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天空の城・竹田城を守ったもの――地形図が語る城の秘密:「秀吉の中国攻め」を地形・地質的観点で見る【合戦場の地形&地質vol.11-8】

日本の歴史上の「戦い」を地形・地質的観点で見るシリーズ「合戦場の地形&地質」。現在は「秀吉の中国攻め」をお送りしています。
秀長率いる織田軍は岩洲城を攻め落とし、ついに竹田城を目指して進軍します。果たしてどのような地形が待ち受けているのでしょうか?

前回の「合戦場の地形&地質」はコチラ👇


竹田城への道

岩洲城を攻め落としてしまえば、次の竹田城までもう少しです。

岩洲城ー竹田城周辺地形図:スーパー地形画像に筆者一部加筆

その距離は直線距離で7kmほど。
もちろん直線では進めませんし何度か渡河せねばなりません。
とは言え順調に進軍できれば3時間ほどでしょうか。

円山川(まるやまがわ)がつくった谷の幅はこれまでに比較して広く、500m~1kmにもなります。
そのため条件が良ければ行軍中に竹田城を視認することもできたのではないかと思われます。

岩洲城を出てまず円山川を渡って西の平坦地へ移動し(赤矢印)、しばらくその平坦地を行軍することになります。
ここは狭い場所でも200m以上の幅があることから、奇襲を受けるリスクはかなり低かったと思われます。

この平坦地は竹田城の手前2km弱の位置(青矢印)までであり、ここで再び渡河したであろうと考えられます。

岩洲城ー竹田城周辺地形図②:スーパー地形より抜粋

現在の土地利用状況は市街地と水田です。
おそらく当時はもっと建物は少なく、水田が広がっていたであろうと想像できます。
秀吉が姫路城に入った時期は旧暦の10月頃と言われているため、季節は晩秋の頃で米の収穫後です。
おそらく道に限らず水田内も通るなどして、幅の広い隊列で行軍できたかも知れません。

岩洲城ー竹田城周辺地形図③:スーパー地形より抜粋

西の平坦地の行き止まり付近を拡大しました。
川を渡らずこのまま西岸を行軍することはできそうですが、狭い地形で谷や段差等の障害も多いため、おそらく渡河して東の平坦地を通ったと思われます。
2回渡河することにはなりますが見通しは良いため、警戒しながら行軍し、竹田城に迫ったのではないでしょうか。

竹田城周辺の地形

ついに竹田城の足元まで迫ってきました。
地形を詳しく見てみましょう。

竹田城周辺の地形図:スーパー地形より抜粋

竹田城が建つ山は頂上の標高が353mであり、東の平坦地との標高差は概ね150mです。
そこまで高い山ではありませんが、斜面は非常に急峻です。
北向き斜面が比較的緩やかですが、なぜか道は少なく、結局西側に大きく回り込むことになります。

竹田城への行軍ルート:スーパー地形画像に筆者一部加筆

現在の地形図では、竹田城へ通じる徒歩道は3ルート描かれています。
急峻な山で通行可能な地形は限られているでしょうから、おそらく戦国時代と大きな違いはないと思われます。
秀長隊は3000人と言われており、3隊に分かれて包囲するかたちで攻城戦を行ったのではないでしょうか。

竹田城周辺断面図の位置:スーパー地形画像に筆者一部加筆

地形図で見る限り非常に急峻な斜面であることは分かりますが、断面図を見て体感してみましょう。

竹田城周辺の断面図:スーパー地形の機能を用いて作成した図に筆者一部加筆

縦横比は1:1です。
東西斜面(AB断面)は、やっぱり急斜面ですよね。
傾斜角度は概ね45度もあり、実際に目の前にすれば壁のように感じる角度です。実際、人間が立って歩くのは不可能であり、木を掴むなどしなければ登ることはできません。
両手がふさがっては戦いになりませんので、道以外を進軍することは、まずなかったであろうと思われます。
また比較的緩やかだと思われた北の斜面ですが、緩やかなのは中腹まででした。それより上はやっぱり45度の急斜面です。
やはり上記の3ルートでの攻城が現実的かと思われます。

竹田城の地質と水

地質分布

とても急峻な山に建つ竹田城。いったいどのような地質なのでしょうか?

竹田城周辺の地質図:スーパー地形画像に筆者一部加筆

竹田城や周辺の山地も含めピンク色一色で、その周囲は青灰色です。
それぞれの詳細は以下のとおり。

ピンク色:花崗岩
時  代:中生代白亜紀後期カンパニアン期~マーストリヒチアン期(約8360万~6600万年前)

青灰色:河川堆積物
時 代:新生代第四紀完新世(約1万年前~現在)

なお上の地質図(シームレス地質図V2)は日本全国を一枚マップで表しており便利な一方で、精度はイマイチです。
そのため稀に地質分布の細部が合っていない場合があります。
上の地質図も山地の一部が河川堆積物になっていますが、地質学的にあり得ません。したがって黒点線の範囲まで花崗岩だと思われます。

花崗岩は条件が揃うと風化が著しく進行し、真砂土(まさど)と呼ばれる砂状の土になります。
そのような場合は特に山頂部付近を中心になだらかな地形になったり、斜面崩壊や浸食が進んだ幅の広い谷を形成します。

しかし竹田城の山の斜面のほとんどは急峻であり、未風化の堅硬な花崗岩で構成されていると考えられます。

地質と城の関係性

マサ化していない花崗岩は非常に硬質な岩石であり、ハンマーで叩くと弾かれ、火花が散るほどです。
しかし上図のように、城の敷地は一定規模の平坦面になっています。
つまり人工的に石を切り出したと考えられます。
繰り返しますが花崗岩は非常に硬質です。そのため節理(割れ目)に楔を打ち込み、切り出したと思いますが、その節理(割れ目)間隔は比較的大きい(数m間隔)ため、かなりの労力がかかったと思われます。
築城当時は、それだけ「重要な城」と考えられていたのでしょう。

水はあるのか?

NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」では水の手を奪って勝利していました。
では実際には、城には水があったのでしょうか?
地質学的に考えると、硬質な花崗岩ですし城の敷地内(山頂部)に井戸を掘ったとしても水は無いと考えられます。
ではどこから汲んでいたのでしょうか?

実は地形図に「明確な答え」らしきものを発見しました。

竹田城南東部周辺の地形図:スーパー地形画像に筆者一部加筆

竹田城から南南東方向にのびる道がありますよね(赤点線)。
実はこれ、麓とつながっていないんです。
つまり城と行ったり来たりするためだけの道です。

竹田城南東部周辺の地形図 拡大図:スーパー地形画像に筆者一部加筆

拡大するとさらに興味深いものを発見しました。
これは砂防ダム(赤点線)でしょう。
しかも4基も並んでいます。それだけ土砂流出(土石流)が懸念される谷だと言うことです。つまり水が豊富だと言うことを示しています。

水の流れを示す青線が描かれており、その上端を青丸で囲みました。
おそらくこの箇所やその周囲に湧水点があると思われます。
水の影響で周囲の花崗岩は風化が進み、土砂流出を繰り返したのでしょう。

現在の道は砂防ダム建設時の作業道の可能性もありますが、ここに水が豊富にあることは間違いありません。
もし作業道であったとしても、もともとあった道を拡幅した可能性も考えられます。
おそらくここが竹田城の“水の手”だったのではないでしょうか。

以上、竹田城は硬質な花崗岩がつくる急斜面に守られた城であり、一方で局部的なマサ化と土砂流出が、“水の手”のヒントになるという、興味深い顛末でした。

以上で「竹田城編」は終了です。
お読みいただき、ありがとうございました。

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