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「繰り下げれば得」は本当か——年金の損益分岐点と、健康寿命という見えない壁

国は在職老齢年金による支給停止、在職定時改定、そして繰り下げ受給による増額と、あの手この手で高齢者に「働きながら年金は後で受け取ってほしい」というメッセージを送り続けている。実際、2026年4月には在職老齢年金の支給停止基準額が大幅に引き上げられ、「もっと働いても年金は減らさない」という方向に制度は動いている。

しかし、ここには一つの盲点がある。平均寿命は着実に延びているとはいえ、ここ数年は伸びが鈍化しており、しかも「健康に自立して生活できる期間」を示す健康寿命との間には、男性で約9年、女性で約12年ものギャップが存在する。年金を遅らせて受け取る「繰り下げ受給」は、金額上は明らかに増える。しかし、それが本当に「得」なのかは、何歳まで生きるか、そして何歳まで健康でいられるかによって変わってくる。

本稿では、繰り下げ受給の損益分岐点を改めて整理したうえで、①それが健康寿命との関係でどう見えるか、②在職老齢年金との組み合わせでどのような「二重・三重の締め付け」が生じているかを、図表を使って可視化していく。

1. 繰り下げ受給の基本構造

老齢年金は本来65歳から受給が始まるが、66歳から75歳までの間で受給開始を遅らせることができる。1か月遅らせるごとに0.7%増額され、最大10年(120か月)遅らせると84%の増額となる。増額率は一度確定すると生涯変わらない。

$$
\begin{array}{|c|c|c|} \hline
繰下げ年齢&増額率&損益分岐点(目安)\\ \hline
66歳&8.4\%&約78歳\\ \hline
68歳&25.2\%&約80歳\\ \hline
70歳&42.0\%&約82歳\\ \hline
72歳&58.8\%&約84歳\\ \hline
75歳&84.0\%&約86歳\\ \hline
\end{array}
$$

損益分岐点、つまり「65歳から受け取り続けた場合の累計額」を繰り下げ受給が上回る年齢は、どの繰下げ年齢を選んでも共通して「繰下げ開始年齢+約12年」に近づく。70歳まで繰り下げれば82歳前後、75歳まで繰り下げれば86歳前後が目安になる。

つまり、「繰り下げは得か損か」という問いは、実質的に「その年齢まで生きるかどうか」という問いにすり替わっている。

2. 平均寿命・健康寿命と損益分岐点を重ねてみる

2-1. まず、平均寿命そのものの推移を確認する

損益分岐点を論じる前提として、平均寿命がどう推移してきたかを見ておきたい。1960年に男性65.32歳・女性70.19歳だった平均寿命は、その後の高度経済成長期から平成にかけて右肩上がりに延び続けてきた。

平均寿命の推移(1960年〜2024年)

注目すべきは、平均寿命の延びが近年頭打ちになりつつある点だ。2020年に男性81.64歳・女性87.74歳とピークをつけた後、2021〜2022年にかけてはコロナ禍の影響もあって低下し、2024年時点でも男性81.09歳・女性87.13歳と、2020年の水準を下回ったままになっている。「平均寿命は今後も右肩上がりで延び続ける」という前提で年金の受け取り方を考えるのは、必ずしも実態に即していない可能性がある。

2-2. 2024年の最新データを確認しておく

厚生労働省の令和6年簡易生命表によれば、2024年の平均寿命は男性81.09歳、女性87.13歳。一方、直近公表の健康寿命(2022年時点)は男性72.57歳、女性75.45歳で、平均寿命との差は男性で約8.5年、女性で約11.6年に及ぶ。

この差を、先ほどの損益分岐点と一枚の図に重ねてみると、見え方が変わってくる。

健康寿命・平均寿命と損益分岐点

この図から読み取れることは以下の通りだ。

  • 70歳繰り下げ(損益分岐点・約82歳)は、女性の平均寿命(87.13歳)は下回るが、男性の平均寿命(81.09歳)とはほぼ拮抗する水準にある。65歳時点の平均余命で見ればもう少し余裕があるため、「平均的に生きれば」得になる設計にはなっている。

  • 75歳繰り下げ(損益分岐点・約86歳)になると、男性の平均寿命はもちろん、65歳時点の平均余命すら超えてくる可能性が高まる。長生きへの「賭け」の色合いが強くなる。

  • そして両者に共通するのは、損益分岐点がほぼ例外なく健康寿命を大きく超えた場所にあるという点だ。男性の場合、健康寿命(72.57歳)から70歳繰り下げの損益分岐点(82歳)までは約9年、75歳繰り下げの損益分岐点(86歳)までは約13年ものひらきがある。

つまり、繰り下げ受給によって「元が取れる」年齢に到達した頃には、日常生活に何らかの制限が生じている可能性が高い期間に入っている、ということになる。増えた年金を旅行や趣味、活発な消費に充てられる自由度は、単純な累計額の損益分岐点が示すよりもずっと限定的だ。金額ベースの損益分岐点だけを見て「長生きリスクに備えて繰り下げよう」と判断するのは、この健康寿命とのギャップを見落としている可能性がある。

3. もう一つの締め付け——在職老齢年金と繰り下げの組み合わせ

繰り下げ受給を検討する層の多くは、65歳以降も厚生年金に加入しながら働き続けている人たちだ。ここでもう一つ見落とされがちな制度がある。在職老齢年金だ。

在職老齢年金は、老齢厚生年金の基本月額と、給与・賞与から算出される総報酬月額相当額の合計が一定の基準額を超えると、超過分の半分が年金から支給停止される仕組みだ。この基準額は近年上昇を続けている。

$$
\begin{array}{|c|c|} \hline
年度&支給停止基準額\\ \hline
2022年度&47万円\\ \hline
2023年度&48万円\\ \hline
2024年度&50万円\\ \hline
2025年度&51万円\\ \hline
2026年度(予定)&62万円\\ \hline
\end{array}
$$

在職老齢年金の支給停止基準額の推移

2026年4月の改正では基準額が62万円へと大きく引き上げられ、「働いても年金が減りにくくなる」方向の改正として報じられている。高所得の経営者層などを除けば、多くの人にとって在職老齢年金による支給停止は緩和される見通しだ。

しかし、ここで見落とされがちなのが、繰り下げ受給との組み合わせだ。65歳以降も厚生年金に加入して働きながら繰り下げを選択した場合、在職老齢年金によって支給停止される部分は、繰り下げによる増額の対象から除外される。つまり、「働きながら繰り下げれば、停止されている分も含めて全部増える」わけではなく、実際に支給されるはずだった部分だけが増額の計算対象になる。稼ぎが多い人ほど、繰り下げても想定したほど年金が増えないという構造だ。

この関係を整理すると、次のような三段構えの締め付けが見えてくる。

三重の締め付け構造
  1. 在職老齢年金により、働いて稼ぐほど年金は支給停止される。

  2. 支給停止された部分は、繰り下げても増額の対象外になる。

  3. それでも繰り下げを選べば、年金を実際に受け取り始める年齢そのものが先送りされる。

結果として、体力・気力が最も充実している「稼ぎ盛り」の高齢期に年金は削られ、増額分を実際に受け取れる頃には、健康寿命を過ぎている可能性が高い。国が掲げる「就労意欲の促進」「高齢者の活躍」という言葉の裏側で、実際に高齢者の手元に「使える形」で還元されるお金は、健康なうちにはむしろ目減りしているとも言える。

4. まとめ——「何歳まで生きるか」ではなく「何歳まで健康でいられるか」で考える

年金の繰り下げ受給は、金額の損益分岐点だけを見れば「長生きすれば得」という単純な話に見える。しかし、

  • 損益分岐点(70歳繰下げで約82歳、75歳繰下げで約86歳)は、健康寿命(男性72.57歳・女性75.45歳)を大きく超えた地点にある

  • 在職老齢年金による支給停止分は繰り下げても増額対象にならないため、働きながらの繰り下げは想定ほど増えない場合がある

  • 2026年度の在職老齢年金基準額引き上げは、働き控えの緩和には資するが、繰り下げとの組み合わせで生じる目減り構造そのものは変えない

という3点を踏まえると、繰り下げ受給の是非は「累計金額でいつ黒字化するか」ではなく、「その黒字化した金額を、自分の意思で自由に使える心身の状態で受け取れるかどうか」という軸で考え直す必要がある。健康寿命を過ぎてから増える年金は、生活防衛の原資にはなっても、豊かな高齢期を謳歌するための原資にはなりにくい。年金制度を語るときに使われる「平均寿命」という数字は、あくまで生存確率の話であって、生活の質を保証するものではないことを、改めて意識しておきたい。


参考文献

  1. マネイロメディア「年金繰り下げの損益分岐点は何歳?受給開始年齢別の計算と判断のポイントを専門家が解説」https://moneiro.jp/media/article/pension-deferral-break-even-point

  2. シニアタイムズ「年金の繰下げ受給とは|計算方法や損益分岐点は?手続き方法も解説」https://senior-job.co.jp/magazine/kurisage_jukyuu

  3. 日本経済新聞「いつまで働く? 公的年金の繰り上げ・繰り下げは損益分岐年齢に注意」https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUB219SG0R21C25A1000000/

  4. エスタイム社会保険労務士法人「年金繰り下げの注意点 PART2」https://stime-sr.jp/archives/983

  5. 厚生労働省「令和6(2024)年簡易生命表の概況」https://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/life/life24/dl/life24-02.pdf

  6. 高齢者住宅ジャーナル「平均寿命(2025年)が男性81.09年、女性87.13年に!」https://www.satsuki-jutaku.mlit.go.jp/journal/article/p=2818

  7. e-ヘルスネット「平均寿命と健康寿命」https://kennet.mhlw.go.jp/information/information/hale/h-01-002.html

  8. SmartHR Mag.「【2026年4月改正】在職老齢年金とは?制度の仕組みと基準額の引き上げについて社労士が解説」https://mag.smarthr.jp/hr/labor/zaishoku-rourei-nenkin/

  9. mycsr「年金制度改正法成立(在職老齢年金制度の見直し)」https://mycsr.or.jp/archives/1468

  10. 日本年金機構「年金の繰下げ受給」https://www.nenkin.go.jp/service/jukyu/seido/roureinenkin/kuriage-kurisage/20140421-02.html

  11. 公益財団法人生命保険文化センター「老齢年金の繰上げ・繰下げ受給について知りたい」https://www.jili.or.jp/lifeplan/lifesecurity/1121.html

  12. 未来をはぐくむ研究所「【社会保険シリーズ】2025年度の年金額は3年連続の上昇」https://www.am-one.co.jp/hagukumu/article/column-20250131-2.html

  13. ハートページナビ「【日本人の平均寿命】世界・都道府県ランキング&推移で比較!」https://www.heartpage.jp/contents/magazine/08-00859


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