摺りきれませんように
職場の椅子から立ち上がった瞬間、その予感はした。周囲には絶対に無音だったはずだが、私の耳にだけは何かが弾けるような音が聴こえた気がした。はじまりを告げるファンファーレは思ったよりも無慈悲で乾いていたが、"彼女"との再会を予感させるにはあまりにも鮮やかな音色だった。
彼女と初めて出会ったのおよそ10年ほど前。出会いのきっかけもあまり覚えていないが、彼女はずっと機嫌が悪く私は扱いに困っていたことだけは記憶に残っている。刺激しないように常に気を使う生活は窮屈で、外を歩くのも腰が引けた。運動にも及び腰になったが、1週間ほど経ち、知らぬ間に彼女はどこかへ消えてしまった。
彼女にはドイツ由来のあだ名がある。「Hexenschuss(ヘクセンシュス)」と一見クシャミのような間抜けな響きだが、日本語にすると「魔女の一撃」という意味をもつのだそう。正直、魔女と呼ぶには、あまりにも容赦がない存在だが、その中二病的ネーミングには悔しながら心が踊ってしまう。
そんな彼女が唐突に戻ってきた。けれど仕事中は辞めてほしかった。業務の腰を折るな。突然のことに腰を抜かして驚いた私は、そのまま中腰の姿勢を保ちながら静かにお手洗いに向かう。傍から見れば狂言師のような摺り足と移動速度であることは自覚していたので、「そろりそろり」と声に出しかけたが辞めた。職場で突然野村萬斎を模倣しだす男は、あまりにも"狂"言すぎる。本職を捨て、伝統芸能に本腰を入れ始めたと思われてしまう可能性が高い。
しかし私にはわかる。確かに痛みはあったがこれはまだ100%ではない。動ける。魔女というほどではない。しいて言うなら、おジャ魔女レベルだ。刺激しなければ大丈夫。いける。仕事は腰砕けになったが今日はこれで終了としよう。もう一度腰を据えて仕事に邁進し、帰路についた。
帰宅後、外から持ち込んだ黄砂の影響か、やけに鼻がムズムズする。
ムズ…ムズ……
ヘッ…
ヘッ…
「ヘクセンシュス!!!」
ピキィィィッ!!!!!
おジャ魔女は魔女に進化してしまった。一撃を食らわせた彼女は、意地悪で不気味な笑みを浮かべている気がする。そんな彼女に、私は逃げ腰になってしまう。
なにやら急に騒がしくなってきた。おジャ魔女どもが摺り足で「ぎっくりぎっくりgin gin!!」と騒いでいる横で、野村萬斎もやはり同じ姿勢で「ぎくりぎくり」と声を張り上げている。自宅なのに腰を落ち着けられないのがこんなに辛いとは思わなかった。日頃の報いだろうか。彼女が消え去るまで、事を荒立てぬよう腰を低くしておこう。そして当面の間、床に落ちたものは拾わずに摺り足で生きていくしかないのだ。
