手料理=愛情 だけど 手抜き=愛情 でもある。
「子どもが小さいころの、楽しい記憶がほんとに少なくて――」
義母がポロリと漏らした言葉に、私は心底驚いた。
義母は子どもが大好きな人である。結婚する前は保育士をしていたし、孫(私にとっての子ども)を連れて遊びに行けば、ニコニコとおままごとに読み聞かせに何時間でも付き合ってくれる。
その義母が、「子育てが楽しくなかった」のはなぜなのか?私は義母の話に耳を傾けた。
夫と義兄が幼いころ、義父は仕事で忙しく、ほぼ全ての家事と育児は義母がこなさなければならなかった。
「自分がやらないといけない」と毎日食事を作り、部屋をきれいに保ち、洗濯を畳んで何とか一日を終えた。
義母の話を聞いて、彼女のしんどさが胸に染みた。
義母は車を運転できない。そして、夫と義兄は幼いころ相次いで入院・長期通院が必要な状態だった。(今は二人ともめっちゃ元気)
自転車の前と後ろに子どもを乗せて、ゆらゆらと揺れながら暑い日も寒い日もペダルを漕ぐ小柄な義母を想像したら、何だか泣きそうになった。
「本当は、完璧になんてしなくて良かったの」
義母の話は続く。
「洗濯だって畳めない日があったってよかった。部屋がぐちゃぐちゃだってご飯だって作れない日があったってよかった。無理にこなすもんだから、きっと夫も大丈夫だと思っちゃったのよね~」
「だから、完璧にやらなくて大丈夫!やれる人がやれば良いし、頼れるものには頼れば良いのよ」
義母はそう言ってくれたけど、今でも自分の時間や睡眠時間を削ってでも子どものために尽くすことがよい母だ、みたいな文化が日本ではちょこっと残っている気がする。
たとえば、
手料理=愛情
手作りの通園グッズ=よいお母さん
自分の趣味にでかける<家事をする
子どもにスマホを見せる=どんなときでも悪
などなど。その人ごとに抱えている、方程式がいろいろあると思う。
そして自分と異なる方程式の人をを見ると
「え、何なの?母親なのに料理しないの?」とか、「電車の中で子どもにスマホなんて見せて」と他人のことなのにいらだったりする。実際にネットではしばしば炎上している。
でも本当は、父親が料理したって子の発育には何の問題もないし、たまたま電車の中で見せていただけで家では全くスマホを見せていないかもしれない。
私も子育てをしながら、他の人のことを「あの人スマホ見せてるな」とか「あの家族は外食ばっかりしてんな」とか色々思うことがあった。(まじで余計なお世話だけど。)
「子どもがかわいそう」「お金かかるのに」などと心の中では否定的なことを思ったりもした。
でも、本当にそうなのだろうか?一体何がかわいそうなのか?外食にお金をかけることは悪いことなのか?
突き詰めて自分の中で考えてみたら、多分、心の底では羨ましいだけだった。
「私はスマホ見せずに、がんばってるのに!」とか「私は外食せずに、作り置きして節約してるのに!」とか。
手抜き=悪
という方程式が私の中にはなぜか存在していたみたいで、自分で自分をがんじがらめにしていた。
私は子どもが生まれて育休に入ってから、離乳食はほぼ手作りしていたし、夫には毎日お弁当を持たせていた(詰めていたのは夫だけど)
ところが、子どもが1歳になるころ、その生活が苦しくなってきた。
その時期夫は仕事が忙しく、土日も不在のことが多かった。
やっと夫の休みがとれても、週に1日あるかないかの休みに合わせて買い出しして、大人の食事と離乳食の作り置きをすることで、家族みんなで過ごす時間はほぼなくなってしまう。
じゃあ平日に作れば良いじゃない、と考えてみたものの、当時の娘は後追いがマックスだった。しかもなぜか昼寝もなかなかしてくれない。
それまで「料理は何が何でも作らねばならぬ」と謎の使命感にかられていたが、生活が回らないな、こりゃ、と私はついに白旗をあげた。
しかし、正直自分のキャパが狭いことを認めるのはすんごくしんどい作業だった。
インスタには、フルタイムで働いていてかつ素敵なご飯を作っている人の写真がずらずらと流れてくる。
朝4時に起きて子ども3人分のご飯とお弁当を作ってます★みたいな投稿を見て「っはー!」ともう感嘆の声が漏れ出てしまう。さらにTOEICの勉強なんてしてたらもう、崇拝するしかない。私なんて育休中ですし……。
そんなこんなでサボろう、手を抜こう、と決意しても頭の中に顔の見えない誰かの声が響く。
「夜中に作れば良いじゃん」
「朝4時に起きて私は作ってるのに」
「仕事してないくせに、子どもも一人しかいないくせに、何甘ったれてんの」
実際に誰かに言われたわけではないのに、いつだって自分より頑張っている人と自分を比べて、謎の罪悪感を抱いてしまう。
自分は恵まれている、と自分に言い聞かせて、私だって自分の時間や睡眠時間を削ればできるはずだよな…と何とか作り置きを続けていた。
手抜き=悪の方程式がなかなか消せなかった。
しかしある日、娘が癇癪を起した際に、自分でも抑えられないくらいにカーっとなっている自分に気づいた。まだ1歳の娘に「いいかげんにしてよ!」と大きな声で叫んで、自分の声ではっと我に返った。
こんなにも小さい子に、こんなにも可愛い子に腹が立つなんて。私は確実に余裕がなくなっていた。
私は、インスタに存在するスーパーマンみたいなお母さんにはなれそうもなかった。普通に7時間くらい寝たいし、たまには自分の時間も欲しい。
そんなポンコツな自分を認めて、夫の仕事が忙しい時期だけ、えいやっとツクリオ(旧つくりおき.jp)を頼んでみた。
私が頼んだのは週3日×4人分のコース。これを平日の夫と私の昼食にした。
週末に作り置きをしなくて良い、というのはこんなにも時間が節約できるのか、とあまりの楽さに目からうろこがボロボロ落ちまくった。
「惣菜=健康に悪い」というイメージがあったけれど、味付けも濃すぎず食べやすいし、野菜もたっぷりとれる。
びっくりしたのは料理を作る作業自体もだけど、「献立を考えなくて良い」「買い出しに行かなくてよい」という、「料理をする手前の作業」が思いのほか大きかったこと。
今まで毎週の献立作成、買い物チェックリスト作成、買い出しに計3〜4時間くらいかけていたため、その時間がフリーになるのが嬉しかった。
離乳食の娘の料理だけは頑張って、娘が昼寝してくれた日や夫がいる日にちゃちゃちゃっとまとめて作ったり、大人のカレーや味噌汁に調味料を入れる前に取り分けた。外出するときはもう市販品やパンだけでよし!とした。
そんなふうに自分でやる作業を減らすことで、週末家族で出かける時間ができた。
初めての育児で肩に力が入りまくっていてアメフト選手のようになっていた私は、作り置きをやめたことをきっかけに少しずつ「やめる」という選択ができるようになっていた。料理も掃除も完璧を捨てたって、誰も死にはしない。
私は一体だれの目を気にして家事育児をしていたのだろう。
大事なのは目の前にいる子どもと夫なのに、見えない世間の目を勝手に意識し、勝手に自分を追い込んでいた。
でも、「世間から見てちゃんとしているお母さん」より「いつもご機嫌なお母さん」でいたい。
そして振り返ったときに、「子育て楽しかったな」と子どもの可愛さを懐かしく思える自分でいたい。
そのためには義母のアドバイス通り、できないことを認めて、手を抜くことも必要なのではないだろうか。
義母は子育てがしんどかったと言うけれど、私の夫も義兄も二人とも愛情深い人だと思う。
きっと義母がへろへろになりながらも、精いっぱいの愛情をかけて育てたからだ。
そして義母が「自分がしんどかったのだから、あなたたちもこれくらいやって当然」と苦労を押し付けることなく、「自分がしんどかったから、しんどくならないようにしてね」と嫁である私にアドバイスできる人だからなのだろう。
私はもうすぐ育休から復帰する予定なので、仕事がはじまったらしばらくはツクリオを頼もうかな、と夫婦で話し合っている。
とにかく、子どもと過ごす時間を少しでもとれるように、自分が心に余裕をもって過ごせるように。
「手料理=愛情」もあれば「手抜きをして一緒に過ごす時間を買う=愛情」もある。
その家族ごとに様々な方程式があって、答えもきっと違う。
インスタで流れてくる誰かの素敵な暮らしをなぞるのではなくて、自分たちにぴったりの素敵な方程式を見つけていきたい。

