平井一夫(ソニー元社長) 私の履歴書(1)「異邦人」を生きて
この連載に着手した時のことだ。私がソニー社長の頃にCEO室で働いてくれていた社員から1枚の書類を手渡された。

A3用紙の両面にびっしりと並べられていたのは、私が2012年に社長に就任してから数年間、雑誌や新聞で取り上げられたネガティブな記事の数々だった。
「テレビをやめるのが先か、平井社長が辞めるのが先か」
就任から3週間後に出た日刊ゲンダイの記事が洗礼だった。その後も容赦なく続く。
「ソニーの経営は2周遅れ」(日刊ゲンダイ)、「泥舟ソニーの醜い社内抗争」(選択)、「ソニー消滅 尽き果てる延命経営」(週刊ダイヤモンド)。
「ソニーとSONY壁厚く」と題した日経産業新聞の記事では、「英語に堪能、人の話もよく聞く――。評判は悪くはない。ただ、そんな資質だけでソニーの改革を実現するのは容易ではない」と論評されていた。
どれも実に懐かしい。ソニーが輝きを失い、迷走が続く中での船出だったことは、私も重々承知していた。当時の私はこんな批判が出ても人前ではまったく表情に出さず、ひょうひょうと日々の仕事に向かっていたと思う。
だが、私も人間なのだ。ムカッとすることもあれば、内心で「このヤロウ」と思うこともある。そんな姿は見せまいと自分の感情を押し殺し、「言わせておけばいい」と平静を装っていたのだ。
人員削減や事業売却を決める時、胸が痛まない経営者などいない。だからといって決断を避けていては、より大きな悲劇を生む原因を作りかねない。こんな重圧や痛みから、リーダーは逃げてはならない。周囲に悩む姿を見せてもいけない。そう自分に言い聞かせて走り抜けてきた。
思えば、私は社長という役割を演じきろうとしていたのかもしれない。後任の吉田憲一郎さんはじめ優秀な人材に恵まれたおかげで、ソニーのターンアラウンド(再建)という大仕事にメドをつけられたと思う。その代償として6年の任期を終えた時、まだ57歳なのに心も身体もボロボロだった。
社長就任時に一斉に疑念の目を向けられたのは、私のキャリアが異例だったことと無縁ではあるまい。ソニーではなく音楽子会社のCBS・ソニー(当時)に入社し、最初の仕事は来日する海外アーティストへの随行だった。
その後、ある先輩から「ちょっと手伝ってもらえないか」と言われてゲーム事業に関わった。期間限定の約束だったのにゲーム会社の再建に奔走し始め、いつの間にか私は「ゲームの人」と見られるようになった。ソニーで長く「本業」と考えられていたエレクトロニクス事業に本格的に携わったのは、副社長になってからだ。
異なる分野に飛び込むたびに「お手並み拝見」の冷たい視線と戦ってきた。どこに行っても私は「異邦人」。思えば社会に出る前からそうだ。
少年時代は父親の仕事の関係で、何度も北米と日本を行き来した。どこに行っても異邦人に安住の場所はない。目の前に現れる未知なる世界に身の丈を合わせ、時に戦い生きてきた。周囲からは明るい少年に見えたと思うが、心の中では形容しがたい葛藤や悩みを抱え続けてきた。
これから1カ月、異邦人がどんな思いで坂道を登り、ソニーと向き合ったのか、その胸の内を語りたい。

(ひらい・かずお)















