無職になったので、700km歩くことにした。【後半】
2年半勤めた設計事務所を辞めて、正式に無職になってから1ヶ月半以上が経った。その大半を、スペインはサンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼路を歩いて過ごした。
私が歩いたのは、フランスとスペインを横断し、スペイン北西部のサンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂を目指して歩く、カミーノ・フランセス(Camino Frances)と呼ばれる全長800kmのルートである。去年の夏休みにはじめの100kmを歩いたので、今回は残りの700kmを歩いた。かつては、中世のキリスト教徒たちが、祈りながらこの道を歩いたとされているが、今では信仰の有無にかかわらず、世界中から多くの人が、この巡礼路を歩いている。

クレデンシャル(Credencial)と呼ばれる巡礼手帳を持って歩くのが、この旅の決まりごとのひとつだ。道中の教会やバル、アルベルゲ(巡礼宿)などで、スタンプを押してもらう。ピルグリムたちは、最終地点であるサンティアゴに到着すると、クレデンシャルを提示し、コンポステラ(Compostela)とよばれる巡礼証明書を受け取る。Oficina del Peregrinoによると、2024年には、このコンポステラの発行件数が49万9千と、過去最多を記録したらしい。
というわけで私も、2025年7月17日の午後14時くらいに、パートナーのピエールと、サンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂に到着し、コンポステラを発行してもらった。



パンプローナからサンティアゴまで、26日間、ただ無我夢中で歩き続けたわけだが、数日立ってもまだ身体の疲れが抜けない感じからすると、ゴール前から体力はとっくに限界を達していて、最後の方は、ほぼアドレナリンで足を動かしていたのだと思う。身体的にも精神的にもかなり応える26日間だったが、挑戦してよかったと心から思えたので、その体験を、文章を綴って記録しようと思った次第だ。
ただし、この文章を書きながらも私はまだ、自分ががむしゃらに歩いた体験を、きちんと言語化できるとは、全く思っていない。この26日間で体験したことの意味は、この先、自分のライフステージが変化していく途中で、少しずつ理解と言葉が追いついてくるのではないかと。その都度、必要なときに、腑に落ちる瞬間が訪れるのではないかと、今はなんとなく思っている。
歩く距離は、自分で決める
多くのピルグリムが辿る、王道の行程のようなものは一応存在はするが、1日に何キロ歩くかを決めるのは、基本的には自分だ。この旅に全部で何日間を割くことができるのか、出発地点はどこで、どこまで行きたいのか、体力的に一日どれくらい歩くことが可能なのか、その町にアルベルゲはあるのか、予算はどれくらいなのか、といったことを吟味しながら、自分なりの行程を組む。
私なりに観察すると、ピルグリムが一日平均して歩く距離は、だいたい18kmから24kmといったところだ。日数が許すのであれば、一日10kmで切り上げることもできるし、スケジュールがパツパツの場合は、一日30km程度歩くこともできる。
私たちは、日数が限られていたので、平均でだいたい28kmから30km歩いた。参考までに、実際の私達の行程はこんな感じだ。(見返すだけで足が痛くなってくるが)
1日目 Pamplona ▶ Puente la Reina(23.9 km)
2日目 Puente la Reina ▶ Estella(21.8 km)
3日目 Estella ▶ Los Arcos(21.3 km)
4日目 Los Arcos ▶ Logroño(27.6 km)
5日目 Logroño ▶ Nájera(29.1 km)
6日目 Nájera ▶ Grañón(29.4 km)
7日目 Grañón ▶ Villafranca Montes de Oca(27.4 km)
8日目 Villafranca Montes de Oca ▶ Burgos(38.4 km)
9日目 Burgos ▶ Hornillos del Camino(20.8 km)
10日目 Hornillos del Camino ▶ Castrojeriz(20.3 km)
11日目 Castrojeriz ▶ Frómista(24.7 km)
12日目 Frómista ▶ Carrión de los Condes(19.2 km)
13日目 Carrión de los Condes ▶ Moratinos(30.1 km)
14日目 Moratinos ▶ El Burgo Ranero(26.1 km)
15日目 El Burgo Ranero ▶ Arcahueja(27.8 km)
16日目 Arcahueja ▶ Villadangos del Páramo(20.4 km)
17日目 Villadangos del Páramo ▶ Astorga(27.1 km)
18日目 Astorga ▶ Foncebadón(25.1 km)
19日目 Foncebadón ▶ Ponferrada(27.3 km)
20日目 Ponferrada ▶ Trabadelo(31.0 km)
21日目 Trabadelo ▶ Hospital da Condesa(28.4 km)
22日目 Hospital da Condesa ▶ Pintín(29.4 km)
23日目 Pintín ▶ Portomarín(33.1 km)
24日目 Portomarín ▶ O Coto(28.9 km)
25日目 O Coto ▶ A Ponte de Ferreiros(26.5 km)
26日目 A Ponte de Ferreiros ▶ Santiago de Compostela(28.7 km)
7日目の夜に、「このペースだと、サンティアゴに期限日までにたどり着けない」ということが判明し、あわてて行程をすべて組み直す作業をした。その翌日は、ブルゴス(Burgos)にたどり着きたい一新で、猛暑の中40km近く歩いた。

確かに、その日の終わりは、ある程度の達成感はあった。だがその一方、無理をしたせいで、ピエールは左足首を痛め、その次の2日間はまともに歩けず、足を引きずるようにしながら目的地にたどりつくはめになった。私もこの日を境に、足の浮腫がひどくなって、サンティアゴに到着するまで、ジンジンとするいや〜な足裏の痛みと付き合った。
ゴール地点に到着したい一心で、距離をただ消費することばかりに集中してしまうと、美しい景色を楽しむ余裕なんて全くないし、他のピリグリムとのちょっとした会話も、めんどくさくなってしまう。ヘトヘトのほぼ瀕死状態でアルベルゲに到着するので、夜の時間を楽しむエネルギーは残っていない。それが、いつも残念だった。

よく考えてみると、それは現代社会にもよくあることだ。予定を詰め込みすぎ、忙しさに飲み込まれると、本当に大切なものが見えなくなる。確かに、あえて自分のコンフォートゾーンを抜け出すことには大切だし、無理をしたからこそ、達成感や自信につながる場面もある。でも結局のところ、「苦しいか楽しいか」を決めているのは、自分自身だ。自分に合った歩幅とペースで進む覚悟があるかが、すべてを左右する。
カミーノを歩いて、人生が変わったという人は少なくない。でも、カミーノを歩いて、仮に人生が変わったのであれば、それはカミーノの力ではなく、自分の意志で起こした変化だ。そのニュアンスは、忘れないようにしたいと思った。

時速4.5kmの世界で
この旅では、同じ日に同じ宿に泊まる偶然や、道中ですれ違う偶然が重なり、素敵なピルグリムたちと知り合うことができた。私の方からなとなく声をかけることもあれば、相手から話しかけてくれることもある。一度さり気なくすれ違って、しばらく経ってからまたすれ違う人もいた。多くの言葉を交わさずとも、瞬間的に不思議なつながりを感じる人もいた。その一方で、何度すれちがっても、最後まで話さずじまいの人もいる。こういった絶妙かつちょっと繊細な空気感に、人間らしさとセレンディピティを感じた。
カミーノを歩く人の目的は、本当にさまざまだ。宗教的な信仰を持って歩く人は、今でもなお半数もいるらしい。人生の転換期に、自分を見つめ直すために歩く人もいる。スペインの豊かな自然に触れるために歩く人もいれば、スポーツとしてハイキングを楽しむために歩く人もいる。
他のピルグリムたちと話すと、このカミーノが単なる観光が目的の旅行と本質的に異なることは明らかだ。
スイス人の警察官、ミカエルは、長年の勤務の果て、人間不信になってしまった自分を見つめ直し、もう一度、人に心を開けるようになりたいと思い、この道を歩いていた。
アメリカ人のデータサイエンティスト、ブルックは、20年前に離婚した元夫と一緒に歩いたこの道を、今度は13歳と16歳の息子たちと歩いていた。彼女にとってこのカミーノは、ゆっくりと移り変わる景色を見ながら、悲しみや怒りといった、じわじわと湧き上がる感情を、焦らず、味わう道なのだと言っていた。
元レストランオーナーのオランダ人、マルコは、アルコール依存症に陥り、家族を顧みず、ひたすら働き続けた過去を変えるために歩いていた。「僕は、妻と子どもたちのために、もっと良い人間になりたいんだ」と、目に涙を浮かべて話してくれた。私はそんな彼に、「そう思っている時点で、マルコはすでにいい人間だと思うよ」と言った。
明確な動機をもって歩き始める人も、歩くうちに意味を見つけていく人もいる。どちらが正解かは、自分が決めればいいのだ。いずれにせよ、時速4.5kmで動く世界では、日常生活の中だと見過ごしてしまいそうな偶然にも敏感になるから、そこに自分なりの意味を見つける余白が生まれる。その余白こそが、本当の自分らしさを見つけるきっかけになるのかもしれない、とも思ったり。

石を手放す儀式
私が、ピエールと一緒にエル・カミーノを歩くことにした理由といえば、ふたりとも同時期に無職となって、まとまった休みができたからだ。「フィジカル的にもメンタル的にも、ちょっとハードなことをしてみよう。そうしたら、頭が空っぽになって、思考がクリアになって、新たな人生観がみえてくるのではないか?」といった程度にしか考えていなかった。
だが、歩けば歩くほど、頭を空っぽにすることがどういうことなのか、わからなくなった。足を動かしながら、頭は常に何か考えている。ときには哲学的なことを、でも大半は、超くだらない妄想とか、どうでもよい後悔とか、今日のご飯とか。
そんななか、クルス・デ・フェロ(Cruz de Ferro/鉄の十字架)という場所に辿り着いた。これは、カミーノ最標高地点に位置する、木柱の頂に鉄の十字架が立つ細長いモニュメントで、巡礼者が、石や写真、手紙などを置き去ることで、自分の抱える悩みや過去を象徴的に「手放す」ための儀式の場とされる。



もし、空っぽになるということが、自分の重荷を手放すことなのだとすれば、結局のところ私は、700km歩いても、たいして手放すことはできなかった。身体のどこかしらに痛みや疲れを感じれば、相変わらず機嫌は悪くなるし、他人の気に入らない行動を目にすれば、めちゃくちゃイライラする。一日の終わりが見えてくると、どうしても急ぎ足になり、景色を見る余裕もなくなる。思い返せば、歩くことをピュアに楽しめなかった日も結構多い。

「幸いなるかな、あなたは巡礼者です」
エステラという町の教会で、巡礼者のための祈りをみつけた。
もし道が、目には見えないものを見せてくれるなら、あなたは巡礼者です。
もしあなたにとって大切なことが、到着することではなく、他の誰かと共に到着することならば、あなたは巡礼者です。
道を眺め、名もなき風景や夜明けを発見し、感動するなら、あなたは巡礼者です。
言葉が足りず、道のあちらこちらで、あなたを驚かせることすべてに感謝したくなるなら、あなたは巡礼者です。
もしあなたが、道の終わりこそが本当の始まりだと気づいたなら、あなたは巡礼者です。
隣を見ず、百歩先を進むことより、一歩後ろに下がり、誰かを助けることに価値があると気づいたなら、あなたは巡礼者です。
もし道中で、自分自身と出会い、急がずに時間をかけて、自分の心のあり方をおろそかにしないなら、あなたは巡礼者です。
リュックが空になり、心がどこに感情を置けばよいか分からなくなっているなら、あなたは巡礼者です。
幸いなるかな、あなたは巡礼者です。

この祈りの文章に出会ったのは、パンプローナを出発してから2日目だから、この旅のかなり初期段階だ。なんとなく素敵な文章だと思って、とりあえずスマホで写真を撮ったものの、その後しばらく見返すことはなかった。旅の終盤に近づき、体力が限界に達した頃、カメラロールを眺めているときに、またこの文章がたまたま目に入った。
私はキリスト教信者では全くないが、そのときの感覚に言葉を与えるならば、「救われた」だろうか。なんとも表現しがたい安堵感があったことを覚えている。
自分のできる範囲で、誰かを手助けすること。
美しい風景に目と心を向けること。
急がず、他の誰かと歩調を合わせて進むこと。
ゴールにたどり着くことに意味があるのではなく、その道のりそのものに意味をみつけること。
読み返してみると、私自身が大事にしてきた価値観ばかりだ。身体的にも精神的にも厳しい状況の中、余裕がなくなると、簡単に忘れてしまう。その価値観を、もう一度思い出させてくれたことに対する、安堵感だったのかもしれない。

以前は私も、カミーノで人生観が変わるかもしれないとか、何か劇的な変化が起きるかもしれない、なんていう淡い期待を抱いていなかったわけではない。この旅で吸収したことを、どのように日常生活に持ち帰るかが、課題になるだろうなあ、なんて思ったときもあった。
でも、700km歩き終えた今、「カミーノを歩く前後で、何が変化があったか」と聞かれても、正直のところ答えに困ると思う。なぜなら、身体中あちこちの痛みと、贅肉が落ちて足に筋肉がついた以外、これといった変化は特にないからだ。
一ヶ月近くスペインにいるのだから、ちょっとはスペイン語が喋れるようになるかなと、わずかな期待を抱いていたが、現実はそんなに甘くない。言えるようになったスペイン語といえば「Dos huevos por favor(たまごをふたつください)」だけという、なんとも言いがたい上達具合である。

カミーノ中の生活は、パリでの日常とは、ラディカルなまでに異なり、日々の生活を一度断ち切ったような感覚である。そんな、ある意味リセットされた環境の中、ひたすら自分の頭の中と向き合い、そもそも自分は、人生をどのように変えたいのかについて考えてみた。
まあ、余裕がないときに不機嫌になってしまうこととか、他人にイライラしてしまうこととか、直したいところは山ほどある。でも、果たしてそれって、人生丸ごと変えたいというほどのことなのかと聞かれれば、そうではない。
現代の消費社会ではどうしても、「足りないもの」「もっとこうあるべき」といったことばかりに目がいってしまう。不足しているという感覚に、気が付かないうちに飲み込まれ、自分がすでに持っているものが色褪せて見える。
だから、700km歩き終えた今、変化がなかったなら、それでいいのだと思う。なぜなら、私はなんだかんだ、自分の人生に、とても満足しているからだ。大好きな人たちに囲まれ、大切な人たちに愛され、幸せに満ちている。
このカミーノは、そのことに感謝するための旅だったのだと思う。それが現状、私の中で腑に落ちている、唯一の結論だ。

