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必死に探しても見つからなかった夜、力が抜けた瞬間にだけ道が見えた

「もっと探せば見つかるはず」と思いながら、画面の前で何時間も動き続けることがある。
手応えがないと、たいていは「努力が足りなかった」と自分を責める。
でも、足りなかったのは本当に力の量だったのだろうか。


デスクチェアが壊れた。
修理は難しく、その日のうちに代わりを探そうとした。
候補を検索し、スペックを比べ、レビューを読み、価格を確認した。
それを3時間、続けた。

何も手応えがなかった。
収穫はゼロで、時間だけが過ぎていく。
「もう少し調べれば見つかるはず」と思い直して、また画面を泳いだ。
そのたびに、虚しさだけが濃くなっていった。

あとから気づいたことがある。
あの夜、問題は情報不足でも、選択肢の少なさでもなかった。
「頑張れば何とかなる」という前のめりな構えが、かえって視野を狭めていた。


力が抜けたのは、意図したことではなかった。
あまりの虚しさに、気力が勝手に落ちた。

そのとき、初めて見えたものがあった。
まだ確認していなかった家具量販店があることに、ふと気づいた。
在庫は残りわずかかもしれないが、翌朝一番なら現物を確認しに行ける。
取り寄せという選択肢もある。
具体的な動線が、急に視界に入ってきた。

力を入れていた3時間、その候補はずっとそこにあった。
ただ、見えていなかった。
努力が足りなかったのではない。
力みそのものが、視野を狭めていた。

力が抜けたときに見えるものがある。


その夜の流れが終わったとき、身体中が痛んでいた。
どこか特定の箇所というより、全体が重く、じわりと痛む感じだった。
心が疲れた、というより身体が先に音を立てていた。
もう十分やった、と。

そのあとで、ある動画を見た。
「外側の世界は諦めろ。でも内側の世界は諦めるな」
その言葉が、その日の自分の状態をそのまま言い当てているように感じた。

無気力になれという話ではない。
外側の世界すべてをコントロールしようとする頑張り方から、いったん手を放せという話だ。
外側への過剰な責任を、そっと下ろせ。
そういう提案として聞こえた。

身体が限界を告げることは、怠けではない。
現実への正直な応答だ。


頑張ることそのものは、悪くない。
ただ、あの3時間の頑張りの中身を正直に見ると、純粋な「解決したい」だけではなかった。

「今日中に何とかしなければ」という義務感があった。
「ここで諦めたら、自分は弱い」という思いもあった。
頑張ることで、価値を証明しようとしていた。
頑張ることで、見捨てられないようにしようとしていた。

それらは頑張りの形をしていたが、本当は不安への服従だった。
全身が痛んでいたのは、そういう頑張りを何時間もかけて続けたあとのことだった。

「頑張ることが悪い」のではない。
「何に従って頑張っていたのか」が問題だ。
脅しや不安に駆られた頑張りは、問題を解決する前に、身体と尊厳を先に削る。
それを続けていると、頑張ること自体が苦しくなっていく。


42歳のとき、一度はっきり限界を超えたことがある。
「もう無理だ」と感じた。
それでも時間が経つと、また頑張り始めていた。

ある話を聞いたことがある。
砂漠を歩いていたとき、苦しい時期だけ足跡が一人分しかなかった。
なぜ見捨てられたのかと問うと、返ってきたのはこういう答えだった。
「あなたを運んでいたから。」

その話と、42歳の記憶が重なった。
あの時期、自分の頑張りだけで今があるわけではなかった。
何かに支えられていたのかもしれない。
命が続いているのは、自分の努力だけによるものではないかもしれない。

そう受け取り直したとき、少し変わることがある。
「世界の全責任を自分の頑張りに預けなくていい」と、少しだけ腑に落ちる。

頑張りたいから頑張る。
それは甘えではない。
尊厳を守りながら動く、もっとも正直な形だ。


だから、頑張ることを捨てなくていい。
ただ、脅しや不安に握らせた拳を、少しずつひらいていけばいい。
外側をねじ伏せるための頑張りを手放し、内側がうなずく力として使い直す。

握った拳をひらくことは、諦めではない。
責任の置き場所を、自分の内側へ戻す営みだ。
そうしてはじめて、頑張りはやさしい場所に降り立てる。


拳をひらいたあと、それでも体が動かない日がある。
その日のことを、別の記事に書きました。

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