竹田城攻略の前に立ちはだかった"岩洲城"の意味:「秀吉の中国攻め」を地形・地質的観点で見るpart7【合戦場の地形&地質vol.11-7】
日本の歴史上の「戦い」を地形・地質的観点で見るシリーズ「合戦場の地形&地質」。現在は「秀吉の中国攻め」をお送りしています。
秀長率いる織田軍は、生野峠を越えて銀山を確保。
さらに3つの地形的障害を越え、ついに岩洲城を目の前にします。
前回の「合戦場の地形&地質」はコチラ👇
岩洲城の位置づけ
岩洲城は攻め手である羽柴秀長から見ると、数々の狭窄地を越え、谷幅が広くなりつつある場所に出現する城です。
(※岩洲城に関してはネット上で情報が少なく、位置に関しては、とある個人サイトの情報を参考にしています)

このように、岩洲城から北では徐々に谷幅が広くなり、かつ本流と同規模の谷幅を持つ支流が西へ伸びており、比較的広い平坦地を形成しています。

より広範囲の地形図を見ると明らかで、岩洲城の南よりも北の方が平坦地の面積が格段に広くなっています。
後の江戸幕府が藩を石高で格付けしていたことからも分かるように、当時の経済の中心は「米」でした。
米の生産地となる平坦地は、大名にとって最も重要だったのでしょう。
つまり岩洲城は但馬国の米生産地の最前線に立地していると言えます。
そう考えると、かねてから気になっていた「竹田城と生野銀山の関係性」について、おぼろげながら見えてくるような気がします。
生野城の存在意義とは?
上の図で唐突に登場した「生野城」ですが、その理由は今回の主たるテーマである「羽柴秀長の竹田城侵攻」に際して、いっさい名前が出て来ないからです。
そもそも生野城とは1427年に当時の山名氏が播磨の赤松氏との戦に際して建設した城だと言われています。
後の1542年に山名祐豊(やまなすけとよ)が本格的に銀採掘を始める際に、生野城を再整備して銀山経営の拠点にしました。
そうです。本来であれば、生野銀山を守るのは生野城でした。
それがどうもこの時には機能していなかったようです。
その理由は、山名氏が最終的に織田氏に敗れてしまった遠因と重なるように思えます。
以前、山名氏は1569年に織田に敗れ、一度は但馬から逃亡していたと話しました。この時に大阪の境に落ちのび、商人に頼っています。
そこからのつながりで今井宗久(いまいそうきゅう)に出会い、その仲介で但馬の大名として復活しています。
今井宗久は当時、信長の御用商人のような立場だったことから「生野銀山の運用ノウハウ」を得るために山名氏を復帰させたのではないでしょうか?
つまり当時の織田家は「銀山を奪取したは良いが、稼働させられなかった」という状態だった可能性があります。
とすると、山名氏の但馬復帰後は生野城にも人員を配備していそうですが、秀長の侵攻時に戦った形跡が無いのが不思議です。
この先は少々突飛な話で結果論かも知れませんが、私の仮説です。
山名祐豊は、銀を採掘するノウハウには長けていたが、採掘した銀を最大限に生かすような経済活動には至らなかったのではないでしょうか?
確かに銀は採掘していたし、商人へ売ってはいた。
しかし山名氏が銀の採掘を始めたのは「桶狭間の戦い」より18年も前です。
にも関わらず、山名氏は織田の侵攻を許すまでの24年もの間、家中の統制も進まず、但馬一国の大名にとどまっていた。
このことから私には、山名氏が銀山を十分に政治や軍事に転換できていなかったように見えるのです。
これが、秀長軍侵攻に対する最前線が生野城ではなく岩洲城であったことにつながるのではないでしょうか。
岩洲城の地形と地質
話を岩洲城に戻しましょう。

岩洲城はかなり急峻な斜面に囲まれた険しい山の頂上に建っています。
山頂の標高は469.5mであり、平坦地との比高は約300mにも達します。
しかし尾根は細長くて敷地が狭いため、多くの兵が入るのは難しそうです。
また地形的特徴から青丸の箇所等に湧水はありそうですが、山頂に近いため量は望めず季節によっては渇水時期もありそうです。
城までのルートとしては、現在は北東(赤点線)に徒歩道があり、そこから尾根伝いに登る経路が考えられます(赤矢印)。
また神社の裏山から尾根伝いに登ることもできそうです(青矢印)

岩洲城が建つ山を構成する地質は、黄土色の地質の上にピンク色の地質が載るという構成になっています。
それぞれの地質は以下のとおりです。
〇黄土色
時代:古生代ペルム紀グアダルピアン世~ローピンジアン世(約2億7400万 年~2億5200万年前)
地質:砂岩泥岩互層(海成層、付加体)
〇ピンク色
時代:中生代後期白亜紀カンパニアン期~マーストリチヒアン期(約8400万年~6600万年前)
地質:デイサイト~流紋岩質火砕流堆積物(溶結凝灰岩類)
いずれも硬質な岩石であり、急峻な山地になっているのは頷けます。
また城周辺部(山頂部)で井戸を掘ったとしても、まとまった水量を確保できるようなものは地質的に期待できなそうです。
秀長隊は岩洲城を陥落させた後、いよいよ北上して竹田城を目指します。
お読みいただき、ありがとうございました。
