見出し画像

荒川放水路を歩き、岩淵水門を訪ねる


はじめに

 土曜講座「2025河川と人間①ー荒川放水路を歩き、岩淵水門を訪ねるー」は、2025年7月5日(土)に実施されました。
 9:30にJR川口駅東口に集合し、荒川放水路・新旧岩淵水門・荒川知水資料館amoa・高規格堤防・水塚・荒川旧流路などの見学を目的にした講座です。解散はJR浮間舟渡駅北口に16:00。終日歩き続けます。
 今回も埼玉県立川の博物館学芸員羽田武朗さんに講師役をお願いしました。羽田さんには、平日の放課後にもわざわざ来校していただき、参加者への事前講義を実施していただきました。
 羽田さんのご厚意で、生徒たちは、荒川に対する基本的な知識を得て、フィールドワークにおいて、何を見るべきかという視点を獲得した上で当日を迎えることができました。
 なお、フィールドワーク当日には、以下の課題を提出してもらいました。(生徒解答省略)

【事前課題】
Q)6/24(火)事前学習の羽田先生の講義を受けて、記憶に残ったことをまとめておいてください。
(講義不参加者は、「荒川」について知っていることをまとめておいてください。)

事前課題より

当日の様子

 参加者たちは、川口駅西口に集いました。川口は、鋳物のまち。鋳物業は、江戸時代より前からはじまったと伝えられています。

集合時風景(参加者はこの人数が限界でしょうか)


川口は、キューポラのまち!「キュポラ(Cupola furnace)」


「働く歓び」

 スタートしてすぐ、駅近くのビルにお邪魔しました。何のためにこんなビルに?と思いながら入ってみると、「なるほど!」と、過去回の参加者は納得です。以下の像に出会えました。

「伊奈半十郞忠治公」像。荒川歩きに参加している私たちからすると超重要人物!2029年は、瀬替えから400年!!研究の深まりが楽しみです。

伊奈半十郎忠治公 文禄元年(一五九二)~正応二年(一六五三)
江戸時代前期の関東代官頭(後の関東郡代)
寛永六年(一六二九)、武蔵野国北足立郡赤山(現・川口市)に陣屋を築き、ここを拠点として見沼溜井(見沼田圃の前身)の造成や利根川と荒川の河川改修事業を実施し、水害を防止するとともに、新田の開発を推進しました。江戸時代を代表するこの治水・利水事業により、武蔵国東部低地帯の開墾が可能となりました。彼は新田開発にも力を入れ、次第に広大な荒野は、実り豊かな穀倉地帯へと変貌したのです。
忠治公は、現代に続く地域発展の礎を築いた郷土の偉人と言えるでしょう。

案内版より

 荒川を歩く者として、伊奈忠治の名ははずせません。昨年訪問した埼玉県立川の博物館でも、その展示を見ました。2029年は、瀬替え100年!!各種イベントが盛り上がることに期待です。改めてその功績を確認したところで、伊奈像に別れをつげ、まずは一つ目の見所です。
 羽田さんからある問いが投げかけられましたが、参加者一同、「どこどこ?」「あれのこと?」・・・・。伊奈像から歩いてすぐのところ。以下の写真のうち、どこについての説明からスタートしたでしょうか?ぜひ「写真を読む」視点でお考えください。

景観を読み解く力!どこに着目する?少し見づらいので、以下にアップを掲げます。
電信柱の想定浸水深表示(5m)


マンションの一・二階部分に着目します

 少し見づらいかもしれません。想定浸水深表示(5m)が、電柱にしっかりと示されています。もともとは3mだったそうです。2025年の4月から変更され5mになったそうです。ただ、想定浸水深の数値が見直されたわけではなく、想定浸水深の「表示」そのものが変更されたとのことです。
どういうこと?
 もともと川口駅周辺は「3.0m~5.0m未満」の想定浸水深が多いそうですが、より危機感を持ってもらうために「より厳しい方の数字」を採用することにしたらしいのです。5mは大分高いですね。
 また、5m基準の説明後、マンションの一・二階部分についても着目ポイントであることが紹介されました。

S2Iくん 建物に見る水害への備え

荒川に近いということで1階または1・2階が住居になっていないマンションが多い。それが「安全」ということでマンションの売りだったらしい。川口に住んでいたことがあったが気づかなかった。

事後課題より

J2Sくん 想定浸水深表示

電柱の5メートルの赤いテープや見直されて今は表示を変えた3メートルの白いテープを見たことや、羽田先生の歩きながらの説明を聞いて、荒川が決壊したときマンションの下層を貸店舗にして住居を浸水の被害から守る仕組みがあり、江戸時代から続く対策の歴史があった。

事後課題より

 その地域ならではの防災の視点を学びました。周囲の景観をキョロキョロしながら進みます。

パーキングの名前に「キュポラ」!さすが、川口です


こういった高層マンションがある中に・・・


高層マンションの一方で、周囲には鋳物工場の名残を感じる場所がまだ残ります。

 高層マンションの中にある、町工場の様子。こういった景観は、5年後、10年後、20年後、いつまで見ることができるのか考えさせられます。羽田さんという語り手と歩くことで学ぶことができることです。

想定浸水深5mを撮影


想定浸水深3mラインのあと
寿町ポンプ場

 寿町ポンプ場跡。普段の町歩きでは見落としてしまうかもしれません。けれども、「河川」が主役の町歩きでは、大事なポイントです。ここで、羽田さんから、堤防をつくると「水を捨てられなくなる」というデメリットについて語っていただきました。水害を防ぐために堤防をつくったがために、堤防の内側にたまる水をポンプで排水しなければならなくなる。この矛盾を考えさせられます。
 また、ポンプ場には、クレーンがあるそうです。ポンプの故障があっても入れ替えられるようになっているそうです。排水場は、今では遠隔操作になっていることやポンプの故障が過去に大問題になったことなどについてうかがいました。

荒川沿いへ

 一行は、荒川沿いへ。なかなか、荒川そのものを見ることはかないません。そして少しずつですが、荒川高規格堤防(スーパー堤防)の存在を学んでいくことになります。

J3Hくん 荒川高規格堤防(通称・スーパー堤防)について 
堤防の高さの約30倍の幅を持ち、堤防の上に公共の施設(ここの場合小学校・中学校・寺があった)がある堤防をスーパー堤防と呼ぶ。このスーパー堤防は、予定地に寺が墓を作ってしまったため裁判となり、工期が20年程遅れた。スーパー堤防は工期が土を盛るだけでも2・3年程度と長く、採算が取れないからと工事を見送る場所もある。

事後課題より
スーパー堤防の上で

 中3の生徒が書いてくれている通り、スーパー堤防という壮大なプロジェクトについて学びました。堤防は高さの約30倍の広さを確保し、その上に防災拠点をつくるそうです。
 このプロジェクトの売りは、無駄な用地買収をしない、まちの再開発をしない、といったポイントがあるそうです。用地買収がないということは、現状では、学校・マンション・団地など、大規模な建物の建て替えや建設などの際に、「スーパー堤防」の打診が行われるそうです。
 けれども、堤防の高さを確保するためにお金と時間がかかります。スーパー堤防の完成まで200年かかるとも言われていることを学びました。

川口市立舟戸小学校・川口市立舟戸幼稚園・川口市立南中学校
堤防の高さが分かります
川口市立南中学校 一時避難場所看板

避難所 南中学校

この施設は、大地震等の災害により家屋の倒壊や消失などで被害を受けた方、また被害を受けるおそれのある方を一時的に収容・保護するために避難所として川口市が指定した施設です。

川口市設置看板より

 スーパー堤防の上には、防災拠点を!このセット関係について実際に学びました。

新荒川大橋北側の交差点脇にある  埼玉県芝川排水機場

J2Mくん 新荒川大橋  綾瀬川・芝川浄化導水機場

荒川の水を綾瀬川、伝右川、毛長川、芝川へ導水し、水質の改善と水量の確保を図る施設。導水施設は埼玉高速鉄道のトンネルの下部を共有し4河川に導いている。鉄道一体区間は12km、延長約16kmの地下トンネルと取水口、導水機場、駅舎内施設、分水施設、放流口からなる。施設内には埼玉高速鉄道のトンネルを掘るために使われたシールドマシンと同じサイズのオブジェがある。同施設から旧旧芝川と荒川の合流点が見える。旧芝川は荒川にそうような形をしていて、現芝川は2kmはなれたところで荒川と合流している。

事後課題より
シールドマシンオブジェ!

 ここでも不思議なことを学びます。苦労してポンプで水を捨てている一方で、この浄化導水機場は荒川の水をきれいにして戻しているというのです。元々は綾瀬川や荒川の水質の悪さがあったそうです。さらには、中2生徒が説明板の説明を引用している通り、この一連の導水機場の工事は、埼玉高速鉄道のトンネル工事と一体のもと行われたそうです。
 高速鉄道の下には「導水路」があるそうです。神奈川県南部の学校に通う者として、土地勘がなく、考えたこともなかった!

国土交通省荒川河川事務所 河川情報課設置看板より(一部加工)
新荒川大橋

J2Mくん 新荒川大橋
 新荒川大橋をわたり始め埼玉県側の堤防を見ると二段に分かれている。これは堤防が改良を重ねてより強固なものに改善されていることがわかる。東京都側を見るとスカイツリーと現岩淵水門と今回の土曜講座のテーマでもある旧岩淵水門(通称赤門)のスリーショットが見られる。羽田さんによると何度か正式な手続きを踏んで岩淵水門を開閉させてもらえないかという依頼をしたが、都内を流れる隅田川と荒川を隔てるための岩淵水門を稼働させ、もし故障しそのときに大雨などが起きた場合のリスクもあってかなかなか実現しなかったとおっしゃっていました。なお現在はすこしハードルが下がり、イベントなどでの開閉はあるそうですが、それでもまだ実現していないそうです。

事後課題より

 歩く行程からすると、少し順番が前後してしまいますが、赤門(旧岩淵水門)と青門(新岩淵水門)両方の案内文を先に紹介してしまいます。今回のフィールドワークのメインでもありましたので、多くの生徒が関心をもってくれた場所でもあります。

J2Sくん 旧岩淵水門
旧岩淵水門(赤門)の手前には天皇にまつわる石碑があった。堤防が二段あり一段目と旧岩淵水門の高さは同じである。コンクリートが頑丈である。徐々に地盤沈下しつつある。赤門と言われているがもともとは赤色ではない。

事後課題より

J2Uくん 新岩淵水門(+旧岩淵水門)
岩淵水門(青水門)は荒川放水路と隅田川(荒川旧流路)の境目に位置し、洪水時に閉めることで荒川の洪水を放水路に流しています。旧岩淵水門(赤水門)の後継として建設されました。旧岩淵水門は建設当時の計画高水位に基づいて作られており、また地盤沈下も生じ高さが足りませんでした。そのため現在の岩淵水門に作り変えられましたが、建設中は赤水門を使う必要があり、洪水に耐えるために上流側の高欄はコンクリで埋められています。

事後課題より

J2Tくん
赤水門は現在、水門としての役割を終え、保存されている。
青水門は現在も水門としての役割を果たしているため、簡単にゲートを開けしめすることは出来ない。東京を守っている水門。また、船は一方通行。
昔、川の洪水が多々発生していたため、少し、家が高くなっているところがある。新しい家は玄関と地面が接しているが、昔からある家は地面から少し高い位置に家がある。

事後課題より


旧岩淵水門(赤門)
攝政宮殿下御野立之跡 大正十三年十月廿五日


時間の都合により今回は上陸できず。「全日本草刈選手権大会由来記」の碑をのぞむ

 ここで羽田さんから一つの小ネタが披露されました。この地で、全国草刈り選手権なるものが行われたというのです。昭和13年から昭和19年までの間に、各都道府県から選出された草刈りの猛者たち(全国で予選参加4万人)が、この地に集ったとのことでした。選手全員が同じ鎌を使用し、同じ面積の土地を1時間で刈るそうです。採点基準は刈った草の量と草刈り後の美しさ。戦時下の肥料不足を補うために実施されたイベントだったそうです。
 続いて以下に、旧岩淵水門の説明版を紹介しておきます。青山士(あきら)はおなじみです。

東京都選定歴史的建造物
旧岩淵水門
所在地 東京都北区志茂五丁目地先
設計者 青山 士
建設年 大正13年(1924)
 旧岩淵水門は、明治43年(1910)東京下町を襲った大洪水を契機に、内務省が荒川放水路事業の一部として隅田川とこの分派点に設けた。
 水門は、ローラーゲート構造で、幅約9メートルの五つの門扉からなっており、袖壁部も含めた長さは約103メートルの大型構造物となっている。本体は、レンガ構造では力学的に対応が困難であったことから、当時では珍しい鉄筋コンクリート造として、大正5年(1916)に着工し、同13年(1924)に竣工した。
 昭和22年(1947)のカスリーン台風や昭和33年(1958)の狩野川台風の大出水の際も、機能を十分に果たしてきたが、昭和20年代後半からの東京東部一体(ママ)における広域的な地盤沈下により、本水門も沈下したため、昭和35年(1960)に門扉の継ぎ足しが行われたほか、開閉装置の改修などが施され、現在の旧岩淵水門(赤水門)となった。
 その後、昭和48年(1973)に荒川の基本計画が改訂されたことに伴い、水門の高さに不足が生じたことから、昭和57年(1982)に約300メートル下流に新たな岩淵水門(青水門)が整備され、旧岩淵水門はその役目を終えることとなった。

東京都設置案内板より
コンクリートについて学ぶ。砂利が多く含まれていると、震災直後に丈夫につくられているものが多いのだとか。
埋められている背景は、説明を聞かないとなかなか分からないのでは?
こっちは埋められていない
赤門へ
証拠写真を撮影


赤門(旧岩淵水門)より青門(新岩淵水門)をのぞむ
青門(新岩淵水門)


二段構えの堤防にも慣れました

J2Sくん まとめ
その2つの地点に行って、羽田先生の話を聞いて僕が考えたことは、荒川の治水には江戸時代から今の時代までたくさんの人が関わり続けて、現代では犠牲になる人は減らすことができたといえるということです。それは人が犠牲になり、犠牲者をこれ以上出さないという決意と努力が荒川の流路の埋め立てによって変化させたこと、スーパー堤防などの巨大な施設となって形になっていて「荒川の安全の大きさ」が身に染みて分かった。

事後課題より

 ここで荒川知水資料館amoaを訪れました。展示の地図やキャプションを確認して、荒川全体を意識して学びます。また、こちらの庭で簡単に、各自持参のお昼ご飯を済ませました。

荒川知水資料館amoa


資料館入り口
お馴染みの青山士(あきら)の説明も再度確認
みんなで見学
荒川放水路通水100周年企画展(2024年のこと)
ジオラマを活用した説明はやはり分かりやすい!
水害のリスクを知るこの展示は、「怖さ」が伝わってきます
このシミュレーションをみて、私たちは何を考えるべきか
やはり怖い。
実際歩いたところの.2019年時の風景なのかと思うと、説得力が増します
こちらは、後ほど現地を訪れることになります
京成本線荒川橋梁架け替え事業の展示です

 そして、お昼休憩後のスタートです。この時、外に出ると異様な風景が広がっていました。消防車に救急車にパトカーに・・・。参加者一同緊張しました。男子たちは、邪魔にならない形で羽田さんの説明に耳をかたむけました。

異様な雰囲気のなか、男子たちは歩く
異様な雰囲気のなか、男子たちは説明を聞く

 なお、異様な雰囲気に別れをつげ、今度は、新河岸川方面に歩みを進めます。
 ここで「なるほど!」と思う事柄に出会いました。下の写真を見ていただくと分かりますが、通路ではないところに、(ショートカットしたい人たちがつくったと思われる)通路ができていました。そして、その通路の脇に、メッセージが記された看板。
 「芝がはがれると、大雨時に土が流れて堤防が弱くなります」の一文が。
この看板について、羽田さんからかぶせるように、くれぐれも注意するよう話がありました。看板がなければ、通ってしまいたくなる場所です。堤防が、しっかりと管理される必要があることを改めて感じさせられる場所となりました。

「ここは通路ではありません」
「ここは通路ではありません」という看板が確かに必要ですね

 次に一行は、東京都教育委員会設置の「岩淵の渡船場跡」の解説板にたどりつきました。岩淵宿から荒川を渡り、川口宿に向かうための渡船場所(川口の渡し)があったと推測されている場所(正確な場所は?)です。看板には「名所江戸百景 川口のわたし善光寺」の浮世絵が紹介されていましたので、荒川放水路よりも以前の、江戸時代当時の風景を考えることができました。

J2Hくん  
荒川放水路がつくられたことによって、たかだか100年くらい前の話だが、渡し船が正確にどこにあるかはなかなかに分からなくなった。つまり、それほど荒川放水路の工事は大規模になったことに驚いた。また、将軍は渡し船では川を渡れず、船橋という仮設の橋を渡っていた。

事後課題より
岩淵の渡船場跡(東京都北区教育委員会 平成二十八年二月設置)
以前の流路も考えながら
歌川広重「名所江戸百景 川口のわたし善光寺(安政4年)」

 そして、一行は、変わった川「新河岸川」沿いを歩きます。まっすぐな川です。羽田さんから、「ごぉ~」という音とともに逆流していることがあることも教えてもらいます。
 そもそも荒川の本流も新河岸川もどっちに流れているか分かりません。「ちゃぷちゃぷ」聞こえていたら逆流していることもあるとのこと。
 また、新河岸川は、昔は舟運がよくみられた場所で、今は禁止されているそうです。東京の方面にのみ工事用の船がみられることがあるそうです。舟運から鉄道に変化することで、風景が異なることを改めて学びます。

占有境界杭 北区
河川施入許可標識 桜堤緑地が続きます。春に訪れてみたい。
新河岸川対岸には、テニスコート。河川敷のお馴染みの活用です。
amoaで見た京成線の話題の場所を見学。地盤沈下恐るべし。
こちらも河川敷の活用
左側が新河岸川で、右側に荒川(放水路)の河川敷が広がります
いま一度、新河岸川へ下ります
新河岸川沿いを歩く、歩く
ここで、「おっ」という風景の変化が。「まっすぐ」だったのが、「カーブ」へ。
なんで曲がっているの?という問いを投げかけていただきながら歩きます

 新河岸川は、あまりにもまっすぐな川。荒川放水路と一緒に作り直されたとの説明をしていただいました。元々は、荒川と合流していましたが、今は岩淵水門でみた通り、隅田川と合流しています。
 そこの地点からさかのぼって、歩いてきたところに出会うカーブです。そして、その曲がりかけのタイミングで再び、新河岸川から荒川放水路側にでます。場所は、北赤羽駅方面。そして、浮間地区の荒川高規格堤防へ。

J2Sくん 荒川高規格堤防(浮間地区)
 ここは午前中にみた、川口地区の堤防(お寺や小学校・中学校があったあたり)と同じスーパー堤防になっているが、スーパー堤防は無理やり堤防にすることができないので周囲にスーパー堤防は広がっていない。また羽田さんの話によると、ここのスーパー堤防は完成してからすぐに壊れてしまった。
 またここは新河岸川が曲がり始めるところで、なぜ人の手で作られた新河岸川がここで曲がっているのかというと、ここから先はもともと荒川だったので曲がっているとのこと。なのでちょうどこの浮間地区のところは元の荒川が流れていた。

事後課題より
妙な空間に気づきます
マンションとスーパー堤防の関係について考える
もともとの地域の特徴を考える
さらに考える
浮間橋の碑(旧浮間橋建設記念碑)

 浮間橋のあたりは地図を見てみるととても面白い場所です。明治43(1910)年8月の大水害は、河川改修事業の大きな転換点です。この改修によって、洪水時の四分の三の水量を流すことができる荒川放水路がつくられました。そして元の荒川の流水量を調節するために岩淵水門が建設されました。
 その結果、「浮間」は荒川と新河岸川の間に挟まれ、島のような場所になってしまったそうです。交通手段は渡船のみ。そこで、浮間地域の人々は、近くに駐屯していた近衛師団工作隊に、架橋を依頼したそうです。そこで作られたのが木造の橋です。橋はその後、昭和15(1940)年には鉄橋に架け替えられました。さらに東北・上越新幹線、埼京線の建設計画に伴い、再び架け替えられたとのことです。
 陸軍がつくる「インフラ」について、考える機会を得ました。そして一行は、新河岸川のカーブに復帰し、流路を歩き続けます。

S2Iくん 荒川旧流路その1
新河岸川は荒川放水路を作るときに荒川の旧流路を使って整備された。そのため浮間舟戸あたりは蛇行している。もともとは朝霞で荒川に合流していたらしい。

事後課題より
見ることはかなわないが、目の前には河川。渡船場だったことを想像できない・・・
歩く、歩く、歩く
浮間渡船場跡の供養塔群 説明版

J2Mくん 失われる郷土の歴史
北赤羽駅から新河岸川沿いに600mほど歩いた場所に石碑があります。この石碑はかつて新河岸川で行われていた舟運で犠牲になった人たちを鎮魂するために設置されました。そして、現在新河岸川の周りには高い堤防(東京湾などから隅田川を経て遡上する場合があるため正確には防潮堤)が設置されていて川を直接見ることはできない。

事後課題より

J2Sくん 
羽田先生によると荒川周辺にあった大きな屋敷を水塚ごと解体して、堤防を作ったという歴史がある。その近くには荒川で起きた水難事故の犠牲者に対する慰霊碑も同じ場所にある。

事後課題より
もともと水塚があったところは工事中

J3Hくん 北区の水塚
昔荒川で事故があったときに供養塔を立てた。水塚を備えた、周辺のお金持ちの家も土地が買われ、マンションになりつつある。

事後課題より
新河岸川を感じながら歩く
新河岸川をみる
新河岸川をさらに歩く
荒川の旧流路!

 ここで面白い地点へ。荒川の旧流路だったというのです。特にその説明の仕方が面白かったです。電灯に注目してあるくと・・・

電灯① 「北区街灯」と表記あり
電灯② LEDになった!?
板橋区の街灯だ!!

 電灯の境目がありました!北区と板橋区との境です。しかも板橋区の街灯はLEDになっています!!この区堺近辺に、荒川の旧流路があったことについて説明がはいりました。現地でみて、説明していただき、「なるほど」と思う感動は忘れられません。そして一行は、住宅地へ。道路の微妙な高低差をチェックしながら、河川を考えて歩きます。

J2Sくん 荒川旧流路その2
川の流れとは違った変なカーブであった。住宅地の中に下水処理場がある。下水処理場は荒川の流路にある。下水処理場は住宅ができるよりも昔からあった

事後課題より
新河岸東公園案内図
道路をみて、高低差を確認

 駅前の一等地に下水道処理施設があるこの不思議!河川があったからこその施設であることを改めて考えさせられます。住宅の建設は、それに遅れてはじまるわけですね。川の流れによる土砂のたまり具合などについて解説を聞きながら、さらに住宅街を進みます。

J2Sくん 北区に残る水塚
ここは水塚があったが最近家が建ってなくなってしまった。しかし家と田畑が段差で区切られていて、田畑より1段家が高くなっている。これは荒川が氾濫したときに、家が浸水しないようにするためにこのようなつくりになっている。そして周囲にはこのような昔ながらの家の構造が多く残っている。

事後課題より
民家ゆえ写真を控えますが、住宅の高さがわかります
マンションの駐車場も、高くなっている!

J2Uくん 旧住宅地と新住宅地の違い
 古くから住んでいる人の家や神社、寺は他の部分より一段高い自然堤防の上にあり、家の敷地に小さい畑があり、家の部分に更に盛土がされていることが多いです。
対して新しい家は低い位置にあることが多いです。

事後課題より
駐車場がやはり高い!
この現状をメモに残します!

 そして戻ってきました。荒川です。やっぱり堤防が高くて、荒川を感じることができません。
 そして、参加者は狂います?
 なぜか階段を見つけると猛ダッシュ。解散直前のこのノリに、引率教員はついていくことができません。なぜかトレーニングと言って、往復する人たちも。
 元気な生徒たちです。

荒川沿いに復帰
なぜかダッシュ。しかも階段じゃないし。
階段をのぼると広がる風景
階段をふりかえると、のぼることを放棄した人たちが・・・
歩いてきた方面を振り返ると、堤防が続きます
浮間ヶ池へ到着

 最後に一行は浮間ヶ池へ到着。元は荒川の一部で、三日月湖だった場所です。浮間公園サービスセンターが平成26年1月に設置した看板には、次の地図が掲載されていました。荒川からはずれた三日月湖がはっきりと示されています。この名残に自分たちが立っていることを、現在の地図とあわせて考えてみると、とても不思議な気持ちになりました。

現地看板より

 そして、JR浮間舟渡駅北口で解散となりました。歩いた距離は16㎞ほどでしょうか。ひたすら一日かけて歩く河川の旅は、やはり面白い。
 事後課題として、二つの問いをグーグルフォームで聞き、回収しました。以下全文ありのままをご紹介しておきます。河川を見る新たな視点やそのまわりで生きてきた人の存在について、少しでも考えが深まってくれていればと思います。

Q1)全体を通じて、歩く前の河川のイメージと歩いたあとの河川のイメージはどのように変わりましたか。新たに学んだ視点を中心に記してください。

J2Sくん
事前講座で言っていたように近くにあるが遠い存在と言うとこを分かることができた。荒川と言う名前の通りとても曲がりくねった川だと思っていたが実際に言ってみると思ったよりもまっすぐな川であった。

中2Uくん
かつては人工物の多い川くらいにしか思っていなかったが、人工物が多いどころかほとんど人工で「人間の作った川」というイメージに変わった。

中2Sくん
歩く前は埼玉県辺りに流れる少しだけ大きい川で事前講義で羽田先生に見せていただいた流域面積最大になるときの写真も見たことはあるがそれほどイメージは大きくなかった。歩いた後は報告と感想の部分で書いた通り人の暮らしを守るために大きな堤防を見て感動した。普段、登校時に電車から見える川にもそういった人の暮らしを守る仕組みがあるのか川を見る視点が変わった。

J2Hくん
もともと河川には全く興味は沸かなかったが、スーパー堤防などを初めて知り、それがすごい開発ということを知って、堤防は守るためだけにあるものだと思ってたけれど、見方が変わった。

J2Sくん
いままでは荒川については名前だけで全く知りませんでした。なので「荒川ガチ歩き」は荒川の印象を180度変えました。
特に岩淵水門が上流から多くの水が流れてきたときに隅田川にいって下流で氾濫しないように、荒川放水路に流れるようにしているという役割を知って、岩淵水門は大都市東京を守るのに大切な存在だと感じました。

S2Iくん
川口に住んでいた時はあまり川の方へ行かなかったので想定浸水深があれほど高いとは知らなかった。安全そうに見えて大きなリスクを抱えていると感じた。

J2Tくん
河川が洪水することなど、身近になかったため、あまり興味がなかったが、昔から洪水の対策や、カスリーン台風を経てからの堤防の改革などたくさんの対策をとってきたことが分かり、イメージが変わった。今まで見ていなかったところを見たり、考えたりし、発見がたくさん見つかった。

J2Mくん
今まで河川は暗渠などある程度は知っていたつもりだった。しかし街の中に潜む自然堤防や排水をするためのポンプ場があるなかわざわざ水をとりいれる導水機場があること、付け替えに付け替えを重ねて作られた人口的な河川、東武鉄道と荒川の関係などしっかり目を凝らしていなければ絶対に気づくことのできない川が関わっている場所を新たに知ることができた。新河岸川に堤防ができてなお、かつての犠牲を鎮魂する石碑があることやたった一つの水門が都民の生活を抱えていることなど河川は現代になっても切っても切れない縁だということに気づいた。

J3Hくん
歩く前のイメージ
あまりきれいではなく常に濁っている(人工的な河川)か、極端に綺麗な清流(自然のままの河川)かの二択だった。河川敷ばっかり。
歩いた後のイメージ
河川敷はあまり少なく(バーベキュー場になっていた?)、主に堤防で挟まれていた。これは放水路ということもあるかもしれないが、最近の河川全般に言えることだと思う。

事後課題より


Q2)全体を通じて、羽田先生のお話の中で印象に残ったことを自由に記してください。

J2Aくん
荒川のこと以外にも周辺の地域のことなどをたくさん知っていてとても学ぶことがあり楽しかった。

J2Uくん
・新河岸川と荒川の複雑な歴史(複雑すぎてもう忘れかけ)
・スーパー堤防の理想と現実

J2Sくん
赤水門はイベントの時に簡単に開け閉めが可能だが、青水門は新しく出来て、重要な設備のため開け閉めをする許可がなかなか取れないという話を聞いて、荒川周辺の安全を守るための仕組みを後世に伝えるための講座や地理の授業の中で程よく組み込むことが出来るのではないかと考えた。

J2Hくん
新河岸川は人間が作った川で真っ直ぐに伸びており、合流する川まで変わったと言うことや、左右の堤防で役割が違うと言うことが印象に残った。

J2Sくん
一番印象に残ったことは、板橋区と北区の境目のところで、ここには道があってなぜこんなところに斜めに道が入っているかというとここにはもともと荒川が流れていてその川沿いに道ができてそれが残って今の道になっているからで、ここは板橋区と北区の境目になっています。
なのでちょうどここで街灯が変わっているのです。これが羽田先生のお話の中で印象に残ったことです。

S2Iくん
川口の元地元民だがマンションの話を聞いて驚いた。元地元民なので一番印象に残っている。

J2Tくん
一回の洪水で壊れたスーパー堤防の話や、大きなマンションの下の交通整備が整っていない理由。

J2Mくん
川口周辺の電柱にある想定浸水深が自分の想像しているよりも断然高く、改めて荒川が氾濫を起こしたときの被害の大きさに驚いた。また想定浸水深は引き上げられている場所もあると聞き、その原因が荒川を治めるために作られた堤防にあると聞き驚いた。

J3Hくん
荒川放水路もその周辺の支流も、人間がいじって(流れを変えて・多くは)出来たものだと話していた。人間が変えていいところ、変えてはいけないところを考えつつ、川についての勉強をしていきたい。

事後課題より

おわりに

 フィールドワークを通じて「河川」を考えるこの講座。今回は、新旧の岩淵水門を見て、新河岸川をさかのぼったり、荒川放水路を歩いたりすることで、人間によって改変され続ける河川を考えることができました。
 水害を防ぐために、堤防を高くし、結果的にポンプで内側にたまる水を排水する。一方で、水質を確保するために、水を導水機場に通して、また戻す。そして、200年かかると表現されるスーパー堤防の存在。
 人間と河川の関係は、まだまだ考え続けねばならない問題が多くありそうです。ある生徒の感想にある「人間が変えていいところ、人間が変えてはいけないところ」という一文が印象的です。「人間が変えてはいけないところ」をどのように位置づけていくか。災害や不測の事態が起こると、場合によって、想定通りには自然を抑え込むことができないことは明らかです。考え続けねばならない問題だと思います。
 最後になりますが、事前講義の段階からお付き合いいただいた埼玉県立川の博物館学芸員 羽田武朗さんにこの場を借りてお礼申し上げます。ありがとうございました。

*過去の荒川歩きの記事もぜひ!
荒川河口部を歩いた「荒川ガチ歩き」
カスリーン台風決壊地点を歩いた「荒川の瀬替えと堤防決壊地点を歩く」

*本実践は 、河川基金助成事業2024「研究者・研究機関部門」採択テーマ「歴史教育における河川文化探究授業の試み」によって実施させていただいたものです。


この記事が参加している募集