⚪️掌編小説|蜜柑堂書店 第十七話
第十六話からの続き
人間の細胞は七年で全て入れ替わるらしい。
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むろん俗説である。
とはいえ、正しいと言えなくもない部分もあるのであって、そこから自己同一性の議論に向かえなくもないのだけれど、ぼくの関心事はそこじゃない。
現在書きかけの小説。約10,000字のこの小説は、しかし、実際に書いた文字数はそのおよそ10倍で、既に100,000字を超えている。
これはもはや別の小説ではないのか?
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これを完成させて、と蜜柑さんはあのときぼくにそう言った。
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蜜柑さんが読んでくれたあの小説と、この小説は果たして同じなのだろうか、と思うときがある。
言うまでもないが文書ファイル自体は同じだ。最初に作成したものに上書き保存しながら書いているのだから、そこには、まあ、ある種の、ドキュメント連続性みたいなものがあるはずだ。
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あるいは、捨てた90,000字の中から使えそうなパーツを拾い集めて、新たに10,000字の書きかけの小説を拵えたとしたら。
どっちがどっちなのだろう。
捨てた90,000字などというものが頭の中以外に存在するかと言ったら、これが実は存在しないこともない。バックアップフォルダの中には自動保存された一時ファイルが山のように残っている。
ただし、この場合ドキュメント連続性は失われてしまう。蜜柑さんが読んだファイルとは別のファイルを新規作成することになるのだから。
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ぼくは、もしかしたら蜜柑さんとの約束を永遠に果たせないのではないか。そんな気がしてきた。
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蜜柑さんに訊いてみるべきだろうか。
蜜柑さん、訊いても良いですか、例えば蜜柑さんがお店でオムレツを注文したとしますよね、で、スクランブルエッグが出てきたらどう思いますか?
って、それ絶対違うに決まってんじゃん!
失敗してグチャグチャに混ぜただけじゃん!
ダメだ。訊くのはやめよう。
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あ。とりあえず仕事しなくちゃ。
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梅雨が明けたらみんなで社内イベントをしたいと思っているのよ、と蜜柑さんが言った。
「ボウリング大会とか、バーベキューとか、海水浴でもなんでも良いのだけれど、お店を閉めて、みんなでリフレッシュするの」
これは恩寵だろうか。頑張って働いたご褒美だろうか。蜜柑さんが海水浴って言った。確かにそう聞こえた。海水浴というのはむろんあの海水浴だろう。蜜柑さんの水着姿を見てしまうのか。裸を。いや、ほぼ裸を見てしまうのか。
「良いですね、みんなで、リフレッシュ、良いですね、ボウリングとか、久しぶりすぎてどうかなー」
青空と、白い砂浜、あはーん、透明な海! ついつい顔が緩んでしまう。海です蜜柑さん、海一択です! ああ、でも声に出しては言えない。下心が漏れてしまう。ダダ漏れしてしまう。
「バーベキューなんかも楽しそうですねー」
ぼくは色白だから弱々しく見えてしまうかもしれない、ああ、もしも蜜柑さんがマッチョ好きだったらどうしよう。くそー
そうだ。そうなんだ。見るというのは見られるということなんだ。ニーチェが予言したとおりだ。今日から腕立てと腹筋だ。
「そうよね、きっと楽しいわよね、ヒーラギさんに幹事をお願いしようと思ってるの」
え。嫌な予感しかしない。
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そういえば、ヒーラギさんがLINEグループに送りつけてきた意味不明な謎の連続メッセージ。
あれを眺めていたら気づいてしまった。縦読みすると「懐かしき夏の匂い」になる。だから何なのか、までは分からないけれど。
(第十八話に続く)
*見出し画像は@羽さんの作品です。
*関連エピソード:第一話、第十一話、第十六話
