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荒川の瀬替えと堤防決壊地点を歩く   第4回 フィールドワーク報告


1)はじめに

 合宿1日目は、埼玉県立川の博物館に参加者全員で終日滞在。自由見学120分→学芸員講義90分+荒川大模型現地講義60分→振り返り60分というスケジュールでした。そして、合宿2日目は約16㎞を踏破。なかなか気合のはいったこの講座は、埼玉県立川の博物館学芸員・羽田武朗さんのおかげで成り立っています。2日目のフィールドワークの文章をまとめるにあたって、改めて大変な企画にお付き合いしていただいたことに感謝の念でいっぱいになりました。貴重なフィールドワークの記録です。

2023「河川と人間②ー荒川の瀬替えと堤防決壊地点を歩くー」
No.1  全体の流れと事前課題のこと
No.2 1日目 博物館での取り組み
No.3 【コラム】参加者生徒の視点で「合宿」紹介 
No.4 2日目 フィールドワーク報告 ← 今回はここ!
No.5 事後の感想

2)フィールドワーク内容紹介

 ここでは、事後に生徒たちに取り組んでもらった報告文を中心に、当日の写真とあわせてフィールドワーク内容を紹介します。


秩父鉄道 ひろせ野鳥の森駅 無人駅です
左奥にひろせ野鳥の森駅 線路に沿う大里幹線用水路

 朝9:00、秩父鉄道の「ひろせ野鳥の森駅」に集合しました。早速の解説場所です。駅前の大里幹線用水路。事後の報告文では、最初に説明していただいたこの場所をあげる生徒が多かったです。「扇状地」の中にこの地域を位置づけてお話ししていただいた羽田さんの話が印象的だったようです。

J3Kくん
熊谷付近は扇状地の末端(扇端)であり、扇頂の寄居方面から流れてきた土砂の影響により川が濁る。その結果用水路に土砂が流出して田んぼに悪影響を及ぼしてしまう。このような土地であっても先人たちは努力を重ねて田んぼを守ってきた。

J3Nくん  
フィールドワークの始めの地点にあった、江戸時代に作られた用水路である大里用水についての解説をいただきました。用水路に流れていた水はフィールドワークの後半に見た元荒川の水と比べ、かなり濁っていました。このことから、本流である荒川も濁っていることを示しており、また地理的な要因を知ることができました。これは荒川によって運搬されてきた土砂が堆積したことで造られた扇状地の特徴が関わっています。水捌けがよく、米作りには元々適していない土壌でありましたが、何とか稲作を行うため、江戸時代の人々が半ば無理矢理用水路を沢山設けたことが分かります。用水路に目を向けることで当時の人々の生活や時代背景、考えていたことが垣間見えるのは、非常に興味深い内容であった。また、今まで歴史や地理、地学などの座学で得た知識を活用し、その土地を読み解くことができたということも印象的でした。

事後課題より

 ここだけを個人で歩いても、「扇頂」「扇央」「扇端」を意識することはなかったはずです。幸先の良いスタートをきりました。寄居町は、扇状地の開始地点とのことでした。そうこうしているうちに、一行は蒸気機関車を目撃することに。こちらは第三回で鉄道好きが原稿を書いてくれていますので、そちらをご覧ください。

歩く、歩く、歩く・・・
ちょうど出発する時間に立ち会いました
おお~
見守るひとたち

 次に、荒川に今も残る貴重な陸閘(りくこう)です。生徒たちも多くの報告文を書いてくれていました。

J2Kくん 大麻生陸閘
 荒川の中で唯一の堤防がないところだと聞いて、それほどここは重要なところなんだな、と思った。次の点に関心を持った。
・この場所は荒川の中で唯一堤防がないところである。
・ここに堤防がない理由は、埼玉県の県事業として荒川の川の石を売るためにこの場所を川の石を運ぶための荒川内と堤防の外側を結ぶ大事な場所だった。
・この堤防は洪水時に木材を使って臨時に堤防を作る。また、木は水の圧力に強いため、ある程度の強度は持っている。

S1Nくん 大麻生陸閘
最初見た時に、浸水などの被害を床下浸水までに抑える為かと思っていたが、昔の川石採集という利益を求めて開かれた陸閘と言う点、大洪水時の陸閘の閉鎖は周辺市民の連携によって成り立っている点、荒川の陸閘はこれしかない点に関心をもった。

J2Iくん 大麻生陸閘
堤防がでこぼこになっている理由に関心をもった。ここ周辺の荒川の堤防はでこぼこであり、耐久面で他のところより劣っている。令和元年の台風では、ここが堤防破壊の警報が来ていた、ということを知ってここが本当に安全なのかとても心配になった。また私の疑問である、次どこを工事するのか、という質問に対して、ここが工事されるのでは、と考えた。

J3 Iくん  大麻生陸閘
荒川で唯一の堤防が切れているところ。役目を終えた今も埋められずに残っていることに驚き。

事後課題より


こうやって保存されていることに驚き
貴重な土木遺産です 大麻生陸閘

 インパクトのある遺産でした。生徒たちが記録してくれている通り、砂利採取船との関係から、トロッコで砂利を運ぶために堤防をつくらないでください、との訴えがあったことに驚きました。
 民間営業ではなく、県の事業として採取していたことも生徒たちにとっては印象的だったようでした。戦後の復興期までは積極的に採取されていたことに驚いていました。
 なお、今の堤防があるからこそ生じている問題もあるとか。川の中だけに上流から運ばれてきた土砂がたまってしまっているということでした。そのため、今の荒川は、今の熊谷駅よりも高い所を流れているという話を聞きました。このあと歩くことで、さらに実感できることになります。

歩く、歩く、歩く、歩く・・・

 次は、荒川の広大な遊水池を体感しました。「河川」が見えない・・・。ゴルフ場あるし、公園だし、、、。ただ、この場所が、江戸時代は人が住んでおり、肥沃な農地であったことを聞きながら歩きます。なんでも、中のコメは、外のコメよりもおいしいとか。河川の流れによって運ばれる、肥沃な土の偉大さを感じます。


ここだけ切り取ると、普通のゴルフ場ですが、遊水地の機能をもつのですね。
右奥には教習所。河川にある教習所ですが、こちらも非常時には遊水地の機能。

 教習所前の地形をみると、堤防の高さが違うことに気づきます。堤防が建設途中であることを確認できます。
 ここで、一時荒川土手沿いから離脱です。熊谷駅方面を目指します。


下ります、下ります


少し歩くとそこは、秩父鉄道の上熊谷駅

 「上熊谷駅」に到着。目的は、昔の堤の名残の見学にありました。踏切に高崎線が開業したころの名残がありました。

第四熊谷堤踏切
目の前で切れている・・・
間違いない
一同、お~

 今まで歩いてきたところが、荒川の河川敷にあたることを実感できるタイミングでした。元々は家もなかった??熊谷駅の南口は荒地からスタートした場所であることや、養蚕のための桑が植えられたことなども説明していただきました。
 東武熊谷線の線路跡も!
 石に着目すると、種類が違うことに気づきます。川原石だ!

解説がなければ、石の種類まで注目できなかっただろうなあ・・・

J3Aくん 石上寺・北条堤
昔の堤防がいまだに地形や地名として残っており、それを実感出来て良かった。 熊谷堤が昔は別の場所にあったということに驚いた。

事後課題より

そして、さらに一行は歩みをすすめます。昔の堤をさらに想像します。

真言宗智山派星河山石上寺  「星河山」という名称が素敵
どんな地形かよく分かるカット①
どんな地形かよく分かるカット②

石上寺は、荒川の石を持ってきて建てた寺です。

中2Iくん 星渓園
荒川が昔氾濫したときにどれだけ遠いところまで水を運んだかよく分かったため印象的だった。星溪園の中にある池は荒川が氾濫したときに水が引ききらなかったためにできたことを学んだ。(荒川からの距離は体感でかなり遠く感じた)

事後課題より

 なお、ここでさらにブラタモリ的問いも。「水があるのは何で?」
「地下水といえば・・・」「扇状地とつなげて考えると・・・」
 このあたりで湧いて出ていることを聞き、スタート時の「扇端」「扇央」「扇頂」の関係が思い出されました。地理で学んだ「水はけがよい、水はけが悪い」といった知識として覚えたことが現地でつながっていきます。
 そして、星川の水源にもなっていることを聞き、元荒川は地下水が豊富だったことを学びました。久下は、昔は湧水が豊富なところだった。地下水が枯れてしまった理由は・・・?先ほど、うかがった砂利採取の話につながっていきました。

星渓園の水
星渓園案内板
星渓園にてしばし座り込む面々

星渓園をあとにして、住宅街をすすみます(今の荒川方面に戻ります)。

奥まった先に現在の桜堤が見えます。

そして、現在の熊谷桜堤を見ながら歩きました。このあたりの解説は、以下の生徒が端的にまとめてくれています。

J2Yくん 万平公園に残る荒川の旧堤 
現在の堤防と昔の堤防でここまでの差があるとは思っていなかった。昔の堤防は主にの熊谷駅付近にあった宿場を守るために作られたものだったので、現在の堤防よりも熊谷駅に近いところにあったが、現在の堤防は改良を重ね昔のものよりも高く、川に近いところに作られている。よって今も川幅日本一の川と言われている荒川だが、昔のほうが断然川幅が広かったのである。

事後課題より
熊谷桜堤。桜の時期にまた訪れたい。
万平公園

 万平公園でお昼ご飯。ここで衝撃的な光景を目撃しました。
酷暑に苦しみながらのお昼休みでした。暑さを受け入れながら歩いていました。きっと疲れているだろうと思っていた参加者たち。
にもかかわらず、食事をとれば、なぜか公園の遊具で遊んだり、走り回ったり。
 引率教員は彼らのエネルギーの使い方にただただ、呆気にとられました。

 公園には、養蚕の碑もありました。一面に桑畑が広がっていたことを再度考えさせられました。また、地形を見る視点を学びます。羽田さんから「ローソン前の道路が斜めになっている理由は?」との問いかけが。
 元々の堤防は元々カーブしていたことを学びます。
 そして住宅地を歩き、さらに過去の人々の生活と河川の関係を考えます。

江戸時代の堤だ~
養蚕碑 お蚕さまのオブジェ
この右にローソンがあり。写真中央の道が、近隣の道とは異なり、不自然な角度に走る道
写真を大分カットしてしまいましたが、ここを目指していました。元荒川の源流!?

J2Iくん 旧荒川から水が出てくる理由
荒川では、伊奈忠治が荒川の道路を変え、元の路を旧荒川とした。こと荒川は、地下水によって路を変えた後も流れ続けていたが、人間がセメントの材料となる砂利を大量に採取した結果、水脈が壊れ地下水が旧荒川に流れず、枯れてしまった。そこで地域の人々が、もっと深い地下水を汲み上げ、旧荒川を復活させたのだ。地域の人々の想いが伝わってくるし、川を綺麗にして絶滅危惧種のムサシトミヨも一部ではあるが復活させだことを知って、とても感動した。

J2Iくん 元荒川の(法律上ではなく、実際の)始まりが自分の家の裏にもあるような乾いた用水路だったことに非常に驚いたから。とくに前日の講義において「現地で見てみましょう」と詳細は明かされていなかったのでなおさら驚いた。元荒川の始まりは乾いた用水路だったことを学んだ。

事後課題より

S1Nくん 元荒川の源流
元荒川の源流が雨や雪でないと流れないのに、その後の川は水が出ていたところに関心をもった。元荒川の源流は川石の過剰採集による地下水の枯渇により、常時流れる物ではなく雨や雪の時のみ、流れる事を学んだ。

J3Aくん 元荒川の源流
元荒川の源流には水が一滴もなくて驚いた。もしかすると意外とただの水路と思っていたところも川の源流なのかもしれないと感じた。

J3Iくん 元荒川の起点 U字構みたいでひどいなと思った。

J3Hくん 
元荒川の水源は奥深くの地下水を組み上げてその水を元荒川に流していた。
元々は荒川を瀬替えした時は地下水が水源になっていたが荒川の砂利を取りすぎてしまったため地下脈が壊れてしまい水源が失われた。いまはなぜポンプで吸い上げてまで元荒川に水を流しているかというと、埼玉にしか生息していない魚、ムサシトミヨを守るためである。

事後課題より


ムサシトミヨが生息する場所。枯れてしまったので、もっと低い地下からくみ上げ、その水を流しているとのこと。だから水が今もきれい!!
熊谷市ムサシトミヨ保護センター
元荒川ムサシトミヨ生息地案内板
元荒川の水草 キショウブ
再びの紹介。ここが、元荒川のもと! 一級河川だから国の管理!?
この風景が好きです。昔はどうだったのかなあと考えることが。
値うちある 元荒川 起点の碑
きれいです!
橋の名前は「帰帆橋」でした!

さらに住宅街を歩き、ここで、再度現在の荒川堤防に復帰です。
このあたりで、羽田さんから質問が。

「今の荒川にあって今の利根川にないものは?」
「今の利根川にあって今の荒川にないものは?」

今の荒川にあって今の利根川にないものの答えは、沈下橋(冠水橋)。
利根川は水量が多いからね。
今の利根川にあって今の荒川にないものの答えは、渡し船。
河川の違いも面白い。

なお昔の荒川では、熊谷で旗をあげると渡し船が来てくれた、とのこと。

そして、舟運が鉄道によって廃れることが予測できるようになるタイミングで、桑の木が植えられるんですね。さっきの桑の木や養蚕文化がここでもつながっていきます。

のぼります。のぼります。

ここで出会うのが、さきほどの「久下の渡し(冠水橋)」です。
看板より引用してみます。

ここに「思いやり橋」と呼ばれた久下冠水橋がありました。春は菜の花、秋にはススキを見ながら、人も自転車も車ものどかに渡りました。車一台やっと通れる橋。車は対岸を確かめ、あうんの呼吸で渡りました。
幅2.7メートル、長さ282.4メートル、制限重量3トン。中央部99.4メートルの区間は巾4.5メートルの待避所あり。4種類不揃いな44本の橋脚。ムカデに似た貴重な冠水橋でした。
昭和30年県道・冑山熊谷線として大里と久下を結んで架設され48年間、地元の生活道路として利用されました。平成15年6月の新久下橋完成とともにその役目を終えました。

現地説明板より
久下の渡し 冠水橋
熊谷方面をのぞむ
堤防に復帰です。暑かった~。
こんもりしている所は昔の屋敷林

ちなみに屋敷と水田のセット関係について確認した上で、荒川は水がすぐ近くにあるのに、「水を汲めない」という衝撃的なお話が。
その理由は、「断崖だから」
水田の水は、電動ポンプでくみ上げて流しているとのこと。先人の生活に思いをはせつつ、別の土地にうつらざるを得なかった人に思いをはせつつ、荒川と水の不思議な関係について考えさせられました。

田んぼがあり、電気が通っていることがわかります。
「車だ~」との声。今も、河川敷の中に生活があることを考えさせられます

このあたりで印象的な話をききました。
元々このあたりに住んでいた方によると、秩父の方角をみて、雨が降っているようだと3日後に、このあたりでも雨が降る可能性を読み取っていたとのことです。その情報をふまえて、家屋の1階のたたみなどを片付けるご家庭もあったそうです。「洪水は当たり前」との認識で住み続けていらっしゃったそうです。「堤防を作ることで、洪水がさらに増えます」とのアドバイスでも住み続けたそうですが、カスリーン台風の水害によって生活を断念せざるを得なかったことを語られている方がいらっしゃることを聞きました。生活者の知恵と生活の限界。いろいろと考えさせられます。

S1Nくん 堤防沿いに整然と立つ家
堤防の作成や、荒川の洪水による浸水等により退去をお願いされたひと達が住んでいる所が一目みて分かるところに関心をもった。現在河川敷にて住んでいる人は殆ど居ないが、それは川の計画に乗っとって仕方のない犠牲になってしまっていた事を学んだ。

事後課題より
住宅がないようにはみえないほど、水田でした。

J2Iくん 堤防の中に田んぼ
堤防の中を見ると、時折田んぼが見えてくる。これは、つい5.60年ほど前まで人間が内側で暮らしていることを示している。堤防の中はとても肥沃で、堤防のうちとと外では味が大きく変わるらしい。しかし、大正時代の荒川の改修やその後のカスリーン台風で人が全て出ていってしまったのだ。家だけがなくなり、電線や田んぼが昔のまま残されているのをみて、少し寂しく感じた。

事後課題より
八丁の一里塚跡
決潰の跡 碑
案内板をもとにカスリーン台風決壊の全体像について説明を聞きます
周辺でいまも続く!工事
説明版より。GHQの占領下であったことを改めて考えさせられます
決壊情報が地図の中に記されます。以下に甚大な被害を与えたか。

カスリーン台風によって、利根川も決壊し、家康の瀬替え前の元の流れに水が流れた、との話が印象的でした。人の力で変更しても、元の自然に戻ろうとするのだなあ。人と自然の関係について改めて考えさせられる事例です。

J3Aくん カスリーン台風時の荒川堤防決壊地点
江戸時代以降、荒川の堤防が決壊したことがないと思っていた。他の川も決壊することがあると感じた。

J2Iくん カスリーン台風時の荒川堤防決壊地点
荒川の堤防の今の課題?が分かった。カスリーン台風で堤防が決壊したあともともと荒川が流れていたルートに溢れた水が流れていったことと、カスリーン台風とは直接関係はないが荒川の堤防の高さや太さが地点によって違うことと、その堤防の高さが東京方面のほうが若干高いことなどを学んだ。

J3Iくん カスリーン台風での堤防決壊地点
カスリーン台風以降で荒川の堤防が決壊したことがないということは凄いなと思った。

事後課題より

3)おわりに

 解散場所は、行田駅西口でした。解散後、ぐったりして帰宅した生徒がいる一方で、「フィールドワークのおかわり」に参加した生徒もいました。「探究心」大したものです。

おつかれさまでした!

以下に「フィールドワークおかわり」を写真で紹介。瀬替え前の荒川本流を見に行きます。今までの荒川を歩いてきた身としては、なぜか悲しくなる濁った川です・・・。

フィールドワークおかわり 暗渠!
フィールドワークおかわり 暗渠!!!
フィールドワークおかわり ひたすら残された川沿いを・・・
フィールドワークおかわり 川沿いを歩く、歩く
フィールドワークおかわり 歩く、歩く、歩く。水が汚いのは雨水だから。
フィールドワークおかわり 戻ってきました
フィールドワークおかわり 駅前の暗渠の上には定番の駐車場
行田市と熊谷市にまたがるんですね

 最後になりますが、猛暑のなか、貴重なフィールドワークにご協力いただいた埼玉県立川の博物館学芸員の羽田武朗氏に改めて、この場を借りてお礼申し上げます。

No.5 事後の感想 につづく。

*本実践は 、河川基金助成事業2023「学校部門(河川教育助成)」採択テーマ「博学連携で考える河川文化の探究授業研究」によって実施させていただいたものです。