【#なんのはなしです家】ぼくらの目玉焼き論争。
これはどこにでもある小さな物語。
そう、目玉焼きの話である。目玉焼きに何をかけるか。今日も新たな論争を生み続けている。
家庭の違いは文化の違い。郷に入れば郷に従え。嫁の我慢はなんとやら、である。
「お義母さん。目玉焼きは、醤油じゃなくてソースで食べたいんです」
二世帯住宅にリフォームしたばかりのサトウ家。鳥の声と義父のくしゃみの音しかしない静まり返った食卓に、嫁であるミサキの声が響いた。
義母の幸子は、箸を止めてゆっくりと顔を上げた。その視線は、ミサキの皿に鎮座する、完璧なまでに固焼きの目玉焼きに注がれている。
「あら、ミサキさん。目玉焼きは醤油と決まっているでしょう? ソースなんて、せっかくの卵の風味が台無しよ」
幸子の言い分は、この家では絶対的な掟だ。夫である健太の実家では、何十年も「目玉焼きには醤油」が食卓の平和を守ってきた。しかし、ミサキの実家では幼い頃から「目玉焼きにはウスターソース」と教わってきたのだ。父も母もそのまた祖父母たちも食卓にはいつもウスターソース。
「でも、この固焼きにソースが絡まるとすごく美味しいんです。一度試してみませんか?」
姿勢を真っすぐと正し、静かに告げたミサキの提案に、幸子は眉をひそめた。
のんきに夫の健太は「どっちでもいいだろ、早く食おうぜ」と苦笑して、早々に自分の醤油をかけて食べ始めた。この男の中立のつもりが、かえって火に油を注ぐ。
「は?」と内心、舌を打ちそうになったミサキは「いけないいけない、新婚早々こんなところで取り乱しちゃだめよ」と深呼吸をした。
幸子は続ける。
「そういう問題じゃないわ。食文化というものは、その家の歴史なのよ。嫁に来たのなら、まずはその家のやり方に馴染むのが筋というものじゃないかしら、ねえ健太」
「俺にふるなよ」
幸子の言葉には、単なる調味料の話を超えた、嫁としてのあり方への暗黙の圧力が込められている。美咲の胸に、言いようのない反発心が燃え上がった。
ミサキは思った。そう、嫁の私が引き下がり、我慢を重ねれば波風は立たない。しかし、嫁として今後の家庭の中でのポジションを築いていくうえでも、今ここではっきりと考えを述べておかなければ。
「郷に入れば郷に従う。それは理解しています。でも、料理はその人がどう生きてきたかを表すものだとも思うんです。お義母さんが醤油を愛するように、私はソースが好きなんです。どちらが正しくてどちらが間違いというわけじゃないわ、ねえ?」ちらりと夫の健太を見る。
「俺にふるなよ」
義父がごほんとテレビのリモコンを押す。我関せずという顏をしていたくせに、タイミングだけはいい男だ。
ミサキは震える手で、食卓の端にあった醤油瓶を引き寄せた。幸子の顔色が明らかに変わる。一触即発の空気の中、健太が慌てて割って入ろうとしたが、それよりも早く、美咲は目玉焼きに醤油を垂らした。黒い液体が鮮やかな黄色い黄身の上に広がる。
「……いただきます」
幸子はそう呟くと、再び醤油を手に取り、自分の分にたっぷりとかけた。二人の間の溝が卵の焼き加減以上に深く焦げ付いていた、のをミサキが先に歩み寄った。
不思議と張り詰めていた空気は少しだけ緩む。
ニュースキャスターが威勢よく本日の天気を告げる声が響いた。
ふわっと、優しい味が口中に広がる。ミサキの頬は思いのほか緩んだ。
「…おいしい、懐かしい味がするわ、お義母さん」
「そうでしょう」
しかし、義母は、頑として、ミサキの方に歩み寄ろうとしなかった。
ミサキがおいしいと言ったのだから、これからもサトウ家の味は「醤油」になっていくのだと幸子は思っていた。
ミサキが何か一言いいかけたときに、思わぬ伏兵が小さな手でチューブを持って立ち上がった。
5歳の娘のミサトである。
「はい、ばあばっ」
と言い、幸子の半熟の目玉焼きーーこだわりの焼き加減のーーの上に、かわいくハート形を描いた。
マヨネーズで。
得意な顏で「ハートだよっ」と告げた。不器用な、5歳児の愛。誰が受け取らずにはいられようか。
ミサキも「…ま、まあ、やさしいのね、ミサトは」と言いながら、言葉尻が震えている。
嫁のソースは断れても、孫のマヨネーズは受け入れるしかあるまい。
「あ、ありがとう、ミサトちゃん!」
頑なに異質なものを拒んできた義母の、心の決壊が溶けていく。孫のココロを壊すまいと必死だった。
いつの間にか義父が隣で自分の目玉焼きにもつけはじめた、マヨネーズを。
「…新しい味も、いいじゃないか」
隠して、サトウ家の新しい味が生まれた。こうして、食文化と伝統は守られ、壊され、創造される。
愛によって。
ちなみに、わたしは断固としてマヨネーズ派です。

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