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戦後のドイツ首相コンラート・アデナウアーとルクセンブルク協定

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はじめに

上の写真の右端に注意。若かりし頃の中曽根コンラート・アデナウアーといる。

このnoteは8割、日本語のウィキに書かれていることを整理しただけ。買わなくてもウィキ読めばだいたい分かる。中曽根と戦後の日本の立ち位置を理解するため、戦後のドイツ首相コンラート・アデナウアーの立ち位置を調べたもの。

検索すれば極悪人が偉人になっている。

中曽根康弘平和研究所

中曽根平和研究所 設立30周年記念式典

コンラート・アデナウアー財団(KAS)

こんなのばっかだよ!

コンラート・アデナウアー

コンラート・ヘルマン・ヨーゼフ・アデナウアー(1876年 - 1967年)は、ドイツの政治家。西ドイツの初代連邦首相を1949年から1963年に亘って務めた。また1951年から1955年には、外相を兼任した。戦前はドイツ中央党に属し、戦後はドイツキリスト教民主同盟(CDU)の初代党首。欧州連合の父としても知られる。

ナチス・ドイツ時代

1933年1月、アドルフ・ヒトラーが首相となる。ヒトラーは1933年2月17日、ケルン市を訪問するが、アデナウアーは、ヒトラーを出迎えなかった。また、アデナウアーはライン川の橋に架けられていたナチス党の鉤十字の旗の撤去を命じる。アデナウアーはケルン市長として、市議会で自身の意見をかなり強引に通し、多額の税金を公共事業に使用しており、その当時としては多額の報酬を得ていたことから市民の反感を買っていた。当時ナチス党が優勢であったため、アデナウアーの周辺から人が離れていった。同年3月5日の選挙は、ナチス党の勝利に終わり、ケルン市の市議会もナチス党が議席の大半を占め、アデナウアーは窮地に立たされ、報復を警戒したアデナウアーは3月13日、ベルリンへと出立し、ヘルマン・ゲーリングにナチス党に反抗する気はない旨を伝えようとしたが、効果は上げられなかった。そして、アデナウアーは1933年4月4日、ケルン市長を罷免される。

ヘルマン・ゲーリング

第一次世界大戦でエース・パイロットとして名声を得る。戦後の1922年にアドルフ・ヒトラーに惹かれて国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)に入党。ドイツ空軍総司令官であり、軍における最終階級は全ドイツ軍で最高位の国家元帥。ナチスの最高幹部で総統アドルフ・ヒトラーの後継者であった。

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