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『訂正可能性の哲学』と現代公共圏 - デジタル資本主義、歴史の硬直化、そして「変わりながら続く」ための知の技法

東浩紀氏の『平和と愚かさ』(2025, ゲンロン)を先日ようやく読みました! 面白かったし、ちょうど戦争と忘却というテーマで文芸誌に寄稿する仕事をいただいていて、その構成を考えるうえで貴重な学びになりました。『平和と愚かさ』についての感想に紐づいた記事をつくりたいと思ったのですが、その前に、前作である『訂正可能性の哲学』(2023, ゲンロン)を復習したいと思いまして、本noteでよく言及する「公共圏」の問題について訂正可能性という概念がどのように活きてくるのかという視点から本記事を作成した次第です。お楽しみいただければ幸いです。

序 : 陸上で溺死する社会を生き抜くために

いま、公共圏は奇妙なほどに「正しい」。それぞれが正義を語り、過去の過ちを告発し、データと証拠を掲げ、相手の矛盾を即座に見つけ出す。にもかかわらず、その正しさの過剰は、社会を少しも柔らかくしていない。むしろ、ソーシャルメディア上では一過性の怒りが反復され、過去の発言や失敗が、デジタル空間に刻まれた消せない烙印として当事者を追い詰めていく。キャンセル・カルチャー、炎上、アルゴリズムによる可視性の配分、そしてプラットフォーム資本主義がもたらす記憶の永続化。それらは、現代社会に「間違えることができない」という、ひどく息苦しい倫理をもたらしている。[1] メディア論の大家マーシャル・マクルーハンは私たちを取り巻く環境を「水」に例えたが、私たちはその水によって溺死しようとしている。

この息苦しさのなかで、東浩紀が提示する「訂正可能性の哲学」は、単なる思想上のキーワードではない。それは、間違えた者を即座に裁くための道具ではなく、間違えたまま、それでもなお他者とともに生き続けるための技法である。過去を消すのではない。責任を曖昧にするのでもない。むしろ過去とのつながりを引き受けたまま、その意味を現在の側から何度でも読み替え、未来へと開いていく。その意味で訂正可能性とは、冷徹な歴史認識でありながら、同時に、人間が人間であるための最後の温度でもある。

本稿は、東が三十年にわたる思索の到達点として提示したこの概念を、哲学、政治思想、メディア論、宗教学、心理学、コミュニケーション論の交差点から読み直す試みである。ウィトゲンシュタインの言語ゲーム、ルソーの一般意志、人工知能民主主義、日韓の歴史認識問題、ガタリのポストメディア論、供養の倫理、アイデンティティの柔軟性、そしてSNS時代の喧騒。これらは一見ばらばらに見える。しかし、そこにはひとつの問いが走っている。すなわち、私たちはどうすれば「変わってしまった」あとも、なお同じ私たちであり続けられるのか、という問いである。[2][3][4]

1. 訂正可能性とは何か――固定された正しさから、遡行する意味へ

訂正可能性とは、単純に「誤りを修正できる」という意味ではない。もしそれだけであれば、学校の答案の赤字や、企業の訂正文や、法律の改正と大きく変わらない。東がこの語に込めているのは、より根源的な逆説である。私たちは、過去と一貫しているふりをしながら、実際には現在の必要に応じて過去の意味を書き換えている。そして、その書き換えこそが、共同体や個人の持続性を可能にしている。

ここで重要なのは、訂正が「リセット」ではないという点である。リセットは、過去を切断する。都合の悪い記憶を削除し、最初からなかったことにする。訂正は逆に、過去を消さない。むしろ、過去を抱え込む。かつての言葉、かつての判断、かつての失敗を、いまの私たちがもう一度受け取り直す。そのとき過去は、単なる負債ではなく、現在を作り替えるための素材へと変わる。

この点で、訂正可能性は、現代のデジタル環境と正面から衝突する。プラットフォームは過去を保存するが、過去を生き返らせるわけではない。データベースは発言を残すが、その発言がどのように変化しうるか、どのように悔いられ、どのように引き受け直されるかまでは保存しない。だからSNSはしばしば、記憶の装置でありながら、赦しの装置ではない。訂正可能性の哲学は、この「保存されるが、変化できない」世界に対して、過去を別様に動かすための思考を差し出している。

2. ウィトゲンシュタインの言語ゲーム――ルールはいつ、どこで決まるのか

訂正可能性の哲学を理解するうえで、まず避けて通れないのが後期ウィトゲンシュタインである。彼は『哲学探究』において、言語とは固定された意味を運ぶ透明な容器ではなく、人々の実践のなかで動く「ゲーム」であると考えた。私たちは、言葉のルールを完全に知ったうえで話しているのではない。むしろ、ルールを知らないまま、いや、ルールを実践のなかで少しずつ発見しながら、言語というゲームをプレイしている。[5]

ソール・クリプキが提示した「クワス算」の思考実験は、この不安を極端なかたちで露出させる。ある人が、これまで「2+2=4」と計算していたにもかかわらず、突然「2+2=5」と言い出す。そして彼は、自分はこれまで通常の足し算ではなく、ある条件下では答えが変わる「クワス算」に従っていたのだと主張する。私たちは、その主張を馬鹿げていると感じる。しかし、純粋に論理的に、彼が過去にどのルールに従っていたのかを完全に証明することは難しい。[5]

このパラドックスが示すのは、ルールは内面のどこかに静かに保存されているものではない、ということである。ルールは共同体の実践のなかで、事後的に確定される。ある発言、ある行為、ある判断が「正しい」とされるのは、それがあらかじめ天上の規則に合致しているからではない。共同体が、それを正しいものとして扱い、間違いを間違いとして訂正するからである。

東の議論が鋭いのは、この「事後性」を否定的な不安ではなく、むしろコミュニケーションの可能性として読み替える点にある。意味が最初から完全に決まっていないからこそ、人は後から言い直せる。誤解があるからこそ、関係は更新される。ルールが固定されていないからこそ、共同体は自らを修正できる。ここで訂正可能性は、混乱の名ではなく、自由の別名になる。

3. ルソーの一般意志――存在しないものが、あとから発見される

政治思想の領域で、東はルソーの「一般意志」を独特に読み替える。一般意志は、しばしば民主主義の正統性を支える概念として語られる。けれども、それは同時に、非常に扱いにくい概念でもある。人民全体の意志とは何か。多数決の結果なのか。全員の欲望の総和なのか。あるいは、誰かが代弁できる超越的な正義なのか。

東の読解において、一般意志は実体としてどこかに存在するものではない。それは、決定のあとに発見される。ある選択がなされ、その結果を生きた後続の人々が、「あれは私たちの一般意志だった」と遡行的に意味づける。そのプロセスのなかで、一般意志はあたかも最初から存在していたかのように立ち上がる。[7]

この理解は、民主主義を「正解を見つける制度」から、「間違いを引き受け、更新し続ける制度」へと移動させる。民主主義において重要なのは、一度の投票、一度の合意、一度の決定が完全であることではない。むしろ、決定のあとに、それを批判し、読み替え、必要なら訂正できることこそが民主主義の生命である。

だから、訂正可能性の哲学は、単なる言語哲学ではなく政治哲学でもある。社会は、誤った決定を下す。共同体は、誰かを排除する。国家は、しばしば残酷に失敗する。しかし、その失敗を「なかったこと」にせず、かといって永遠に同じ罰のなかに閉じ込めるのでもなく、後続の世代が別の意味を発見し直す。その営みこそが、公共性を生きたものにする。

4. プラットフォーム資本主義と人工知能民主主義――訂正不能な世界の到来

現代において訂正可能性が切実に求められるのは、私たちの社会が急速に「訂正不能」な構造へと傾いているからである。巨大プラットフォームは、ユーザーの行動履歴、購買履歴、検索履歴、発言、移動、関心を収集し、それらを解析することで、次に何を見せ、何を買わせ、何に怒らせるかを予測する。そこでは人間は、未来を開く存在というより、過去のデータから推定される行動パターンの束として扱われる。

東が「人工知能民主主義」と呼ぶのは、このようなデータ駆動型の統治である。それは効率的で、合理的で、ときに民主的にすら見える。人々の欲望を集計し、最適解を計算し、不満を減らし、摩擦を管理する。しかし、その合理性の中心には、ひとつの恐ろしい前提がある。人間は過去の延長として予測できる、という前提である。[3][10]

訂正可能性は、この前提に抵抗する。人間は、過去のデータによって完全には説明できない。昨日までの自分を裏切ることがある。いや、むしろその裏切りによってはじめて、自分を更新することがある。プラットフォームは「あなたはこういう人です」と分類する。訂正可能性は、「私はそうだったかもしれない。しかし、いまは違う意味でそれを引き受ける」と言う。

SNS上のキャンセル・カルチャーもまた、この訂正不能性の一形態である。一度の失言、一度の失敗、一度の過去が、検索可能なデータとして永遠に残り、人格全体の証拠として扱われる。そこでは、人は変わることができない。謝罪はしばしば燃料になり、沈黙は罪の承認になる。間違えた者が、その間違いを引き受けて変わるための時間が与えられない。だからこそ訂正可能性は、現代のデジタル公共圏にとって、単なる理念ではなく、ほとんど救命具のような意味をもつ。

5. 歴史認識と不可逆性――「最終的解決」という誘惑

訂正可能性が最も痛みを伴うかたちで試されるのが、歴史認識の問題である。とりわけ日韓関係における慰安婦問題は、歴史が単なる過去の出来事ではなく、現在の政治と感情を組織する生きた傷であることを示している。2015年の日韓合意で用いられた「最終的かつ不可逆的な解決」という表現は、その意味で象徴的である。[4]

政治はしばしば、歴史に終止符を打ちたがる。合意文書を作り、賠償や謝罪の形式を整え、これで終わりにしようとする。その欲望自体は理解できる。終わらない対立は疲弊を生み、国家間関係を硬直させ、未来の協力を妨げるからである。しかし、歴史の意味は、政治的合意だけで閉じることができない。とりわけ被害を受けた人々、沈黙を強いられた人々、後の世代がその出来事に新しい言葉を与えようとするとき、不可逆性の要求は、しばしば第二の暴力になる。

訂正可能性は、歴史を好き勝手に書き換えるための免罪符ではない。むしろその逆である。過去の事実を軽く扱うのではなく、過去が現在に向かって何度も語りかけてくることを認める態度である。歴史とは、墓石のように固定された記録ではなく、死者と生者のあいだで続く対話である。だから歴史認識に必要なのは、最終性ではなく、継続性である。不可逆性ではなく、慎重な可逆性である。

6. ポストメディア論との接続――ノイズ、誤配、観光客

フェリックス・ガタリのポストメディア論は、メディアを情報伝達の中立的な道具としてではなく、主観性を生産する装置として捉える。テレビ、新聞、SNS、動画プラットフォーム、検索エンジン。それらは単に情報を運ぶだけではない。私たちが何を感じ、何を自分の意見だと思い、どのような社会を現実として受け取るかを、日々、微細に作り替えている。[13]

この視点から見ると、訂正可能性とは、主観性の生産を固定化させないための運動である。プラットフォームは、ユーザーを似たもの同士の群れに分類し、関心に合わせた情報を流し込み、自己像を安定させる。そこでは、私はますます「私らしい」情報だけを受け取り、「私らしい」怒りを反復し、「私らしい」敵を発見する。しかし、それは安定ではなく、緩やかな閉塞である。

東の「観光客」という概念は、この閉塞を揺さぶる。観光客は、内部者ではない。責任ある当事者でもない。ときに軽薄で、無責任で、場違いですらある。しかし、だからこそ彼は、共同体にノイズを運び込む。誤解し、誤配し、思わぬ結びつきを作る。共同体は、そのノイズによって自らの前提を揺さぶられる。訂正可能性は、このノイズを排除せず、むしろ公共圏を更新する契機として受け入れる思想である。[3][11]

7 宗教学的側面――供養、死者への責任、歴史の縦軸

訂正可能性の哲学が、単なる相対主義や軽やかな再解釈に終わらないのは、そこに「死者への責任」という重い軸があるからである。過去を訂正するとは、死者を好き勝手に利用することではない。むしろ、もう自分では語れない者たちの声に耳を澄ませることに近い。[4]

この点で、訂正可能性には日本的な供養の感覚に通じるものがある。柳田国男が描いたように、死者はただ消滅するのではない。供養を通じて、御霊となり、生者を見守る存在として共同体のなかに位置づけられる。[17] もちろん、これは宗教的信仰としてだけ読む必要はない。重要なのは、死者が現在の倫理的想像力に影響を与える、ということである。

私たちは、過去を自由に書き換えることはできない。なぜなら、そこには死者がいるからである。けれども、過去をまったく書き換えずに保存するだけでも足りない。なぜなら、死者の声は、現在の私たちが聞き取らなければ沈黙したままだからである。供養とは、死者を忘れないことではなく、死者を現在の言葉で迎え直すことなのだ。訂正可能性とは、この意味で、歴史を生きた供養に変える技術である。

8. 心理学的側面――アイデンティティを折らずに曲げる

個人の心理に目を向けると、訂正可能性は「自分を壊さずに変える」ための技術として見えてくる。現代人は、自己実現を求められ、キャリアを設計し、SNSで自己を提示し、つねに一貫した物語を演じるよう促されている。けれども、人間は一貫していない。気持ちは変わる。能力には限界がある。信じていたものを信じられなくなる日もある。

バーンアウトや深い自己否定が生じるのは、しばしば「理想の自分」と「現実の自分」のあいだに橋を架けられなくなったときである。過去の自分を裏切れない。かといって、現在の自分を受け入れられない。そのとき人は、自分を丸ごとリセットしようとするか、あるいは自分を責め続けるかのどちらかに傾きやすい。[19]

訂正可能性は、この二者択一を避ける。過去の自分は間違っていたかもしれない。しかし、その間違いは、いまの自分を貧しくするだけのものではない。むしろ、いまの自分がそれをどう読み替えるかによって、過去は別の意味を帯び始める。これは自己欺瞞ではない。人間が時間のなかで生きるという事実に即した、きわめて現実的な知恵である。

自己効力感とは、自分が環境に働きかけられるという感覚である。訂正可能性は、過去の出来事そのものは変えられなくても、その意味づけには働きかけられる、という感覚を与える。人生を変えるとは、必ずしも出来事を消すことではない。出来事が自分のなかで占める場所を変えることなのだ。

9. コミュニケーション論――喧騒を消すな、喧騒を育てよ

アレクシス・ド・トクヴィルがアメリカの民主主義に見た「喧騒」は、訂正可能性の社会的条件として読み直すことができる。民主主義とは、静かで整然とした合意の場ではない。むしろ、多様な結社や市民の声が、政府や制度を外部から揺さぶり続ける騒がしい空間である。[3]

ただし、すべての喧騒が豊かなわけではない。SNS上の罵倒は、しばしば訂正ではなく消去を目指す。相手の言葉をよりよく理解するのではなく、相手を言論空間から追放する。誤解をきっかけに対話するのではなく、誤解を燃料に攻撃する。そこでは、騒がしさは公共圏を活性化させるのではなく、ただ神経を摩耗させる。

訂正可能性が求める喧騒は、相手を消すための騒がしさではない。相手の言葉によって自分の前提が動かされることを許す騒がしさである。自分の発言が誤解され、思わぬ文脈に運ばれ、そこで別の意味を帯びることを恐れない騒がしさである。公共圏を再建するとは、沈黙を作ることではない。罵倒を対話へ、炎上を訂正へ、ノイズを更新へと変換する制度と文化を育てることである。

10. 類似概念との比較――訂正可能性の輪郭を浮かび上がらせる

訂正可能性は、いくつかの近接概念と響き合っている。だが、それらと完全に重なるわけではない。むしろ比較することで、この概念の独自性が鮮明になる。

修復的正義(ハワード・ゼアら)は、処罰よりも被害の回復、当事者の対話、関係の修復を重視する。訂正可能性と同じく、過去の過ちを未来の関係へ開く思想である。ただし、修復的正義が一定の合意や回復を目指すのに対して、訂正可能性は、その合意さえも将来の世代によってふたたび訂正されうると考える点で、より動的である。[2]

リチャード・ローティの再記述は、世界や自己を、より有用な新しい語彙で語り直す営みである。固定的真理を拒み、言葉によって世界を更新する点では、訂正可能性と深く響き合う。しかし、訂正可能性は、単に新しい語彙へ飛び移るのではなく、過去との一貫性を装いながら変わるという、より保守的で責任的な身振りを含んでいる。[21]

ハンナ・アーレントの許しは、行為の予期せぬ結果から人間を解放し、新しい始まりを可能にする力である。過去の呪縛を解く点では訂正可能性に近い。ただし、許しが個別の行為に対する恩寵的な出来事であるのに対し、訂正可能性は、歴史や伝統を持続させるための技術、制度、解釈の作法として働く。[1]

ラクラウ/ムフの根源的デモクラシーは、合意ではなく、対立や闘争こそが政治の本質であると捉える。固定された秩序を揺さぶる点で訂正可能性と共鳴するが、訂正可能性は敵対そのものよりも、家族的類似性のなかで、同じ共同体が別の共同体へと変化していく契機を重視する。[23]

こうして見ると、訂正可能性は、リベラルな寛容、保守的な継承、ポストモダン的な再記述、民主主義的な対立、宗教的な供養のあいだを横断する、奇妙に混成的な概念である。それは一方で、過去は変えられると言う。だが他方で、過去を軽く扱ってはならないとも言う。この緊張こそが、概念の弱点であると同時に、最大の魅力でもある。

11. 批判的検証――この哲学は、どこで危うくなるのか

訂正可能性の哲学は魅力的である。しかし、魅力的な思想ほど、危険な使われ方をする。ここでは、少なくとも三つの批判を確認しておく必要がある。

第一に、歴史修正主義への接近である。過去の解釈は訂正できると言うとき、それは権力者が都合の悪い過去を塗り替えるための理屈にならないか。加害の事実を「当時はそういう意味ではなかった」と言い逃れ、被害者の証言を「別の解釈も可能だ」と相対化する道具にならないか。この懸念は深刻である。東は「死者への責任」を歯止めとして置くが、それがどの程度、制度的・歴史学的な基準として機能するかはなお問われる。[4]

第二に、クリプキ的懐疑論の適用範囲である。クワス算のような極端な言語哲学上のパラドックスを、政治や歴史の問題へ直接接続することには、カテゴリーミステイクの危険がある。現実の社会的訂正は、抽象的なルール懐疑だけでなく、権力、制度、資料、証言、身体的被害といった複数の条件のなかで行われる。そこでは、クワインのホーリズムやノイラートの舟の比喩のように、全体を沈めずに部分を修理するモデルのほうが、より現実に即しているかもしれない。[25]

第三に、ポピュリズムの危険である。訂正の契機を「観光客のノイズ」や偶然の誤配に委ねるとき、その場で最も大きな声を出す者が、訂正の方向を支配してしまう可能性がある。普遍的な正義や真理を疑いすぎると、残るのは可視性と動員力だけになる。これはSNS時代において、特に深刻な問題である。

しかし、これらの批判は、訂正可能性を退ける理由であると同時に、訂正可能性をより精密にするための条件でもある。訂正は、事実の否認であってはならない。訂正は、強者の言い逃れであってはならない。訂正は、声の大きさだけで決まってはならない。だからこそ必要なのは、歴史学、法、メディア倫理、教育、共同体の記憶実践を横断する、訂正の作法を作ることである。

12. 暮らしの哲学としての訂正可能性――不完全なまま続くために

訂正可能性の本当の価値は、抽象的な哲学体系としてではなく、生活者の日常に降りてきたときに見えてくると考える。私たちは誰もが、間違える。大切な人を傷つける。過去の自分に縛られる。若い頃に信じていたものを信じられなくなる。変わりたいのに変われず、変わってしまったことを認められず、しばしば自分自身に対して不寛容になる。

そのとき訂正可能性は、こう語りかける。過去を消さなくてよい。だが、過去に殺されなくてもよい。あなたは、かつての自分とつながっている。しかし、そのつながり方は変えられる。失敗は失敗のまま残る。けれども、それが人生の終点になる必要はない。

これは「老いる力」でもある。老いるとは、可能性が減ることだけではない。若さのリセット願望から離れ、積み重なった記憶や身体の変化を引き受け、それでも自分を更新していくことである。組織も国家も、同じである。成熟とは、間違わないことではない。間違えたあとに、自らを訂正できることである。

「謝ったら死ぬ病」と呼びたくなるような現代の硬直した心性は、自分を訂正不能な存在として扱おうとするところから生まれる。謝罪すれば終わる。負けを認めれば消える。変わったと認めれば過去の自分が崩壊する。そう思い込むから、人はますます硬くなる。けれども実際には、訂正できるものだけが生き延びる。硬いものは折れる。柔らかいものは、傷つきながら残る。

13. 死者とともに未来へ行く―― 縦の公共性

最後に、訂正可能性を公共圏の再構築へ接続するなら、私たちは「死者とともに未来へ行く」という感覚を取り戻す必要がある。公共圏は、生きている人々だけの討論空間ではない。そこには、過去に傷ついた人々、語れなかった人々、名前を残せなかった人々もまた、沈黙の参加者として存在している。

私たちが歴史を訂正するとき、問われているのは、現在の政治的利害だけではない。死者の声をどう聞くか。彼らがもし現在を見ていたなら、私たちの言葉をどう受け取るか。彼らの苦しみを忘れないとは、具体的にどのような制度や言葉を作ることなのか。こうした問いが、公共圏に縦の軸を与える。[4]

デジタル公共圏は、しばしば現在の感情だけで動く。怒りは瞬間的に拡散され、話題は数日で入れ替わり、過去はデータとして残るが、記憶として深まらない。訂正可能性は、この浅い時間に抵抗する。過去を単なる証拠としてではなく、現在を変えるための重力として扱う。そこにこそ、冷徹でありながら暖かな公共性の可能性がある。

結論 : 正しさの牢獄から、訂正の公共圏へ

東浩紀の「訂正可能性の哲学」は、デジタル資本主義が作り出す「正しさの牢獄」から、人間を取り戻すための思想である。人工知能は予測する。プラットフォームは分類する。SNSは過去を保存する。キャンセル・カルチャーは誤りを固定する。それに対して訂正可能性は、人間は予測から逸脱し、分類を裏切り、保存された過去を読み替え、固定された罪を引き受けながら変わることができる、と主張する。[1][3]

それは甘い思想ではない。むしろ、かなり冷徹である。なぜなら、訂正可能性は、過去を消してくれないからだ。責任をなかったことにはしてくれない。死者を忘れさせてもくれない。けれども同時に、それは暖かい思想でもある。なぜなら、過去があるからこそ、私たちは別の意味を発見できるからだ。間違いがあるからこそ、言葉はもう一度始められるからだ。

現代の公共圏に必要なのは、間違えない人間でも、完全に正しい制度でもない。必要なのは、間違えたあとに、なお対話を続けるための作法である。過去を背負い、死者を忘れず、他者のノイズに揺さぶられながら、それでも自分たちの物語を少しずつ書き換える力である。訂正可能性とは、不完全な私たちが、不完全なまま明日へ進むための、最も人間的で、最も困難な約束なのである。(了)

参考文献

[1] Audible版『訂正可能性の哲学 』 | 東 浩紀 | Audible.co.jp, 5月 5, 2026にアクセス、 https://www.audible.co.jp/pd/%E8%A8%82%E6%AD%A3%E5%8F%AF%E8%83%BD%E6%80%A7%E3%81%AE%E5%93%B2%E5%AD%A6-%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%AA%E3%83%96%E3%83%83%E3%82%AF/B0D6N9JQT3

[2] 書評『訂正可能性の哲学』――硬直化した思考をほぐす眼差し, 5月 5, 2026にアクセス、 https://www.d3b.jp/npcolumn/16668

[3] 845冊目『訂正する力』(東浩紀 朝日新書) | 思想水脈~本を ..., 5月 5, 2026にアクセス、 https://ameblo.jp/reading-girls-baseball/entry-12835050995.html

[4] 超越論的条件の喪失と「訂正」の行方――東浩紀『訂正可能性の ..., 5月 5, 2026にアクセス、 https://note.com/tosarino/n/nab9cc654b50b

[5] 実践知としての哲学入門--東浩紀『訂正する力』 - かぐらかのん, 5月 5, 2026にアクセス、 https://kagurakanon.hateblo.jp/entry/2023/11/12/235917

[6] 読んだもの アーカイブ - すべりどめblog, 5月 5, 2026にアクセス、 https://sbb.flop.jp/cat8/

[7] 『訂正可能性の哲学』|感想・レビュー・試し読み - 読書メーター, 5月 5, 2026にアクセス、 https://bookmeter.com/books/21445169

[8] 結論ありきにならないことの大切さ|「訂正可能性の哲学」(東, 5月 5, 2026にアクセス、 https://note.com/yurumi_official/n/ncb255ddc6121

[9] おわりに 『訂正可能性の哲学』より|東浩紀 | webゲンロン, 5月 5, 2026にアクセス、 https://webgenron.com/articles/article20230825_01

[10] 東浩紀「訂正可能性の哲学」はAI関係者必読だ!|shi3z - note, 5月 5, 2026にアクセス、 https://note.com/shi3zblog/n/n94ef396fab36

[11] ウィトゲンシュタインの家族的類似性 「訂正可能性の哲学 ..., 5月 5, 2026にアクセス、 https://webgenron.com/articles/article20210928_01

[12] 限界研読書会――東浩紀『訂正可能性の哲学』, 5月 5, 2026にアクセス、 https://genkaiblog.hatenablog.jp/entry/2023/10/14/073226

[13] 崇高と資本主義: ジャン=フランソワ・リオタール論 - Scrapbox.io, 5月 5, 2026にアクセス、 https://scrapbox.io/kaiechowaves/%E3%80%8E%E5%B4%87%E9%AB%98%E3%81%A8%E8%B3%87%E6%9C%AC%E4%B8%BB%E7%BE%A9:_%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3=%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%BD%E3%83%AF%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%82%AA%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AB%E8%AB%96%E3%80%8F

[14] オタク的なアイデンティティと欲望 - Kobe University, 5月 5, 2026にアクセス、 https://da.lib.kobe-u.ac.jp/da/kernel/D1006802/D1006802.pdf

[15] [前編] 家族をリベラルに取り戻すことについて:東浩紀『訂正可能性, 5月 5, 2026にアクセス、 https://note.com/carpyfish/n/n966dd431f492

[16] 脱構築と公共性--東浩紀『訂正可能性の哲学』 - かぐらかのん, 5月 5, 2026にアクセス、 https://kagurakanon.hateblo.jp/entry/2023/10/17/000017

[17] 現代社会学部紀要 - 中京大学, 5月 5, 2026にアクセス、 https://www.chukyo-u.ac.jp/educate/gendaisyakai/results/2017/2017_special.pdf

[18] 2023−24 | E D H 遠 藤 設 計 室, 5月 5, 2026にアクセス、 http://edh-web.com/?page_id=6521

[19] 読書会参加者に投稿いただいた読書の感想です(2022年10月 - リベル, 5月 5, 2026にアクセス、 https://liber.community/dokusyokanso2/

[20] 25年後の『存在論的、郵便的』から『訂正可能性の哲学』へ(2), 5月 5, 2026にアクセス、 https://www.youtube.com/watch?v=CjTxcnjTulQ

[21] STANDARD BOOKSTORE - BASE, 5月 5, 2026にアクセス、 https://standardbook.thebase.in/22

[22] プラトン: 人工知能を使った関係とアプリ, 5月 5, 2026にアクセス、 https://ja.unionpedia.org/i/%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%88%E3%83%B3

[23] 総合人間学 第 10 号, 5月 5, 2026にアクセス、 http://synthetic-anthropology.org/data/Synthetic%20Anthropology%20vol10%282016%29.pdf

[24] "民主主義"をめぐる吉本隆明と柄谷行人 - Kobe University, 5月 5, 2026にアクセス、 https://da.lib.kobe-u.ac.jp/da/kernel/D1007940/D1007940.pdf

[25] 東浩紀『訂正可能性の哲学』 - 西東京日記 IN はてな, 5月 5, 2026にアクセス、 https://morningrain.hatenablog.com/entry/2023/11/12/222614

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