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道徳再武装運動(MRA)とKCIAと統一教会

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先に入門・基本編を先に読んだ方が良いかも?こちらのnoteは大きなところから統一教会の謎を解いていくシリーズ。あらぬ所に話が飛んでいき、最後に統一教会に話が戻る、旅に出た気分。1月の連載かな?(笑)

はじめに

上は統一教会関係の写真ではない。道徳再武装運動(MRA)の小田原世界大会の会場の写真だ。写真は見つからないが大平総理もいたという。道徳再武装運動と統一教会の教義は実は同じなのだ・・反共産主義のキリスト教。共産主義と戦うキリスト教で、活動すればするほど社会は共産主義社会に近づくこの不思議!😅

シュワブはまるで乙女のようにキッシンジャーに付きそう。キッシンジャー先生を大尊敬し大好き!❤️

1980年1月、スイス/ダボス - 世界経済フォーラムの前身の欧州経営シンポジウム。ヘンリー・キッシンジャー元米国務長官、クラウス・シュワブ、エドワード・ヒース元英国首相。WEF

世界経済フォーラムとヤンググローバルリーダーズを調べていたら、中曽根つながりで道徳再武装運動と統一教会の調べになってしまった。

中曽根はキッシンジャーよりも5歳年上なので、あり得ないと思ったが、調べてみると中曽根はキッシンジャーが主催する「ハーバード大学国際セミナー」の生徒だった。これはクラウス・シュワブが設立したヤンググローバルリーダーズの前の、キッシンジャーのヤンググローバルリーダーズみたいなもの。


1.中曽根康弘とキッシンジャー

中曽根康弘は日本に新自由主義を導入した政治家である。靖国参拝をする「愛国右翼」であり、アメリカの支配層であるユダヤと深く結びついている。リンク

その頃、中曽根はすでに政治家の中で「大物」になっていたが、権力の階段を本格的に上り始めたのは『道徳再武装運動(MRA)』との関わりを持つようになってからである。この団体はCIAと深い関係を持つ宗教団体であり、岸信介三井高維も参加していた。中曽根はそこでヘンリー・キッシンジャーを含む外交問題評議会(CFR)のメンバーと知り合い、1950年6月にはスイスで開催されたMRAの世界大会に出席している。(注:三井高維も重要で後で説明)

下:1988年1月 中曽根康弘元総理・キッシンジャー元国務長官対談(上も同じ場所かな?)

隠して無かったのね!😅

中曽根は1953年にキッシンジャーが主導していた「ハーバード国際セミナー」のサマー・スクールに参加していた。このセミナーはロックフェラー財団やフォード財団の支援を受けており、CIAとも関係があった。

当時、キッシンジャーはハーバード大学の大学院で学んでおり、1954年に博士号を取得した。翌年、ネルソン・ロックフェラーの支援を受けて、キッシンジャーはCFRの核兵器と外交政策に関する研究グループのリーダーに選ばれた。

wiki

ほどなくしてキッシンジャーは情報分隊(後の対敵諜報部/CIC)に配属され、1946年までその職にとどまるそこで彼は、ひたすらユダヤ人の味方であるCIA長官アレン・ダレスに誘われ、設立準備中の機密破壊工作機関OPCで働くようになった。

アレン・ダレス

彼の最初の任務は、ハーバード大学での新組織のために活動する外国人学生をリクルートすることだった。彼が「ハーバード国際セミナー」の責任者となったのも、そのためでもあるのだろう。

リクルートされた?

中曽根と道徳再武装運動(MRA)

右に座る: ドイツキリスト教民主同盟の初代党首アデナウアー首相
左から北村徳太郎議員、福田篤泰議員、青木三重県知事、中島勝治氏、中曽根康弘 議員。(後ろのメガネの情報は無し)

『キリスト教民主同盟』この名前の超〜〜邪悪さ!

理想はスイスだが、現実はドイツだ

| 第39回| 政治学者 小枝 義人

中曽根康弘

昨年11月に101歳で逝去した中曽根康弘は、総理として日米同盟を基軸に英 仏独とも連携してソ連に対峙した。 中曽根外交は、日本の国際的地位を確 立したとして長く語り継がれるであろう。その淵源は、敗戦とその5年後の初外遊にあった。

中曽根は大正7(一九一八)年、群馬県 高崎市の材木問屋に生まれた。東京帝国 大学卒業後、内務省に入るが、先の大戦で は海軍主計中尉として南方戦線に赴き、 米国との彼我の差を痛感している。戦後 間もなく旧群馬3区から国政に 転じた中曽根は、国際社会の中 日本はどのように振る舞うべ きか、摸索する日々を送る。 そんな折、昭和25(一九五〇) 年夏、スイスに本部を置くMRA(道徳復興運動)が募集した 2カ月に亘るスイス独仏英米5 カ国外遊に代表団の一員として 参加した。その様子は中曽根が 地元紙上毛新聞に航空便で送 った寄稿文が随時掲載され、今世紀初頭に出版された「1950年の世界一周」にも詳しい。 占領下での海外渡航は稀有の機会であ り、当時、中曽根は32歳だった。

ワシ:復興と誤魔化している、正しくは武装運動だ

最初の訪問国はスイス。現地報道陣との会見 で「われわれの理想はスイスだが、現実はドイツだ」と語り、占領下での日本の立場を端的に説明した。 ハンブルグ郊外の 東西ドイツ国境線を見学した際、そこに立つソ連兵の姿を見て米ソ冷戦を実感する。西ドイツ首相のアデナウアーは中曽根の胸に輝く「日の丸」のバッジを見詰め、「日本とドイツ再建は青年の力にかかります」と励ましたという。

西ドイツ首相のアデナウアー   フランスの外務大臣のシューマン

フランスでは、外務大臣のシューマンから聞かされた「国境を取っ払う」 欧州統合構想に感銘を受けた。石炭と鉄鉱石を無関税とする緩やかな経済統合体を、やがて欧州統合に導くという夢のようなアイディアだったが、今日、彼は「欧州連合の 「父」の1人に数えられている。 イギリスは議会制民主主義発祥の地。議会を傍聴すると「非常に紳士的で反対党の意見も十分尊重している」としきりに感心している。

アメリカでは、大物上院議員のタフトコナリーとの意見交換から、講和条約と占領終了を察知した中曽根は、帰国後に占領政策の詳細な報告を送ることを約束した。同時に摩天楼のニューヨークを歩き、「物質文明の極度の発達」と「開放的で非常に自由な世界」を感じたという。中曽根の知見は大きく広がった。 帰国 後3カ月に亘り、群馬県内を中心に帰朝の報告会を開催、延べ5万人の人々が聴いたという。この外遊こそ中曽根外交のルーツと呼べるものだった、と筆者は確信している。

日本の旅 1950 年にコーを訪問した日本代表団の旅
(スイスのコーに道徳再武装運動の本部がある)


2.三井高維と道徳再武装運動

学校法人啓明学園は東京都昭島市に本部を置く学校法人。キリスト教主義・プロテスタント自由主義神学

概要

国際教育を理念に掲げ、数多くの帰国生・外国籍生徒を受け入れている。
1940年:東京都港区赤坂台町において啓明学園小学校の創立が許可される。三井高維邸を校舎として、入学式が行われる。

学校法人啓明学園

三井高維(1901 - 1979)は、三井家の総領家第10代当主・三井八郎右衞門こと三井高棟の三男に生まれ、1924年に東京帝国大学経済学部卒業後、銀行勤務、東大大学院を経て、1933年渡英。オックスフォード大学の研究生として海外生活を送るなか道徳再武装運動に触れ、提唱者であるメソジスト牧師フランク・ブックマンより洗礼を受ける。1938年に帰国し同運動の日本支部設立、1940年に海外在勤者の子女教育を目的とした「啓明学園」を創設し、寄宿教育を始めた。

学校法人啓明学園
啓明学園高等学校 啓明学園中学校 啓明学園初等学校 啓明学園幼稚園

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卒業生
オノ・ヨーコ - 芸術家・音楽家 ビートルズの故ジョン・レノン夫人

三井家とは?

啓明学園 創立者『三井高維』

三井家の家伝によれば、藤原道長の六男である藤原長家近江源氏六角氏の子孫を自称する商人および華族の家系。江戸時代の豪商、三井財閥の創設者一族として知られ、宗家と二つの分家は華族の男爵家にも名を連ねている。

歴史

織田信長の上洛によって六角氏とともに三井氏は逃亡し伊勢津付近の一色へ移り、その後、松坂近くの松ヶ島に居住するようになったとされる。同じく「高」を通字とする藤堂高虎も親族とされる。

江戸時代前期

慶長年間には高安の子である高俊が武士を廃業して、松坂に質屋兼酒屋を開き、商人としての三井家が創業された。屋号の「越後屋」は高安の受領名に基づく。

藤原➡︎三井家➡︎越後屋


3.道徳再武装(MRA)とは?

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