動けない自分を責めた日に──身体の奥で起きていたこと
動けない日が続くと、焦る。
やるべきことは頭にあるのに、身体が応じない。
「怠けているだけだ」「甘えだ」──そう自分にラベルを貼るほど、動けない自分がますます重くなる。
でも、その時間は「何も起きていない」のではなく、内側で何かが静かに書き変わっていたのかもしれない。
自分はもともと、思い立ったら動くほうだった。
何か不満があれば行動で変えようとする。
止まっていること自体が、耐えられなかった。
だからうつ病で動けなくなったとき、最初に湧いたのは焦りだった。
次に、苛立ち。
何もできていない自分が、どんどん価値を失っていくような感覚。
身体は動かないのに、焦りだけが空回りしていた。
あるとき、動けない状態には2つの種類があるのかもしれない、と思った。
ひとつは、エネルギーが枯れている状態。
単純に、残量がない。
風船に少しずつ空気を入れていく感覚に近い。
溜まって、溜まって、あるとき臨界点を超えると、ふっと手を離れて飛んでいく。
そこまでは、じっとしているしかない。
もうひとつは、流れが詰まっている状態。
エネルギーはあるのに、出力されない。
こちらは厄介だった。
無理に動こうとしても空回りする。
「何が詰まらせているのか」を見つけないかぎり、いくら頑張っても同じだった。
枯渇なのか、詰まりなのか。
それを見分けるだけで、自分の扱い方は変わる。
そして自分の場合、その「詰まり」をたどっていくと、長く信じてきたひとつの前提に行き当たった。
「動かなきゃ、現実は変わらない」
その信念で生きていたから、動けない人を見ると嫌悪が湧いた。
口だけ達者な人。
被害者意識に留まり続ける人。
ずっと黙っている人。
でも、その嫌悪を静かに掘り下げていったとき、見えたのは意外なものだった。
あれは他人への怒りではなかった。
自分自身への強迫だった。
「動かなかったら、失うものがある」──その"失うもの"を突き詰めたら、行き着いたのは価値だった。
動かない自分には、価値がない。
そう信じていたから、動けない自分がこんなにも怖かったのだ。
外から見ると、変化は突然やってくるように見える。
長い間動けなかった人が、ある日急に動き出す。
周囲は「急に変わったね」と言う。
でも、内側ではずっと前から何かが動いていた。
地殻変動のように、静かに、深いところで。
感情が少しずつ解凍されていたのかもしれない。
自己認識が、気づかないうちに書き換わっていたのかもしれない。
世界の見え方が、ほんの少しずつずれていたのかもしれない。
それがある日、閾値を超えて、外側に出る。
意思で無理やり踏み出したのではない。
条件が揃って、自然に立ち上がった。
ただ、それだけのことだったのだろう。
動けない時間は、悪ではない。
枯渇しているなら、回復を待てばいい。
詰まっているなら、詰まりを見に行けばいい。
どちらにしても、「動けない自分を責める」は処方箋にならない。
あの時間の中で、具体的に何が動いていたのか。
正直、まだよくわからない。
身体の緊張がほどけていたのか。
自分との向き合い方が変わろうとしていたのか。
でも、ひとつだけ思う。
止まっているように見える時間にも、内側では何かが静かに書き変わっている。
その仕事に、まだ名前はない。
けれど、たしかに、身体の奥で進んでいた。
この話と地続きにあることを、前回は「外側のルールが機能しなかったとき、どこに境界線を引くか」という側から書きました。
