですが…)
■東アジアで失われ続けた”信頼”という恩恵
話は変わりますが、各国で、株のようなシステムが発生した年代をご存じでしょうか。ユダヤ人たちが紀元前~2世紀ころ、(※手形などは8世紀ころ)、イスラム国が9世紀ころ、中国が15世紀ころ、西洋が16世紀ころ、日韓は西洋化したあたりに株のシステムを採用しています。(※江戸時代に株仲間というものは存在したようですが、どっちかというとジャイアンへのみかじめ料のような状態でした。因みに、私の祖父は退職金を野村證券に預けて全部失ったので家族が皆株をやりません)
株も紙幣も手形も非常に便利であり、経済や生産を円滑にする効果があります。しかし日本人が見下してやまない「神を恐れつつ同胞を信じる」という性質があってようやく成立できるのでしょう。
何故なら不信感があることによって、前項で説目した通り、結婚や差別階級の労働や生産や非常に強力な武器や兵力や忠実な何かや堅牢な金庫などによってその信頼を保たねばならず、信頼を保つことに対して「知恵も労力も人員も総動員しなければならない」という状態になるからです。
韓非子は始皇帝もライバルの学者も認める程に非常に頭の良い合理的な人ですが、性悪説による統治はコストがかかり過ぎてしまうという欠点があります。(※しかし周囲に強い民族が多く水源の問題で争いが絶えない地域では騙しあいも横行したでしょうから、性善説で統治をしたとしたらきっと、神が救わない限りは滅んでしまう事でしょう。その為「人智の範囲ではこれは仕方がなかった」と思います。中国思想は確かに神がもしおられなければこうするしかなかったという統治であるように思います)
そして信頼を担保するコストがあまりにも高すぎる故に、経済が滞り、科学的な発展があるとその堅牢な何かが予期せずに破壊されたりするため禁止せざるを得ず、原始的な生活から進化することがなくなってしまうのです。
そういえばこれは余談ですが、牧師さんも「信頼」ということについて面白い話をしていたのを思い出します。
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牧師さんは教会に来て説教をするなり「今日、この教会に来た時に、椅子を確認した方はいますか?」と聞くのです。
みんな意図はわかりませんが首を横に振ります。
「あるいは電車が大きく遅れるかもしれないと思って心配して何時間も早く来た人はいるでしょうか」とも聞きました。
日本で電車が遅れることはまずないのでこれも皆首を振ります。
牧師さんは「信じるって、こういうことを言うんだと思うんですね。当たり前すぎて疑わないというか…このように信仰とは、盲信的に「私は信じます!」と自分に言い聞かせるように信じるようなものではないのです。
聖書には、「信じます!信仰のない私をお救いください」と「信じていないことを素直に祈った」人がいます。…面白い祈りですよね。
私たちは信仰一つとっても神様に祈らなければ与えられないのです。…
(この後別の話をしていましたが、私の記憶からなくなってしまいました。確かに我々は起こりうるリスクを把握しきれていないのに無根拠に生きているなと思わされました)
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(※間違っていたらすみません)
そういえば、我々は普段意識せず、「今日は頭に隕石は降らないし、地震が起きる可能性は絶対ない」とか「人間に寄生するロイコクロリディウムのような生き物の存在に急に寄生されないし、水道やコンビニの食事に毒が入っていない」と思い込むようなことは良くあります。疑ったら逆に服毒妄想だと言われて精神のお医者さんが呼ばれると思います。全力でそれに対策したら個人では厳しいものがありますし、気にしたらノイローゼになりそうです。しかし、本来はあるかも知れません。なぜか気にならないのです。
「共食いすると異常プリオンが出る」という現実の事象も含めて、「未知のものが多すぎてどうしようもない、寧ろなんで俺は今まで生きていたのだ。奇跡かよ。むしろ俺とはなんなんだ。なぜ何も知らなかったのに俺は何か信じていたと思っていたのだろう」と感じます。
しかし、人々は自分の知能の限界を想像しなかったのです。
彼らは、恐らくは、実害があって気にするべきこと、つまり、
「手を変え品を変えて秩序を破壊する悪党や犠牲者の報復の無限の可能性」を信じました。偶然矢が飛んできたとしても、陰謀の可能性があるので村一個を焼かねばならず一家全員抹殺と言うことは、東アジアでも西洋でも中東でも古今東西あったことです。アフリカ史と南米は詳しくないのでちょっとわかりません。
今でこそ平和な世の中になりましたが、確かに昔の中国であれば、もしそちらのリスクを考えなければ、恐らく死んでいたと思います。
のんびりと「もし天が落ちたらどうしよう」などと考えている暇はなかったでしょう。それは『杞憂』と呼ばれて馬鹿にされたことだと思います。
もし、先進国の高度な教育の現場であれば、子供がそれを話し次第、「斬新な発想であり、科学のはじまりであって、良い質問だ」と言って好奇心を褒められ、嬉しそうに学者たちが現代物理学や学者たちの思考の道筋などを子供にもわかりやすく教えてくれるかもしれませんが、
当時は杞憂と呼ばれて一笑に付されました。
(※現代でも場合によっては喜ばれないこともあります。確かに知恵とは使いようによっては破壊や混乱を招く危険な能力でもあるからです。)
実際、魅力的な立地に住んだり、強力な武器や好ましい商品や人材を生産したり、気に入らない法を制定する王族を殺したいだとか、都を欲しいと感じる悪党の数の方が多かったのでしょう。どこから何が飛んでくるかわかったものではありません。先に殺してしまって恨みを買って死にかねないです。四面楚歌です。
■経済効果のある『信頼』■
この異邦人にとっては愚かな『信頼』こそ、
我々が神を知らない人類の最高峰の知識で争っているのを横目に、強力な社会システムや科学的な知識や法解釈を育てたあの輝かしく強く知恵深い歴史の中心地にいる『聖書』を授かり神を恐れだした民族たちの恩恵の一つなのです。
これによって我々はたくさんの犠牲から解放され、経済的にも利便性が上がります。海外では就業先の宗教を気にする労働者が多いのも頷けます。信頼されるためにいちいち「風俗に連れていかれ弱みを握られバカのふりをするまで無言の圧力をかけられる続けるような企業」だったらたまったものではありません。これが嫌で日本男性は自殺してしまう人がいます。寄りにもよって「自立して考えて行動する正義感の強い男性」ほどこの風俗に連れていかれるという風習で淘汰されてしまいます。こうして性欲が強く正義感がない男性が厳選されながら出世して繁殖します。そういう男性は利発で賢く浮気を見抜くような女性は選びません。ふんわりしていつでも笑顔の女性だが浮気をする気力はなさそうな大人しい女性を選ぶ確率が高いでしょうね。
たぶん夫婦そのものは一見幸せそうなのですが、子供は少し苦労しそうです。
■優しく忠実な日本人がこうなった理由
このような手法がとられるのもある種の日本で責任のある人の民主主義に対する絶望が感じ取れます。
「いつになったら民衆は目を覚ますのだ」
「ダメだ、いつまでもアホのままで漫然と生きて、ゲームや漫画しかしていない」「自分だけ真面目でバカみたいだ、彼らはわかってもないのに我々のすることに文句しか言わない。話すアイディアも周遅れだ」
「やはり戦中の日本のようにもどして真面目に働く人材を作るしかないのではないか?」
「一部の男性を昔通りの体育会系のように虐めあげて働かせたが、他の自由な国民は彼らの作る利益でコンテンツ制作ばかりやりたがる。下手に危険な仕事をさせるとうわの空で危なっかしい。一体、いつになったら民衆の力でこの世界はよくなっていくのだろう」
「ああ、ああ、だめだだめだだめだ!!よその国にも迷惑がかかっている!何かみんながやりたくない仕事をさせる時は、
やはり戦中戦前の古き良き日本を取り戻すしかないのだ。
すなわち結婚を餌にする統治、醜い男に大人しい女と、浮気相手に美しい子供を産まない美女を愛人(風俗嬢)としてあてがう手法を使うしかない。
結婚と責任、これこそが日本の労働者の原動力だった。
戦後を支えた立派な英霊や先人たちはそのように働いていた。
子供たちは大いに嫌がるであろうが、やはり、伝統を取り戻すしかないのではないか?従業員を見るに、彼等は自由など身にあまる面倒であり、本当は我々に従っていたいのではないか?あの愚かで醜く体も小さい可哀想な猪たちは、本当は自由なんて望んではいないのではないか?皆、「父のように一生懸命勉強して学歴をつけて働いたのに父のように生涯大事にしたいような嫁が来ない、嫁が来ない」と泣いている。かわいそうに自信を失っている。
自由にしろと言っても皆押しなべて同じ金髪でルーズソックスの不良になるだけである。時間の無駄だった。風紀は乱れるばかりで、まるでそういう義務のようだ。しかも中途半端な偽善者で、なるべく楽な道を選ぼうとする。これではいけない」と思う人も少なくありません。
一見するとこれも一理あるような気もします。
他に人が働く方法がないと考えれば「やはり昔に戻るしかないのでは」と思う気持ちも理解はできます。(※結婚と売春による統治は長続きしない上に主に女性や男娼の人権侵害と多すぎる予算と裏切りのリスクを伴う為、この見解はやはり正しくはありませんが、今よりは国っぽくなる感じはあります。ただ「騙された国民による餌で動く民主主義」でなければならないと命じられただけの責任感のある真面目な人だけで、狂っていたわけではないのでしょう。間違っていただけです。
それに、仮に正しい道がわかっていたにしても、その道は非常に狭き門であり、確かにそうしないと国民から「ナチスだ独裁だ共産主義だ」と言われそうです。独裁独裁と言いながら、その意味をたぶん理解してないのにです。
たぶん、プラトンの著作に出てくる登場人物が嫌なことを言われたときに事あるごとに言う「そんなことを言うやつはスパルタ人だ」みたいな台詞とか、日本人がハゲてない男性にも怒りに任せて勢いで「ハゲ」とか「バカ」とかといってしまうみたいな意味で、その意味を理解してなくてもとりあえず言っておくレッテルとして「独裁者」の烙印を押してそうです)
しかしそのうち、不運にも奴隷化された人たちに我々は同情し始めました。
「学歴がないのは単に育成環境が悪いだけではないか?それなのに学歴で差別するのは間違っているのでは?」すると、学歴によって差別することもいかず、奴隷がいなくなってしまったのです。こうして、みんな勉強しなくてもホワイトな危険ではなく汚くなくきつくない仕事ができる声優や絵の仕事を望んでいます。そうでないと「努力しなかったから底辺職をやっている」と思われるからです。
日本人は何故か「奴隷」というものは悪いものだ、人権侵害だと教わっていました。しかし今でいう単なる労働者と言えばそうです。聖書的な奴隷の制度であれば、7年働くと自由の身になりますし、怪我をしたら自由にして挙げねばならないので大切にされたかも知れません。(※ただし、ロトの娘のモアブとアンモンの、近親相姦で生まれたダウン症の疑いがある民族の混血には参政権はありません)
それに我々はお互い、自分の違いに気が付いていなかったのです。決められたことを何度も行うのが好きで柔軟に対処するのが苦手な自分がノブレス・オブリージュを常に気にしないといけない貴族などには向いていないことを。そして労働者たちは知りませんでした。暗記力はあったが自分が考える仕事に向いていなかったことを。しかし、その話をすることは優生論的であり、貴族的な高慢な意見のように教わっていたので、誰も指摘できません。日本では努力によって人は平等だと誤解され続けています。また、科学がまだ完全ではないのにもかかわらず、証拠が残らないが存在する事象に関して、盲目になりやすい側面があります。
貴族とは、例えば古代ローマでは「実費で馬を用意して危険なアブミなしの乗馬を行い戦争で功績をあげる者(普段は農業をして兵站を自力で用意するのは当たり前、他の農民もそうである)」でしたが、
日本人の感覚では「実費でボランティアをして危険な仕事をする奴とは奴隷あるいは社畜」だと思っています。現代日本で自衛隊に「農業も自分でやれ」と言ったら多分退職者が続出、ボイコットされて政治的な問題としてネットで騒ぎになりそうです。日本人は、貴族は奴隷あるいは家畜(社畜)だと思っているのです。
(※2026年追記、貴族に関してこのように書きましたが、最近は、性欲を起因としてよく働く短慮な略奪者の功績が高いだけの人が多いような気がしてきたので、ここでいう古代ローマ式の貴族を賛美するのもよくないと感じてきました。やはり頭脳労働者に無理に戦争に行かせるのは正しくないのです。私は頭脳労働者と肉体労働者のミックスですが、「お前が戦争に行かないのは狡い」と言われ続けて生まれさせられた中途半端なケンタウロスのようになりますし、私が産まれるまでケンタウロスの逆の様な者が産まれて気の毒なのです。やはり頭脳が優秀且つ貢献心のある思慮深い者が上に立つべきだと感じました。やはり階級制の方が長い目で見ていい国家になるのでしょう。そんなわけで私が二度と産まれないようにするためにも、運動ができないからといって賢く思慮深いものを馬鹿にしてはいけません)

親御さんはこういいます「高い学費を払って大学に行ってせっかく学歴があるので底辺の仕事をするのはもったいないではないか。教授になりなさい」と。
彼は研究の意味がよくわからないのでガンダムをつくっていますが、とがめる知能がある人がいませんし、彼にそれを受け取る知能はありません。それに、椅子は座り心地が良いですし、肩書はモテます。
しかし、それは本来の意味での貴族ではありません。ホセ・オルテガ・イ・ガセットの言う『貴族』ではないのです。頭上のダモクレスの剣に気が付かないで椅子の座り心地の良さを堪能する者は向いていません。慎重だが勇敢なものがそこにいるべきですが、愚かで勇敢な者や慎重で臆病な者を見抜くことは難しいケースがあります。
また日本は頭脳労働の軽視が酷い国なので、日本ではキリスト教国が入るまで社会学や科学がなかなか成長しませんでした。
平賀源内もエレキテルだけではなく、『サトウキビの栽培』という死ぬほど大儲けしそうな事業を成功させたのにもかかわらず、恐らくは小説家として囲われたあげく適当に怒らせて冤罪を着せられて財産をすべて奪われて死んだものと思われます。(※この儲けた人材を適当に怒らせて財産を根こそぎ奪うという方法は今日でも利用されています。当たり屋的な仕事です。例えばオウム真理教などは教祖が大儲けしたから、そろそろころあいだとして警察組織が収穫したようなものです。他人に手を汚させて利益は自分のものにするわけですね)

日本では頭脳労働者が何か功績をあげるとその後虐待して背が低く目が悪い人と交配して虐待して逃げられないようにします。これは頭脳労働者だけの対処ではなく、陶器職人もそうで、海に行くと泳いで逃げるので山しか見たことがない職人もいます。日本や中国や韓国では頭脳労働者や技術者は虐待されやすいのですね。現代においては非常に有名な大企業の御子息が「文学なんか役に立たない」と裏垢で話すほどで、科学や技術はともかく、社会学者や文学者は役立たず呼ばわりされているようです。
本来は、きっと彼らは司祭職で人々を教育したり状況を把握したり司法を司ったり今必要な思想を呼びかけたりするような立場だったのですが、東アジア人たちは、全員無知なまま単純作業をする方針を選んだのです。思想をはぐくむことは反逆や空気を読めない事、聞き分けのないこと怠け者のすることで、庶民が知らないことを詰って、禅問答で理解させず、冷笑し、自分を誰かに尊敬させるためにあります。(しかし、そうしないと動かないという問題はあったでしょう)
奴隷は実は聖書では権利が保障されていたりしますので、今日における労働者みたいな扱いなのではと考える人もいます。そもそも、従いたい人間に関して言えば考えるという面倒な価値観で、自分が劣等性になることを喜んでいないのかも知れません。その場合は考えない自由があります。
厄介なことはあまりにもアホだと自分が向いていない事すら気が付かないで図々しく玉座に居座ることですが、逆に貴族に向いている人たちは「自分たちが怠けている」と思うと「向いていないのに頭脳労働向きの体で実作業を行う」ので本当に気の毒です。
余談ですが、平等を目指すためにあまり頭のよくない人と結婚して結婚後呆れていたら、相手が「むずかしいことを言うので楽しくない」といって浮気する現場もよく見ます。対して美女でも美男でもない落ち着きそうな人に浮気することが多いです。

一方で貴族に向いている真面目な人は、結婚は義務として結婚生活を完璧にこなそうとします。そこが「楽な方楽な方を選んで図々しい庶民たち」にとっては息苦しいから浮気されるのでしょう。
近年の日本人は特に正しい人を好まず優しくて面倒を起こさない人を好みます。
■遺伝に対するタブーを語ることそのものができない
生まれた子供は本当に可哀想です。
外見は庶民で知能が貴族、知能が庶民で外見が貴族の子供たちが生まれ、若者の中で一番人気なのは外見が貴族で中身が庶民の子、みんなの人気者です。見かけは同じアジア人や白人同志でも、やはり金持ちと庶民の顔面格差は開いていることが多いので、結局は『黒い皮膚・白い仮面』というフランツ・ファノン著作の書物のようです。
周囲がリベラルで外見や人種を気にしなければ彼らの知的さは見抜かれるかもしれませんが、そうではない庶民階級が多い場所では、中身が貴族向きでも外見が悪ければ見下されて、その正義は嘲笑されます。

特に、「自分なんかはさほど学歴もないのだから、貴族向きの思考回路があったとしても、今の時代は庶民のように働くべきだ」と思っている真面目な人は、最初は良いですが、周囲に同じぐらいの知能の人がいないことに苦しみ、よく自害します。
貴族的な人は、自分が効率的な仕事方法を提案して褒められる時もありますが、残念なことに日本では「我々の仕事を新参者が奪った、何もわかっていない手作りに心がこもっていない、口を出して”ズル”をするより手をうごかせ!」などと批判されることの方が多いでしょう。もし一度失敗すれば、「それみたことか!」と大喜びでバッシングされ、責任を取らされ、嫌がらせを受け、それ以降もう二度と出番はありません。
日本では労働者が一番権力を持っているので、労働者がやりたくない仕事は自動化されますが、労働者がやりたい楽しくて汚れない仕事は労働者が必死に問題を訴えるのでなくなりにくいのです。例えばプログラミングの特許や著作権は誰も擁護しろと言いませんが、生成AIによってできるイラストは著作権の侵害について甚だしく問題にされます。
ローマの信徒への手紙 5:7 (新共同訳)
正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。
お気づきかも知れませんが、正義は正直に語る者に関しては狡い手法が横行している場合は弱い時があります。正義は基本的に嘘をつきません。疑心暗鬼や疑いがあると、終わりのない争いになるからです。
しかし嘘をつかれたら負けてしまうので、やり返すように狡く振る舞わねば勝てない時があります。そういう時の正義は柔軟ですが、あまりにも強すぎるので普段は気の毒なので封印しています。自分が死ぬギリギリのところで立ち上がって、今まで容赦していたことを全く許さなくなります。
この世界には正しい復讐が存在する時があります。キリストが許せと言ったので許すべきだという話はあると思います。しかし、「許さないことを許せ」と言ったら誰が貴方を許すのでしょう。
恐らく神様が払ったイエス様の犠牲というのは、「わざと悪人が恣意的に過ごした国を自由に作らせて」その失敗例を歴史に刻んで我々が理解するためにあったのでしょう。結構辛い話ですが、それでもそうしないとどっちにしろ我々人類が滅んでしまうのです。
これが生命工学に手を付ける時代になってから起こったら大惨事でした。
神様は賢い方です。善かったら、聖書のローマの信徒への手紙の1章24節以降を読んでみてください。納得できるはずです。
信徒たちは、この誤りを止めるための証拠の歴史そのものになった者もいます。非常に重要な犠牲でしたが、私のようにそこまでにはなれない者はこうしてただ記録をとっています。神様は乗り越えられない試練を私に与えなかったのです。私も最初はその記録になろうとしたのですが、川に落とされて自害に見せかけられて死にかけ、仮死状態だったものの、こうしておめおめ生きてしまいました。これでは記録になりません。歴代の信徒たちには頭が下がる思いです。この歴史は確実に後世に役に立つものです。
だんだん後半は楽になってくるので、私は歴史になってくださった、様々な殉教者や優れた著作者たちの歴史をまとめるだけで済んでいます。皆さんよかったですね。
そんなわけで聖書に書かれていることを実行しないと、
貴族に向いているような人より、我儘で主張がはげしく愚か故に大胆な方が徐々に増えていくでしょう。優しくて責任感があると好きでもない異性と結婚しやすくなるので、正義感の強い自由なものほど醜くなっていくかもしれません。しばらくすると知能が頭打ちになるので、結局頭の悪い方が減っていきます。余裕があれば彼らは顔と知能をアップデートしますが、大体その余裕は人権的にないので、徐々に顔と知能がダウングレードしていきます。
とくにあまりにも高度な知能は理解されません。
特に形而上学や数学的な知能などは何を言っているか理解されず、見逃されやすいものです。顔が悪ければなおさらです。歴史の前半でも建築や軍事以上には用いられません。航海や農業に役に立つ天文学や動植物の観察はともかく、音楽と物理学の関連性や金星の満ち欠けの発見に関しては予算がないと難しいのではないでしょうか。実学だけが発展してそこで発展を止める可能性が高いです。恐らくですが、教会は…多分旧約聖書の中にある悲しい結婚のエピソードを読み聞かせながら神様と祈る中で、この不幸な結婚を止めてくれることが多いように思います。個人的にはだから東アジアの人は個性的過ぎて結婚を控えたくなるような変わった容姿の方が多いのだと思います。頭のいい人は自然状態で死んでいく宿命なのでしょうね。科学もさほど発展しません。歴史の中でも東アジアには非常に醜いが知恵のある人が登場します。
しかし、あまりこの話をすると日本では怒られるのでこの辺にしましょう。日本では反民主主義的、優生思想的な話をするのはご法度なのです。
私も一般市民なのにです。商売の邪魔になる一般市民は殺してしまえば満場一致なのです。彼らは王政の権力の恣意性を批判しますが、似たようなものであるうえに「子供が泣くことで親を支配することを覚える」ような権力なのです。日本の最近の都政のプロジェクトマッピングや噴水などの予算の捻出を見れば、この民主主義…いいえ、法治の意識の薄い寡頭制を、権力者の恣意性が低いとは言えないでしょう。しかも売春業者が権力をふるうことも多いのです。
■自由市場が決める価値がキリスト教圏と異なる
『経済は感情で動く』という本がありますが、その通りで現地の人の文化で「何に価値を求めるか」が異なるわけです。「隣人を愛しなさい」と言えば、信徒たちはそのためにお金を使い、「裁判で偽証してはならない、偽りの分銅をつかってはいけない(フェアな取引をしなさい)」と言えば、ぼったくりのような水素水を人に売りつけることもありません。これで水素水の価格は自然に下がり、人を大事にする仕事が褒められて価値が高まります。
このように教会は物の価値を清める効果があります。日本にはこれがないので「楽をして儲ける仕事に永久に就職できるようになるための学費」などが非常に高額になります。また楽な仕事に何度も行政からの補助金が流れるとその政治家が当選するような形となります。
日本の庶民は理性でこの自分の国を腐らせる手法を止めることができませんでした。
まあ、彼らにとっての悲劇とは、「考える仕事とは上級でありエリートのする仕事でモテる」が、「勉強ができない我々はたとえ優れた集中力や親切心や丁寧さや繰り返しの作業を飽きずに根気強く仕事をすることや体力があったりあるいは車を運転するのに向いている空間把握力があるだとか様々な能力があったにしても、それは底辺の仕事であり劣等な仕事だと思い込んでしまった」のです。それらの能力は学校のテストであまり測定しない能力です。
結果、あまり勉強ができない彼らにとっては、「考えるエリートのホワイトな仕事はエンタメの仕事」ということになってきました。東京では特に難関大に入れなければ、みんな美大に入ってお絵描きをしています。地方にいったら都落ちと言われ、田舎が大嫌いだった父や母に泣かれてしまうので、仕方ないのかも知れません。周りにはとても賢い人も多いでしょうし、つい比べてしまうのでしょう。
しかし東京に来る田舎のお絵描きが得意な人は大体金持ちで努力家で頭がいいことが多いので結婚してはどうかと言われても大体話が合いません。
彼は東京に生まれたのに難関大学に行けなかったあんまり努力しない人たちなのです。しかし大卒と結婚できないとバカにされるので無理に結婚して破滅します。
もういったん凝り固まった価値観を変えるのは困難です。「君が得意な仕事はこれだよ!」と教えると、まるで御家断絶されて気に沿わぬ相手と結婚させられそうになったか、何か結核のような感染症の病気が見つかった時の患者のように泣き叫んで「自分はそうではない!もっと努力するからそんな酷いことは言わないでくれ!!」と言い張るかもしれません。
それが神様が彼に与えたギフトであり、みんなに愛されるために与えられた素敵な特技であってもです。日本には聖書はありません。社会と親の価値観が絶対なので、それを払しょくすることは、日本にキリスト教を広める程度に難しいはずです。成功率は人口の1%程度でしょう。
あるいは、懇願を通り越して、自暴自棄になって「この優生論者が!私の仕事を奪うな!努力は平等なんだ!努力の才能こそ最高の才能なんだ!」と言って死に物狂いで攻撃的に振る舞うかもしれません。
我々はなんと残酷な単一価値で子供たちを評価してしまったのでしょうか。一度染みついた価値観を変えることは難しいです。文科省は違憲裁判を受けるべきだと思いますが、どうやら文科省にはもともとミュージシャンだった人が座っているケースも多いので恐らくエンタメ業者と仲がいいので下手に意見をすると、何らかの支持率が下がりそうな切り取りやバッシングや嫌がらせを受けるかもしれません。
彼らは彼らでよい才能を持っていたのに、むいていないと言われたら、まるで結核を指摘された病人や聞かれたくない出自や前科が知られたかのように悲嘆にくれ、必死にそれを隠そうとするのです。
我々が本当の意味で多様性を認めたとき、それはなくなるのかも知れませんが、残念ながら、今の時代は事実上は人の職業や優劣や職に貴賤があるように見えます。資本主義の欠点の一つに、適正な給料が必要な仕事に払われにくく、儲からないゴミ処理などの仕事がおろそかになるという点を私は思い出します。これはアメリカでもそうでしたが、下水の処理を怠った結果、海で途上国レベルの病気が発生した州があるそうです。東京湾も臭いそうですね。
日本人は自分たちの給料額の比較や豊かさを誇りますが、環境に対して、あるいはもっと大事なことに対してやるべきことをしていないうえでの給料であれば、本当にその数字を誇っていいものでしょうか。
もっと他に大切にすべき価値観はないのでしょうか。
市場が自由に価値を決めるとき、その後ろにキリストがいなかった場合、市場は本当に正しい価値設定をできず、短絡的、刹那主義的な性交渉にばかりお金が支払われ、「労働者が売りたいあまり汚れずに作れるエンタメや漫画や服や装飾ばかり購入させられ、そのために広告が儲かる」ような社会になり、必要な業界の少子化や、あるいは彼らの仕事を評価したり感謝したりねぎらったりする時間そのものを失うかも知れません。
教会に行けば毎週地域の人が集まるので、いろんな業種の話を聞きます。明らかに困窮した利悩みがあれば一緒に祈るので協力できますし、良心に根差した速度の早い再配分や協力も可能です。最近大体の日本の問題の殆どが教会があれば解決するように思っています。暇なときにフローチャートを作って全部教会があると解決する図を作ろうかなと思います。
日本の民主主義は、まるでダモクレスの剣に気が付かない庶民のようです。憲法12条を忘れて参政権という玉座にいることを忘れて遊び惚けています。
それもそのはずで多くの人は政治に向いていないのです。彼らはやりたくもないことをやらされて大切な時間を潰されて不自由なのに自由だと言っています。
こうしてみんながエンタメをつくって楽をする為に何者かになろうとする国となりました。あまりうまくない人が先に先輩になると、私よりよほど絵が上手い人も採用されない時があります。何者かになるにはライバルを芽のうちから減らすのは仕方ないのでしょう。絵がうますぎる漫画家もよく途中から編集に何か言われたような変な物語になりがちです。
日本も韓国のように少子化しそうです。日本の場合は、はっきり言って世界に比べると見劣りする素朴さがあります。わびさびでしょうか?いいえ、滑稽で幼稚です。
また美女や売春婦たちも自分たちで独立してお金を稼ごうとしたので、今まで必死に働いていた醜い男性のお嫁さんが来ないので、モチベーションも失われてきました。
醜くて会社の言いなりで正義感も低く家弁慶の日本男性を愛し続けるには日本女性は自由で我儘になり過ぎたのです。こうして誰も働きたくなくなり、
日本人は仕事を外国人に依頼することになりました。
しかし、日本政府からアフリカに投資していた予算はどうやら回収できずに奪われて終わったようです。他の移民政策も追い出してほしいという声が大きくなっております。この先どうなるのでしょうか。
■余談:信じてもらえない善意、求められないボランティア
これは余談ですが、おかげでそんなこと(※上司と風俗に行くなど)をしたくない正義感の強い男はあまり出世できず、結婚もしないで子孫を残さずに死んでいくことが多いです。
どれだけ努力しての実力をあげても何か意見する人であれば「要領が悪い何物にも成れない口ばかりの童貞」と揶揄され続け、自害する程の精神的肉体的な屈辱を受ける人も多い。見下されて醜く黙って仕事をする者か、よく言えば要領がよく悪く言えば卑怯で性的な男性が出世します。
顔が普通以上で虐めにくく正義感が強い人は実力に関わらず左遷されます。醜くて大人しくてプライドが低いとそれを理由に見下せるので生き残ることもあります。(※中国ではそういう人が反逆した歴史もあるので、もしかしたらこのような人も事前に激しく意味もなく虐待されている可能性はかなり高いですが証拠はありません。
本人も醜いから虐められていると信じている可能性が高く、そのようなことをされたら社会を愛せませんから、何らかの暴力をふるって彼の方が悪役になっている可能性も高いのです。
例えば京都アニメーション放火殺人事件などはその可能性もあります。
この国では和のために正義が丸く折られて醜聞により逆らえないようにすることで組織維持をもくろんでいるように思います。
中国史からくる経験則なのでしょう)
余談ですが、個人的には、本稿を描いたきっかけとしては、『この様な組織運営による社会形成は、長い目で見た経済的な損失や、少子化における問題がでる為に、それを阻止したくて書いている』という側面もあるのですが、
それ以上に私自身がこの『紀元前前から続く人権思想に反する時代遅れの軍事的な組織維持方法や風習が感情的に物凄く嫌』なのです。
「確かに今まではこれをしないと皆が働かなかったのはわかるのですが、ちょっと待ってください。我々が、聖書に書いているような自主的な貢献心を出せば防止できるのではないでしょうか。全体が無理だとしてもそういう場所で働きたい人だっているんですよ。海外はそれで回っている社会もあるんですよ、我々もそれがいいです」ということを言いたいのでこれを書いています。
以前私は表現の自由と、子供が性的コンテンツを見ない自由の話をしましたが、その中で『日本の右翼は海外の右翼とは違い保守の中に聖書がないので、農民上がりの武士や旧日本軍や武士たちが遊郭などで虐待した娘を功労者に与える古代ローマの英雄が社会を守る形式の伝統を守ろうとするので性から解放してくれず、では左翼が子供の自由を守ってくれるかというと、性からの解放を通り越してLGBTなどの性癖の自由を好きにしていいんだよと言われるので、性が嫌な子は居場所がない』という話をしましたが、海外と日本の伝統が違うので、やはりここも違うのです。性が嫌な人の居場所がないのです。もう少しお坊さんとかが頑張ってほしいですが、生臭坊主という言葉があったり、残念なことに、神社などは人身売買の匿い場所になってしまい、巫女さんが冷水を浴びて不妊症になることで処女風の女性を提供し続けることができるような施設になっている時があります。現代でも巫女さんには一定数の性癖があるようですが、そういう事なのでしょうね。そもそも遊郭やその手のお宿は神社の前に並んでいたそうです。古代ギリシャみたいですね。江戸時代か安土室山時代あたりから誰か来たのでしょうか。
海外では就職する前にその会社の宗教を聞きますが、キリスト教系の職場を所望する人が多いのも私は納得するのです。
そしたらハニトラにはかからないでしょう。
みな神様のために働き、意見が割れたら聖書を取り出せば黙るのです。最高にありがたいです。就労希望理由がハニトラ目当ての変態紳士でなければみんな大喜びです。
しかし、そのような文化ではない為、その意見を表明することで出世が阻まれるので、日本ではみんなこの話を切り出せません。
(※もしエンジニアにもわかる例えで書けば、適当に海外のソースを魔改造して組み込み系処理をつくったが、リリース後に特定の終了ボタンをつけ忘れて異常事態を回避できなくなるバグを見つけたときの絶望を感じるシステム設計がこれです)
残念なことに人権を建前上は保障している日本や一部のアメリカや韓国でも、法治国家というよりは民主主義を全力で押しており、司法の方が社会的経済的に追い詰められて、実質はこの結婚と社会的名誉による支配を頼っています。あるいは山本七平の『空気の研究』に書かれているような根回しです。
ジャニーズの男児の性加害があったことや、エンタメに勤める女性の売春斡旋をさせられる芸人、日本人のエンターテイメントに関する女性がラオスで児童買春を告発したのに、ネットで些細な失言を攻撃されて炎上するなど、何か児童買春に関わることであるのは確かです。
人道問題に言及する芸能人が多いですが「何でその人は些細なことでも傷ついただけで批判、あるいは擁護するのに、同じ立場の○○はまるで救わないのだろう、もっと他にすべきことがあるのではないか」と思われる発言をして何らかの社会扇動をする人がネットにあふれています。
私の言説にはそれがなぜ起こっているのかを逆算して、悪い人たちが何をしたがってそれを扇動しているのかを推測していることがあります。
推測なので証拠は乏しいのですが、動機や可能性や仮説を提案することができます。しかし私のこの活動は忌み嫌われており「証拠がないなら妄想だ」と言われ続けてきたので、統合失調症だといわれ続けるのが怖くて、何も話せなかった時があります。
■文系は格好悪いという風潮
とても残念なことに、日本では経済や実利などが「かっこういいこと」とされ、反対に、感情論や詩文や正義や道徳や社会や哲学などは「ダサくてセックスができない能力が低い役立たずのヒモテやること」というイメージがあります。おかげで言いたいことがある人は意見を言える人になるために必死に性的であるふりをさせられます。そして、その様子を揶揄い見下すことで意見を封じます。美男美女なら庇われてしまうことも多いので何か悪評をつけてから自殺させるか、それでも死ななければ隠れて殺します。
「民衆は下手に政治に興味を持たない方が良い、無駄な争いが産まれる」というのが戦後の日本の風潮でした。私もそう教わったので歴史はそこそこに科学しか真剣には学んでません。なので、アダム・スミスもアブラハム・マズローも読んでいませんでした。教科書概要を聞いてわかった気になっていました。「せんそうはなんかわるい(*‘ω‘ *)」と言う事だけ覚えています。
ここまでいくらか欧米諸国が過去、あるいは現在で犯した問題も上げましたが、究極的に異なるのはここだと思います。(※欧米諸国でひとくくりにする私が悪いのですが、欧米諸国も国によっては国民が政治に関心がない地域があるようです。その地域は日本のように芸術やエンタメが強い地域に多いように思っています。)
私は本稿を書くにあたって、NHKで放送される『100de名著』と呼ばれる番組で見た『大衆の反逆』(オルテガ・イ・ガセット著)や『アメリカのデモクラシー』(アレクシ・ド・トクヴィル著)『哲学する民主主義――伝統と改革の市民的構造』『孤独なボウリング――米国コミュニティの崩壊と再生』(ロバート・パットナム著)『プロテスタントの倫理と資本主義の精神』(マックス・ウェーバー著)などを読んだ人の話を聞いてようやく他の知識人全員が気が付いたことを何となく把握し、これはみんなに知らせた方が良いと考えて他の人に話しています。
私もS3政策とかいうやつのお陰で見事に絵画とゲーム地獄にハマった相当のバカなのですが、たぶん私でさえ私の周りにいる人に比べるとそこそこ本を読んでいる方です。そのくらい日本人にはアホが多いのです。wikiを読んでいたらドイツでは『大衆の反逆』はベストセラーになったそうなので、「ドイツの人は自立心があって偉いなあ…(´ω`)」と思います。日本だと「意識たけえw何者でもない癖に貴族のつもりかよエリートぶりやがってこの出しゃばり」と言われて自立心がある人さえ手に取らなさそうです。日本ではエリートが嫌いな人が一定数います。
本を読まないというか、それが意味のないことだという「口より手を動かす方が偉い」という文化が生み出した結果なのかもしれません。
■『口より手を動かせ!』手段が目的になることがもはや美学
私が絵なんか描けるような裕福で暇を持て余せる女性という立場だからようやくこれらの本を読むことができます。多くの手だけを動かすように要求された労働者は恐らく疲れて眠っていると思います。男性がもし働かずに本などを読んでいたらそれは日本社会においては怠け者と見なされます。
海外ではきっと思慮と理解力と勇気のある良い司祭や牧師や神父や教師になったことでしょう。…海外のコンテンツを見る限りそのような人も今の時代ではある程度は貶められることも多いようですが、しかしある種の文学の中にはその中の良い働きも書いています。彼らは必ずしも文化人や知識階級ではないかもしれません。しかし海外ではそういう本が庶民にも売れていたわけです。一方で日本で売れる書物は漫画が多く話題に取り残されないように漫画やゲームやアニメの消費に忙しかったりします(私が娯楽職だから仕事で読んでいるのもあるかもしれませんが、一般人もその傾向にあります)そうして、仕事で疲弊しながら半分眠りつつアニメを見ます。
理由として想定できることが、日本人は自分が書いた漫画ではなく昔の本が売れてもあまり嬉しくないということもあるのでしょうね。
彼らは偽善で仕事をしなければならないのですが、他人の役に立つ仕事だと疲れるので楽な仕事を求めます。日本人は「漫画を読みたい」というより「漫画を書く仕事が欲しい」のです。ですからみんなに漫画を読んでもらわないと困るのです。自分がやりたい仕事ができなくなるからです。つまり「仕事が好き」だという偽善の為に楽な仕事を無理やりひねり出しているとも言えます。多くの漫画家は漫画家になるために漫画を読みます。新しく漫画を書かないと楽で楽しくて人気者になる仕事が増えてくれないので、古い本は邪魔なのかもしれませんね。
下手に文系科目の知識(哲学や社会学など)を伸ばしても、経営者にはうるさがられてしまいますし、日本では社会的に見下されやすい立場になってしまいます。それに、この国の実力や実績のある人にうっすら嫌われ、出世も阻まれてしまい、日本ではいいことは少しもありません。(※これを読んでいる人が笑いながら「警察官が向いている」と言っていましたので、文系知識が豊富な人は警察官になるといいかも知れません)
日本では哲学や社会学だけでも馬鹿にされるのに、宗教、ことに一神教と呼ばれている、ユダヤ教やキリスト教やイスラム教の話などもってのほかです。私がキリスト教徒になったと聞いて、私の親はガッカリしました。今も『チ。』を見ながら時々進化論の話などをしてくれます。何とか私を日本的な正気に戻そうとしているようで会話になりません。
下手をすると、内心では倫理道徳や哲学や歴史が好きな人ほど、自分を否定するように他の学者を否定するのです。「高所得を持つ俺ですら諦めたのだからお前如きはもっと諦めろ」と言っているようで、嫌になります。
本を書くには貧乏にならざるを得ないからです。
彼らは自信を失っているので、同じように思想が好きな自分に似た人間を見下しあうのです。悲しいことですが気持ちはわかります。思想で食ってはいけないだろうからこそ私は努力して絵をかいてプログラミングを学んだのです。まず手による成果がなければだれも私の話を聞かないからです。何か話せるようになるためにデッサンを学ばねばなりません。しかし彼等より圧倒的に本を読んでおりませんので、知識がないのできっと呆れられたり、憎まれているでしょう。私も自分より絵が下手な人が評価されていると嫌な気分になるのでよくわかります。
何人の私より知識や実力のある人の正しい意見が一時期の利益や怠惰によって歪められ、日本の成長を阻み、危機管理を失い、機会を損失させたことでしょうか。
その為、私はある程度私が好むような思想を持つ男性から、たぶん嫌われているかもしれません。
その人たちより不出来なのに時間があるから稚拙な意見を話しているからです。…言論に向いている者たちは、(本来の仲間だったろう者たちに対し、)私たちはお互いの仕事を奪い合って、椅子取りゲームのために仲間を蹴落としているかも知れないのです。
なんて惨めな姿でしょうか。本来は役割を分担して、「この書籍は君が読んで、僕はこちらを探索する」と言って膨大な本の地図を探査しながら、仲間として様々な問題に立ち向かうはずだったのにです。
その上、私たちの仕事は甘言で人を安心させるものではなく、耳の痛い事実を告げることなので、私たちに好んで金を払う変わり者も少数です。
これは、…もし仮に教会があっても内心は喜ばれず「坊主丸儲け」のように言われている時もあったでしょうね。
私たちは、地上ではあまり数は必要がない個体のかも知れません。
例えるなら使徒パウロように信徒に尊敬され、愛されればいいかも知れませんが、一部の変わり者にとても愛されるものの、多くは偏屈な独り身の一言多い話が長い嫌味な奴だと思われるに違いありません。
(※2026年追記:理系の人が、「いや、あいつら、黒髪ボブとかが案外モテててムカつくよ」といってました。確かに話が合うと外見がどうあっても人を好きになることもありますね)
仮に顔が良くてもご婦人に人気がないのに、これで女だと本当に女に嫌われます(※女のめんどうくささに嫌気がさした男性の気持ちがわかり、話が分かりやすいので意外に男性にはモテます※だからこそ鈍い男性にはモテますが、繊細な彼らにはもっと嫌われます。人の心に土足で踏み入るようなものだからです。そのため、実は私も彼らに酷いことをされたので大嫌いですし、正直醜い人も多いので、自分から身を引くのにプライドが高いことも多く、お互い、多めに嫌うことが多いのです。悲しい話です)
さらっと書きましたが現実はドロドロです。状況としては、『天で仲良しの友達同士で少ない文系』たちが、『地上で椅子取りゲームでお互いを蹴落としている姿に直面すること』になります。悲しい話です。
もし私が神様だったら『地上の記憶のない自分たちが酷すぎて天で気まずくなるので、「見なければよかったなあ」と思いながら地上を火と硫黄を降らせて滅ぼすと思います。
僕らがこんなにひどい目に合うのに、「天での秩序より、お前ら文系みたいな奴(司祭職や教師)が冷遇を受けて、民衆が好き勝手やれるこっちの世界の方が面白いから、お前が割を食ってもこっちがいい」と言った他の天使(位格)を恨みたくもなるものです。酷い。後で覚えてろ。しかし、悲しいかな、たぶん私が「民主化の方が賢くなるにはよく、知恵があることに見えて、やってみたい」とか言ったような気がしないでもありません。すみません、パンドラの箱を開けたのは私のせいかも知れません。
しかし、偶に、時代が荒れると「どうしてこんな酷いことが起こるのか」と疑問に思っている人がそれを理解できず、今まで冷遇されていた知恵者に集まって尊敬されることがたまにありますので、その場合は、迫害されるかもしれませんし、最悪死にますが、神様に守られていれば預言のたまものを貰えますので復活するので勇気をもって、頑張りましょう。
私は絵をかく暇がありましたが彼らは絵をかく暇もなく必死に向いていない仕事をさせられました。彼らのことを思うと無念です。私ではなく、きっと、本当は、もっとずっとこの件について勉強している彼らが話すべきでした。絵を描いていたので私にはまだ知識が足りません。しかし彼らは貧しいという理由で見下されています。それはもったいないことです。
同時に私なんかが絵を描く合間に本を読んで彼らができなかった提唱者となることはもしかしたら、お株を奪われた感じがして辛く悲しいことでしょう。私より優れた意見を持っていて私よりそれを話すのに向いているかも知れないのに、私が女で時間が余っていて働かなくても社会が私を見下さないから、彼より出来が悪い私が、これを語るのです。本来彼らが語るべき言葉をです。しかし繊細であるが故に彼らはここで私を否定する程厚顔無恥ではないからその苦痛は自分へ矛先が向かい、首に縄をつけてぶら下がるために使うことも多いのです。そうでなければその歪みと苦しみは無関係のところに噴き出て、私の文章の内容ではなく、私の文章の稚拙さや文字の間違いをチクチク言及するような形で現れることも間々あります。そもそも私たち以外お互いの文章を読まないかも知れませんが。悲しいことです。
歴史を振り返るとこの後このような国はあまりいい結果にならないので、私は次章でこのような提案をします。
ーではどうすればよいかー
そここで、私の提案はこうです。
天才僕「我々は結婚を餌に働くべきではなく、自主的な善意を推奨するべきでは?」
ということです
「それが出来たら苦労はしねえ!」
と言われるかもしれませんが、
いいえ、そもそも憲法12条を見るとそれは既に推奨されているのです。
日本人は「自助」という内閣の発言を怒っていましたが、憲法12条を見る限り自助どころか国民はそもそも他人も助けねばならないので、限りなく内閣の譲歩と言えます。そもそも日本人は法を学ばないのです。
あるいは、日本の知識人が納得しそうな言説を話すとしたら、「そもそも、もっと自分たちの違いを理解しあって、単一の価値観だけで乱暴に評価をするのをやめたらどうか。もっと地域性を持って集まって、お互いの向いていることや、やってほしいことを相談できる場所があった方がいいのではないか」とも思います。
これはアメリカの場合は教会が果たしてきました。「民主主義の成功はこのような地域性が働いている、教会やボーリングなどの集まりで話し合うことで民主的にリーダーを支えることができるのではないか」という学説があります。日本はこの地域性を失ってしまったがゆえに単一の能力や学歴だけで他の才能を図って自分たちの地域を自分たちになりに居心地よく運営する方法を失ってしまったように思います。
本音を言うと、私はもう人が大嫌いになったので、個人的には少しもやりたくないのですが、その方が長い目で見て社会にとって良いでしょう。義務なら学校や会社に嫌々行くように出向いたかもしれません。
いい意味で、私は最初から神を愛するように洗脳されていればよかったとも思います。途中、思春期に嫌になって離れるにしても、それでも子供のころに…なんか安心する感じや、叱られたけど大事にされていた…という記憶は、「親には恩を返しておかねば」と同じように感じるからです。確かに何も教わっていなければ私は死にましたし、子供や後輩にも教えようとは思えます。
実のところ、人権の根拠は聖書にあり、キング牧師も「聖書に書いてある」として奴隷を解放していたのです。本来は法律の根元には聖書があります。他の国際条約を締結する国々の憲法の殆どが、教会などと締結することもあるのです。
聖書にはお互いの違いを生かすような話もあって、お互いの違いを受け入れあって協力するという感覚があります。例えば『'目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません』(コリントの信徒への手紙一 12:21)という文章があります。
このような話を聞けば、先ほどかいたような「自分自身や他者の役割を卑下する」ようなことはしたとしても、悪いことだとは自覚ができます。お互い支えあえばよいのだとわかるようになります。一見理想論ですが、歴史上欠点も問題も多く見えたにしても、やはり欧米諸国の書物を見ると一部成功し、社会に大きな利益を出し続けてきたことは見過ごせません。
■法の限界と法の大切さを日本人がわかってない
他には、日本では世界と比べるとあまりにも法を学んでおりません。ほとんどの日本人の大人は高学歴でも憲法12条を意識して生活していません。本を読むことが苦手な人には難しいことでしょうから、誰か有識者を用意して難しい日常の判断をその人に仰ぐようにした方がいいのではないかと思います。
また法の根源でありながら、法の限界を問う、聖書を学ぶ点も大きいのです。キリストは「律法の完成者」ですが「律法の限界」を説いています。これはとても重要な見解なので、万人が信じるか学ばなければ本当は真の意味で平和は成立できません。
日本人は聞きかじって「アガペー(愛)さえあれば法はいらない」と正しいけど正しくない解釈していますが、これは正しくありません。(※正しくないとは言ってない)なぜなら現代日本人は愛のことをエロスやセックスだと勘違いしているからです。同じ文章を読んでいるのに単語の意味が違います。酷いものでは時代が古すぎて『隠された知恵』を『男性器や精子』と翻訳したままになり続けて頭のおかしい儀式をしていたことになっている民族がいますが、話すと長くなるので割愛します。
(※せっかくなので書きますが、例えば、ムスリムが「異邦人をレイプすべき」と言うのは誤訳であり、正しくは「神の隠された知恵を持つ男は、まだ神の知恵を知らない従うべき者(※知恵の衣を着ていない(精神的な意味の)裸の女やスレイブと訳される)に強制的にでも隠れた場所で交わる(密談、会話する)べきである」という文章の誤訳だと思われます。
まあ、現地の常識を教わってないと可哀想ですからね…フィンガーボールの水とか間違って飲んじゃうかもしれません)
話を元に戻すと、憲法12条に「国民は人権を守るための不断の努力をしなければならない」と明記されており、これは確実に国民の義務です。
これと似ているのですが、聖書ではキリストは「汝の隣人を愛する」というコンセプトを説明しました。憲法の一番大事な部分を説明し、全部そこから解釈するような形で柔軟に善行を行えます。例えば、緊急時は救急車が道路交通法の一部を無視しても罪に問われないような柔軟な判断ができます。
しかし…いくらでも細かく解釈もできるので、本当は、突き詰めれば無限に不断の努力を頑張ることのできる、果てしなき追及を求める者でもあります。
まず無理です。少なくとも私は聴いただけで疲れました。
「慌てず急げ」と言われただけでげんなりします。他に誰もいなくて仕方なくというならようやく動きますが、誰か、ほかの真面目な人がやると思ったら、やる気がなくなって、寝ていると思います。無限に自分が怠けているような錯覚に陥り、休んでいると罪悪感が産まれます。すごく大変そうな人がいたら、気の毒になって手伝いはするか…もしこれに意義があると思えば命くらいは捨てるかもしれないですが、私は疑い深く、怠け者で、プライドは高いので、めんどくさいかダサいか疑わしいと思えば、恐らくは理由をつけて言いわけして、やらずに後回しにして他の自分の利益になることをするでしょう。私は最初に行動しません。誰かの手助けをします。また、プライドが高いので、命はともかく命より大事な名誉を失うことに関しては、それを失えと言えば、たぶん、泣きわめいて嫌がりながら捨てませんし、それが理由で大切な人を裏切って見捨てます。私がキリストを見捨てるとしたら、関わるのは面倒で、社会的地位が低く、なんかダサそうだったからという理由で見捨てたことでしょう。後で死ぬほど拗ねて自暴自棄になります※それが名誉を傷つけるのにも関わらずにです。だから私は誰も救わない絵を描くのかも知れません。このように現実的にはほぼ無理なことは想像がつきます。直ぐ動いたとしたらそれはそれで失敗して迷惑をかけて、土壇場で逃げだす事でしょう。
そして『律法を行うことによっては、誰ひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては罪の意識が生じるのです』(ローマの信徒への手紙3章20節)という現実を聖書は書いています。つまり、(※イエス様の十字架の御業による贖いによって罪を帳消しにすることがなければ、)完璧に律法を犯さないことは不可能であると書いているのです。
その為「許しあいなさい」「隠れたところにおられる主に祈りなさい」とキリストは語ります。(※信じてくれないのはわかるのですが、実は危険な祈りでなければ祈ると叶います。日本が欧米諸国を追い越せないわけです。危険な願いとは何かに関しては、聖書は危険ではないことは何かをとても詳しく書いているので、もし「何で叶わないんだよ!」と思って信仰をもてないのであれば何が危険なのか学ばねばなりません。まあ、子供にいきなり便利だが危険な道具を渡さないのと一緒です。詳しくはこちら→■)
人間ではできることに限りがあるので、神様に祈ってあとは神様におゆだねしましょうということですね。
そして、だから許しあいなさい…という理屈に繋がります。
確かに現代日本人が全員不断の努力で人権を守っているかと言うとそんなことはありません。考えただけで疲れます。
でも「そうしても仕方ない」とは書いてませんので、みんな形骸化させて好き勝手なモラルを作ってしまいます。
例えば「列に並ぶ日本人は礼儀正しいが、列に並ばない者はマナーがなってない」と言って、実際はマナーにとらわれない柔軟で細かい配慮をしている人を自分より悪いというような話です。
しかし中には「真面目に働くとお前がやると俺もやらないといけないからやめろ」と言う礼儀まで発生しました。聖書は末尾のあたりに「何か書き足したり削ったりしたら呪われよ」みたいなことが書いていますが、(※黙示録にだけ言及されているのかも知れませんが、)変なルールが追加されないのは羨ましいことです。確かに教会で新しいルールができることがありますが、それは新しい方ができるわけではなく「法解釈」に過ぎません。つまり土台を無視した勝手な法律はできず、その延長なわけですね。
話を元に戻すと、要するに「自分が思うレベルの善まではやっていい善」だが「自分がやっていない苦手な善は、もはや偽善である」という主張が盛んになってしまいました。日本の多数派にとって楽な善が善で、少数派がなす美徳は善ではないということです。
彼らはそういった細かいルールを間違えないことは得意ですが、例えば社会学について解釈するだとか、政治参画や、柔軟なマナーに書いていない配慮をするような美徳は評価対象にしないのです。「哲学は貧乏人の暇つぶし」だとか「政治と宗教の話をする奴はキモい」だとかそういう言説ばかり言う人が日本には多いのです。それに逆らうと大企業には就職しにくくなってしまいます。ある意味で良心思想の自由が経済的格差で侵されています。
丁度、聖書の福音書に出てくるファリサイ派が似たようなことをして問題として取り上げられています。「本来その儀式は隣人を愛するようにと呼びかける為にあるのに、儀式があるから年老いた母の世話をしないといっているので、本末転倒である。意味がない」みたいな話です。
まあ法解釈をされると今までよかったと思っていたことも、偽善的だったという指摘をされてしまい、指摘されると、今まで善意でやってきただけに、とても傷つくのです。
日本のマナー重視の社会では、この様な本末転倒なコンセプトを理解していないという問題を取り上げることが難しいです。まあ言い始めると無限に努力しなければいけないので、疲れてしまうのでしょうね。でもそうなると解釈する人の善が評価されなくなってしまいます。
あった方が本当はみんなが格式ばったマナーに縛られず良心や思想の自由が動きやすく、楽ができるのですが…
宗教もそうですが、本稿でも語りましたが性や下品さから逃れる自由が日本には本当に少ない。3DCG屋さんは引きこもりたいから技術職を選んだのに、実際は男性に愛想を振りまく目的で若い時だけ雇われ、空気を読んで彼らに色目を使わないとあまり雇ってもらえません。
はっきりいって、雇われる側や奴隷や労働者にとってはマナー重視の社会の方が楽ですが、常識を飛び越えて気持ちいいセンスを追い求める人や、柔軟な人や、国家や人権にとっては全くもって嬉しくない礼儀です。
民間内の同調圧力で次々とルールが変わり、
例えば日本では「醜い人と結婚してあげないなんてかわいそうだ」と言われて性格が悪いと責められた女性もいます。法的に何の罪でもないのに断った方が悪いこととなり、それが原因で仕事を失うことがあります。このようにモラルを押し付けて他人の職業選択の自由を侵害したり、努力すれば仕事があると嘘をついて実際は醜い男性のお見合いに呼ばれ、お金持ちたちがその振る舞いが気に入らなければ男性からお金をもらえばその女性を不幸にすることも可能なのです。
しかし、憲法には「律法を自分で全うするのは無理だ」とは書いていません。神を抜きにした超人的な人間の無限の可能性を信じています。
旧約聖書の時点で「豊かになったら神を忘れる」と書いていますが、憲法には「お前らはどれだけ努力しても人権を守れないで、そのうち政治家相手に我儘を言ってプロジェクトマッピングに15億円くらい金を出せとか言い出す」とは書いていません。日本にも示談の発想はあるかも知れませんが、「自分が法を全うできない可能性」は書いていません。ある意味で、日本人に言わせれば現実的で宗教のように胡散臭くないものであるはずでありながら、到底現実的ではないように思います。
我々の戦後の日本史を振り返っても、日本人はそんなに努力家ではありませんし、他人が好きではありませんし、嘘つきです。少なくとも私には神の力抜きには無理です。超人にはなれませんでした。のんびり3DCGをつくり、お絵描きをしてました。
よく私がキリスト教を信仰しているというと「今日日聖書を信じるなんて、脳内お花畑なのではないか」と日本人にバカにされるのですが、私に言わせればこの希望的観測の方がよほどお花畑であろうと思います。不断の努力どころか日本には憲法の条文をソラで言えない有権者がいます。義務教育仕事しろ。
日本の教育の現場では「日本では生涯学習が少なすぎるのではないか」という問題の指摘が良くなされていましたが、本当に司法や聖書の知恵をすべて話すには時間が足りませんし、私もまだ全部知っているわけではありません。それに基本noteは長すぎると読んでもらえません。もう何人が脱落したでしょうか。
というよりは、本来は他の国の憲法も教会が聖書を元に交わしている契約ですので、日本の憲法も他の国と結んだ契約ですので結局は根元に聖書があるのです。本来は政教分離ということは不可能です。
私はホッブズのリヴァイアサンを読んでみたのですが、個人的にはキリスト教が最も憲法12条を全うするのにふさわしいと思っています。というのも、この話をすると長くなるのですが、「罪を犯さない」ということは、日本における単にルールを破るという犯罪という意味ではなく、ハッタ―トとかハルマティアやペシャなどのヘブライ語やアラム語やギリシャ語の単語なのですが、どちらかと言うと過ちや過失、とも訳せる単語です(※違反という意味合いの単語も罪と訳されているので本当はもう少し説明は長くなりますので割愛します)
他にも用法を見ると、罪というものは、「聖書に書かれた律法を知らなくても罪を犯すと死ぬこと」とも言えます。もし「崖から落ちてはならない」と書いて無くても崖から落ちたら死ぬようなものです。
罪を犯さないということは「生きること」であって、逆を言えば「自他を巻き込んでいつか大事にしたかったかもしれない誰かが酷い目に遭って自他が惨めに死んでも良くそれを恨んだ者たちに執拗に地獄で苦しめられても良い」というのであれば、「罪を犯してもいい」ともいえるのです。
これはあくまで契約なんですね。死なない方法が書かれています。(※死や生の定義も本来詳しく話すべきですが、長くなるので割愛します)
これは、神が一方的に人類への嫌がらせのために定めた狭量な掟などではなく、生きて…死を避けるために鍛えられながらも幸いを受け継ぐべく、自分や自分が愛する人が死なない方法が書いているわけです。
要は聖書圏の人たちは、毎週土日に法の考え方や生き方を聖書から学ぶので法律の根本にあたる考え方を生涯学習しているとも言えます。
しかし、日本人は義務教育と大学を卒業後、仕事か裁判でもなければ法律に触れない人が多いです。人生中土日4時間勉強しただけでも相当な時間になりますが恐らく大学で司法関係の講義をとらなければ社会の授業で数時間しか学んでないはずです。
「どうしても宗教はちょっと…」と言う方は、司法は学んで損はないので、ぜひ学びましょう。進路に迷ったら試験突破する自信が無くても法律系の大学に行くといいですし、大学に行かないで法曹資格を取ったお医者さんなどもいます。ITをやるにも資格取れなくても役に立ちます。私も勉強し始めました。もっと早くやればよかったし、正直、学ぶ数が多すぎるので概要に詳しい教授に教わりたいため大学に入りたくなるほど深く広いです。資格を取れなくても教養にもよいです。迷ったら司法を勉強しましょう。あるいは私は法の起源みたいなものに興味があったので、Amazonで『憲法学の散歩道』という本を買ってみました。面白そうです。
前述したように、本当に長い上に簡単に説明すると「アガペーがあれば律法は要らない(要らないとは言ってない)」「人は神の目に平等で自由になる(平等で自由とは言ってない)」みたいなお話が正しいが正しくない(※正しいとは言ってない)という感じになるので、かいつまんで話すと「気でも違ったか」といわれるような結論もあり、解説は非常に複雑で間違って話すと誤解を生む上に長すぎるから曖昧になるので、本来は何度も生涯学習する必要があるくらい長い話になります。私がここで短くまとめているのも本当は正しくないですが、もっと本格的にやると長すぎて大変なので誤解を恐れながら猿にでもわかりやすく書いています。
しかも、人によって本当は話すべきことが違います。
例えば、落ち込んだ人に間違ったときの休み方を教えれば役に立ちますが、
元気な人に休み方だけを教えれば「これだけでいいのだ」といって今度はだらしなくなってしまうので本当に難しいのです。示談の精神や推定無罪の法則は美しい理想ですが、しかし、馬鹿の一つ覚えのように「許せ」「許せ」と教えていたら本人が許されることを忘れ、共同体を愛さないようになり、真面目な人に限って自害してしまうかも知れませんし、許しすぎて生きている意味を失い、怒りが爆発して牧師や共同体ごと皆殺しにしようと思う人もいるかも知れません。たまには復讐を祈って正当に裁かねば結果としてもっと多くの死人が出てしまうこともあるでしょう。掟に縛られず柔軟に愛情を向けることも賢いことですが、自惚れてやりすぎると失敗することもあります。この状況を例えるなら、牧師さんは言葉の薬剤師、あるいは管理栄養士や料理人のようなものだと思ってもらえばいいと思います。
つまり、本来はケースバイケースであって、
万人に通用する解説は存在しないということです。
本来は、個別に状況を見て話す必要があります。
だから、これを読むより教会に行く方がいいのですが、みんな教会に行きません。私もそうですが、もう私は他人と直接かかわることに嫌気がさしているのです。文章しか読みたくない。だからこれは私のような人にだけ書いていると思います。こんなに平和でいろんな娯楽があるのにこんなにつまらなそうな書物を読むあなたにです。そうでないなら教会にいった方が幸せになれると思います。私は当てはまってない人にも薬をどかどか投入しているマッドサイエンティストのようなものです。あるいは薬剤師志望には役に立つでしょうが、素人に見せたら応用的なことをし過ぎて問題を生じさせるかもしれません。だから本当は良くないのでどうか善良な教会に行くか私と直接話してください。
どうしてもその手の宗教はちょっとと言う方は以下のnoteもおすすめです。
どうしてもダメなら司法を学ぶことをお勧めはするのですが、
証拠が残らない事には何も語れず…例えば、「男性が女性を殴ったことで、男性が非難されていたが、実際は女性が性的に誘惑してそれを揶揄っていただけだったが、揶揄われた原因を指摘されるのが恥ずかしいので、演技が上手でわんわん泣く女性に同情票が集まる」というような事象には冷たく、人間の目に見抜けない冤罪に関しては、復讐してくれず、解決案を提案してくれない学問ではあります。複数の可愛そうに見える人間がグルになれば対処ができません。「真摯に語れ」という配慮はありませんし、彼等は人を慈しむ義務もなく、腹を割って話したりしません。
権利を守れとばかり教わった人々です。
あるいは、その場にいる法曹関係者と陪審員全員が悪い意味で情に熱い人だったケースでは以下のような悲劇が起こるかもしれません。
〈子供の裁判〉
…ですがソクラテスは、自分だけが快楽を追求するような人生には意味がなく、共同体を良い方向へ導くことこそが善の道で、例え死ぬことになったとしても、その事に尽力することが重要だとして『子供の裁判』の例を挙げて説明します。子供の裁判とは、自分以外の関係者が全て子供という、子供だけで行われる裁判の事です。
実際にはこの様な裁判はあるわけではありませんが、物事を分かりやすく考えるために、頭の中で作り出した空想上の裁判です。
この裁判は、裁判長も弁護士も陪審員も検事も全て子供が行っており、その中で無実の罪で捕まった自分だけが大人だという設定です。
大人であるアナタは医学を学んだ医者という設定とします。貴方は、怪我をした子供が運ばれてきた際に、適切な処理として、傷口をしみる消毒液で消毒して止血し、傷口を縫い合わせる為の針を消毒の為に火で炙って、それを使って傷口を縫い合わせました。他にも、足に壊死している部分があったので、子供の命を最優先に考えて、足を切除する決断をして、処置を行いました。
結果として、怪我をして死にかけていた子供は助かったのですが、その子供は、医者であるアナタを犯罪者として訴えました。
訴えた子供の言い分としては、『怪我をして痛い思いをしている僕は、医者に対して、痛いのを何とかして欲しいと一生懸命お願いしたのに、あの医者は、痛い傷口が更に痛くなるような薬をかけてきました。そして、火で炙った熱い針を突き刺して、裁縫遊びのようなことをし始めました。また、僕は陸上クラブに入っていて、次の試合を楽しみにしていたのに、あの医者は、大切な僕の足を切って、二度と走れない状態にしてしまいました。あの人は、人が苦しんでいる時に、医者だと名乗って助けてくれるような口ぶりで近づき、実際には助けようともせず、更に痛ぶるような人間です。あんなサイコパスが、善人のふりをして平然と街を歩ける状態は、非常に危険な状態と言えます。 みなさんも、いつ、僕のような被害にあうかもわかりません。僕のような被害者が二度と現れないためにも、あんな人間は殺してしまうべきではないでしょうか。』
…といった感じで、子供の陪審員と裁判長に対して訴えかけます。
〈優先すべきは正義か寿命か〉
訴えられている自分以外、この裁判に関わっている人間の全ては子供なので、当然のことながら、医術の心得や高度な知識は持ち合わせていません。壊死した足を、何故、切り離す必要があったのかや、傷口を何故、縫い合わせなければならなかったのか。そして、傷を縫い合わせる針を、何故、火で炙らなければならなかったのかといった知識は持っていません。
被害者である少年は、無知であるが故に、医者が行った処置が正しいことを理解できないので、自分は理不尽な扱いを受けたと思いこんでいます。
そして被害者とされる少年は、自分がどれだけ理不尽な目にあってしまったのか、そして、怖い思いや痛い思いをし、足を切断されたことで生きる希望まで失ってしまた事を、裁判に関わっている人たちに向けて訴えます。何度も言っています様に、裁判に関わっている人間は、加害者として訴えられているアナタ以外の全員が、正しい知識を持たない無知な子供です。
裁判官や陪審員や検察、下手をしたら、大人であるアナタを弁護する立場の弁護士ですら、被害を受けたという被害者の子供の涙ながらの主張に心を打たれて、大人であるアナタの取った行動を非難し、サイコパス扱いするかもしれません。
この様な状態を想像してもらった際に、加害者とされているアナタは、どの様な行動を取るのが良いのでしょうか。サイコパスだと罵られようが、自分がとった行動の正当性を訴えて、何故、けが人に対してあの様な処置が必要だったのかを丁寧に説明すべきなんでしょうか。
それとも、自分が助かりたい一心で、被害者とされている少年に土下座して『自分が悪かった! もう二度と、こんな真似はしないから、どうか許して欲しい。』と許しを懇願すべきなんでしょうか。
そして、運良く執行猶予が付いて、再び医者の仕事に戻れた際には、二度と訴えられないように、無知な子供には理解が出来ないような苦痛をともうなう治療は一切せずに、痛みを取り去るだとか、快楽を与えるだけの治療に専念すべきなんでしょうか。
患者が薬が苦いといえば、苦い薬は出さずに砂糖を薬だと偽って偽薬を出し、プラシーボ効果で病気が治ることを祈り、体の一部が壊死した患者が運び込まれてきても、切断せずに麻酔で痛みだけ取り除いて放置する。この様な感じで、常に患者の顔色をうかがい、患者が求めていることだけを行うような、そんな処置をし続けることが、医者として正しい行為なのでしょうか。
それとも、例え殺されることになったとしても、無知な子どもたちに対して自分の知識や技術の正しさを主張して、子供たちが辛かったという治療は、子供たちを良くする為に行った必要な行為だということを説明し続けるべきなんでしょうか。
(ブログは広告が多いのでポッドキャストを聞くことをお勧めします。とても分かりやすいです)
(私がお絵描きしている時に聞いています)
ー余談②この説に対して、予測しうる反論に対する回答ー
この箇所は以前『偶像崇拝と売春』を行うとどのような問題が出るかという解説に対し、どのような反論が来るか想像しながら書いた部分です。
長すぎたから削除していましたが、一応残しておきました。興味がなければ読まなくてよいです。
■西洋でも偶像崇拝と売春はあるが何か?
「いや、ちょっとまった、西洋でも偶像崇拝も売春も撤廃できていないじゃないか」という批判はあることでしょうが、それでも建前というものがあります。
(※もしかしたら、売春や偶像を排除できていない人が、できている人から搾取する形になっており、癌と健康な細胞みたいな関係で、なまじ良い人間がいるために、西洋の場合は、余計苦しみが長く続くと言えなくもないのかも知れません)
(※しかし日本には1%しかクリスチャンがいないので、その崩壊が顕著な現代のサンプルになっています。その為、この現象はぜひ日本の現象として記録した方が、複雑化しないという点で、日本の負の遺産として登録できるかもしれません。この時期の歴史はしっかりと記録しましょう。観光資源になるかもしれません)
(※確かにそのような経済至上主義の様な聖書的に言えば「金銭崇拝をすることによる偶像崇拝、快楽崇拝をすることによる偶像崇拝」を批判する勢力は西洋諸国のどこかの文献に残っており、そこのどこかには良い働きがありました。しかし、そのおかげで、幸か不幸か私の説明が複雑化し、余計にややこしくなっています。しかし、日本ではほぼ誰も抵抗できていませんし、問題提起した人の文献は大量の娯楽に紛れてないことになっていますので影響力が低く、崩壊の具合がきれいに観測できます)
やはり建前であっても「その掟が正しい」という文化的背景や律法は強いのですね。少なくとも聖書を信じている人が止めてくれるので、被害が減ります。それに教会があると皆が助けてくれ易いんですね。私も独りぼっちなので誰も協力しません。
筆者もこれを書いていますがご覧の通り誰も読んでいないわけです。みんなを集めて資本家やこういう情報を取り上げないマスメディアを批判することも難しいですし、どうやればいいかわからないので、最近法曹資格を取ろうとしています。仲間を集めればいいのですが、私の仲間になると、大体出版などをしたい人やアイドルを紹介されてほしい人がそれ以上自分の理解者である愛人や表現の場所を奪われるので、協力者になりません。
癌細胞も普段健康な時は分解されて普通の免疫細胞が貪食を試みます。体の中では自分にばかり我田引水して全体を滅ぼす存在を見つけ次第退治するシステムです。それが一切存在しないのが日本です。西洋も完全ではありませんが聖書を信じている人に関してはそこだけが平和です。日本にはこの逃げ場も少ないですし、そこに行くことが負け組のように感じている人が多いので頼らない人が多いのです。本当は、世界的に見たらド正統の勝ち組なのですが、日本ではそうではありません。
正常な若い肉体でも癌細胞は発生しますが、発生しても退治されるのです。問題は、癌細胞が増えすぎて対処できなくなったり、白血病になったりすることです。要は聖書がないことで、それらが退治されない確率が上昇するのです。都市で言えば警察や自衛官がいない町のようなものです。そしてそれが一定数を超えると、切除せざるを得なくなったり、共倒れになってしまったりして、体全体が死んだり、都市が滅んでしまいます。
西洋の状況とは、善悪が何か想定された上で悪事がなされますが、一方で日本は何が正しいのかわかっておらず、自分が苦しんでいる理由も可視化されないような滅茶苦茶な状態といえます。
自分の国(※本当は他の国にも大いに迷惑をかけていますが)を亡ぼす原因が何か理解して戦った方が良いのです。
(※これは無関係な余談ですが、2年くらい前(2023年以前)の韓国を見ると少し古めの日本のバブル期の太眉のボディコンのジュリアナみたいな女性のファッションをしている人がいます。日本全体がああだったわけではないのですが、たぶん日本中がああいう東京にいるレースクイーンとか重工業の金持ちと結婚する広告のダンサーみたいな意識の高い女性ばかりだと韓国では勘違いされていたのだろうなという気がします。
…日本も、アメリカがちょうど全員紳士的なスーツをパリッと着て歩いてた時にアメリカに学んだので、日本人は今も全員スーツを着ていますが、本家のアメリカではさほどそうではなくなっているのと似ているかも知れません。多分ごく一部のアメリカの都市部だけだったのではないでしょうか。
韓国はもしかしたら田舎のないパリのようだったかもしれません。
だとしたら気の毒です。そして最近中国が日本が猟奇殺人事件を起こしていたころと似た事件を起こしているので、本当に東アジアの皆さんには申し訳ない気持ちです。「なんでそこを真似するのだ」と思うかもしれませんが、日本人はたぶんアメリカ全体としては一部でしかなかったデスメタルにハマっていた気がしないでもありません。(※異論は認めます)きっとアメリカ人やイギリス人やスペイン人やフランス人やローマやそのほか華々しい方々も同じようにそう思ったかもしれません。
民主化の祖ともいえる、農耕神クロノスに告げられたウラノスの予言が脳裏をよぎります。自分が子供を食べるか、子供に殺されるか、あるいは自分の欲望を抑えて、他者の成長を喜んで、新しい若くて生意気な人々を育て見送るかを選ばねばならないのです)
なんというか、自分が漫画に影響されて雰囲気とファッションで始めた不良道を後輩が引き継いでしまい、自分は途中で就職の時に髪の毛を黒く染めなおしてサラリーマンをし始めたのに、久しぶりに地元返ったら「せんぱあい!自分、先輩を尊敬してるっす!戦後の経済復興はマジに伝説っすからね!」といって過度に突き詰めてしまい、後輩は卒業後も暴走族のヘッドをやっていたみたいな気分です。韓国可哀想。中国はマネしないでほしい。
要は「あの国もやってるから僕もやる」という話で国内に実行する人がいますが、あれも本当は彼が参考にした国でもごくごく一部の珍しい人のまねごとに過ぎなかった、という話ですね。もしかしたら他の見えない部分の田舎が重要な働きをしていた場合、同じ結果にならない可能性もあります。例えば、国土の面積が狭い場合、田舎が少なすぎて採算が取れず、周辺の国家に何かしらの迷惑が必要になってしまう可能性もあるのです。日本は広いので国内を搾取できたかもしれませんが、それ以上に小さい国が都市化すると瞬く間に滅んでしまうという可能性はあるのです。
■娯楽業は関係ないだろ?
いいえ、たとえば、可視化されていることで言えば、やはり都市に専属の娯楽業者がいることで、若者や若い女性が吸収されていることで出る問題があります。この批判はすでに誰かもっと私より賢い学者がしていたような気がします。(AIで調べたところジェイン・ジェイコブズという方が研究しているようですね)
厄介なのは①一時的に都市の人口は増加し経済効果もそこそこあることですが、結局生活コストが上がり過ぎて似たような②少子化の流れをたどり、疲弊するそうです。アフリカや中東ではその傾向にあるようですね。
首都圏に出て楽な仕事だから家族サービスができるエンタメ職の人は繁殖し田舎は人がいなくなり、田舎者は搾取され、大量に美人を都会に連れ去られて何故か自殺したり子供を産まず風俗や枕営業をしてボロボロになって都会に憧れつつ田舎をあしざまに罵りながら帰って、少子化もします。
田舎の小規模な企業や小売業は行政が助けない限りこのあたりで潰れてしまいます。学校で定期的に写真やスポーツ用具や文具を買ってもらえる事業主だけが生き残りますが、こうして徐々に地域性に欠け、経済的多様性を失い、一律化していきます。
③丁度お爺ちゃんが倒れたころに田畑などの農林水産業を担う者や有力な子会社がなくなり、国内で生産する食料に関しては徐々に物価が上昇、あるいは日本では「ステルス値上げ」と言われるように、同じ価格で徐々に内容量が減っていったりします。インフラを整備する人も高齢化します。「自分はともかくこんな仕事を息子にはさせたくない」と思うのかも知れませんね。文学を引用すればバルザックの『ゴリオ爺さん』のような状態かも知れません。インフラや軍備も劣化するのでこの時点で滅ぶこともあります。
この状況に気が付いた時には、もう田舎は疲弊しており、土地もノウハウも持っていないエンタメ業の親を持つ子供たちが、親と同じ仕事をしようとしますので、外国人を雇うか、…歴史的には、例えば古代ギリシャでは「我々はヘレネーの子孫だがお前らは違う」などと話して差別階級を捻出して奴隷を作り市民権があるものとそうでない者を差別しています。彼らは時間や体力に余裕があるので恋や子育てをする時間がありますから子供を産み、経済的余裕があるので高学歴になることが多いのです。日本では都民ファーストと発言していましたが、これはあまり続きませんでした。
そしてこの後大体どの方針をとっても、「奴隷不足、人材不足」に陥ります。人材そのものはいるのですが、「低賃金で働いてくれる人材」の確保が難しいのです。④結果奴隷需要が増加します。
本当はみんな都会で安全な場所でクリエイティブな仕事をしたいのです。もし夢が破れても都会はすごく良い所だったここには文明や文化や芸術を理解する者がいなくて虚しいと言って嘆き続けるので周りの士気を下げていくことでしょう。もう彼には絵を描かせて早死にを待つしかありません。歴史的にはこの後には略奪か植民地政策か戦争か差別が起こりがちで、そして⑤それらは新たな紛争の原因になります。
■エンターテイメントと裸の女神と声優さんとダンサーさん
日本では何故かデカい大仏やデカいガンダムを作った後は飢饉になるジンクスがあるようですね。
すべきことをせずに腹の足しにならないものを作っていれば当然と言えばそうです。ガンダムは知りませんが、大仏の場合は鋳造に大量の木材を使い酸性雨の原因になる製造工程を経ますので、ただでさえ飢饉なのにも関わらず、更に追い打ちをかけたことだと思います。
森林伐採もあって、洪水もたぶん起こりやすいでしょう。偶然かも知れませんが、インフラも雑になるのか最近日本でも水害が発生しました。
因みに古代ギリシャではやたら女神の裸の多い神殿を制作したい市民が多かったので、政治家はそれらの神殿をつくらせてあげない限りは、陶片追放されてしまいます。それだけではなく喜劇作家にバカにされたり大量の女神や美女人材を抱えている人から悪妻をプレゼントされ、何か軍事にも手を入れようとすると「スパルタ人かよ。お前が前線に行けよ」と言われるそうです(※物凄く日本の「ならお前が戦争いけよ」という発言と既視感がありました)他にはとても有名な哲学者が冤罪でなくなったりします。そうでなければ運が良ければアレキサンダー大王の家庭教師になれるかも知れませんが…
もう反論というかなんというか、
過去散々私より遥かに賢く実行力のある善人たちが正論を言って死んできた話ですので、もう、この問題になにをいっても無駄なのかもしれません。
なんといっても偶像造りは楽しいのです。
モデルになってくれっていって、女神みたいな美人や声優を呼びつけて女の子の絵ばっかり描くのは楽しいことです。噴水や公衆浴場を作りたがるのは、モデルの女神に似ている女性が脱いでくれるからではないでしょうか。大人数の女キャラの声優を呼んでエロゲを作るのはそういう事です。
ダンサーを集めて大人数でダンスを踊らせるわきで、エドガー・ドガが描いたバレリーナーを品定めする太った団長が覗いてそうです。
絵を描くのが大好きな私も運よく呼ばれましたが、私より絵が上手く醜い子は採用されず私が残りました。まあご家庭の事情などあったのでしょうが、何故か私が特定の男性を振った後に、私の悪口を言いながら他の東京のソシャゲ会社に入社していました。私は何故か首になり、その時点ではどんな悪口を言われているのかよくわかっていませんでした。その何年も後にその事実に気がつきましたが、人の名前を憶えない私は誰に損害賠償を請求していいのかわかりませんし、証拠ももちろんないのです。
また、彼らが作って楽しい仕事は私のところに降りてこなくて、彼らの補助をさせられるだけで、彼等は私たちに尊敬されようとします。みんな嫌がると仕事を失うので、大嫌いな作家でも褒めちぎります。
だんだん私の愚痴になってしまったのでこの辺にいたしましょう。
後日追記:究極的には民衆が何に金を払うことを求めるかという点では、以下のnoteも参考になるかもしれません。日本の資本主義がある程度「こう」なったことにはある程度軍事国家の名残りもあるという話です。『経済は感情で動く』という本はベストセラーになって日本でも翻訳されて出版されましたが、そもそも我々が何を目的に動いているか理解するとエンタメにお金が払われる理由も理解できます。
https://note.com/img_num_ri/n/nce2753b5c9d3
■オマケ■
画像を元にAIで色を付けてもらいましたが、微調整が面倒なので没にしたのですが、なかなか良いので披露しました。


よく見ると半額シールが違います。

以下は一番最初にアーティスティックにしてくれと言ったら失敗したものです。笑うセールスマンでこんなのあったなあ。

100g99円の正義が402gなので398円なので、後で直してくれました。賢すぎる失敗で感動した。
因みに、もちろん絵を描くのが面倒だったので、特に構図を指定せずに書いてもらったのがこれです。


もう少し目立たせてくれと言ったところ、いつもはただの大学生やフリーターだが何かしら特別な仕事をしている謎の男性の正義を問うて虐めているような絵になりました
