個人的な文章
3月末(年度末)というのは、変な時期で、
「ハッピーニュー年度」、なんて誰も言わないし、「良いお年度を」、という挨拶も当然存在しない。
それなのに、正月、年越しよりもずっと多くのことが変わる。人が去って、人が来て、肩書きが変わって、部屋が変わる人もいる。街が静かに入れ替わっていく。年越しそばなんてものも無く、ただ変わる。変わったことに、あとからゆっくり夏の暑さとともに気づく。-
昨日、そういう季節の夜に、会社の同僚とお酒を飲んでいた。前述した年度末らしい話を肴に。
帰り道、タクシーを拾おうとして、やめた。理由はうまく言えない。外に出て少し歩いたら車に乗る気になれなかった、というより、まだ夜の中にいたかったのかもしれない。
酔いが程よく身体に溶けていて、三月の終わりの風が、冷たいのか温かいのか判断がつかないくらいの温度で、それがちょうどよかった。
心地良い散歩。

次の角を曲がってもいいし、曲がらなくてもいい。そういう自由が、この季節の夜にはある。
夏だと暑さが邪魔をするし、冬だと寒さが引き返させる。でも3月の終わりは、身体から何の言い訳も聞こえない。どこまでも歩けそうな気がする。
路地に入った。僕の靴音だけがコツコツと響いていた。こういう時間は、誰とも共有できない。説明しようとすると、すでに違うものになってしまう。自分だけが知っている夜、というものが、確かにここにある。
ふと片岡義男氏の『個人的な雑誌2』を思い出した。しばらく忘れていた本だったけど、歩くたび、なぜか鮮明に思い出してきた。
彼の書く文章たちは、いつもどこかへ向かっている。目的地があるわけじゃない。ただ歩いている、ただ走っている、ただ海岸線を進んでいる。行き先より、その途中にいること自体が、物語だった。
この夜も、そういうものだと思う。
何かが始まっていて、何かが終わっていく、この変な季節に、あてもなく歩くことの中に、今の自分がいる。外側だけが変わっていく3月に、内側の僕は夜中の路地を一人で歩いている。個人的に。
雑誌というのは、個人的なものだと思う。同じ号を読んでいても、どのページで止まるかは人それぞれで、どの写真が刺さるかも、どの文章を切り抜きたくなるかも、全部違う。
人生もそういうものかもしれない(そういうものだと思っている)。
同じ季節の中に生きていても、どこで立ち止まるかは、自分だけが決める。誰にも編集なんてされたくない。
3月の夜中、自分が、誰も知らない夜の内側を歩いている。
それが今号の、個人的な文章。-
ただ一つ、この路地を、誰かと歩きたかった気もしている
なんて -

皆さん良い週末をです。
