そして、パリで母になる。
2026年3月初旬。
長い冬が終わりかけのパリで、長女が生まれた。
産まれ15区、本籍8区という(我が子ながらちょっとうらやましいくらい)正真正銘のパリジェンヌだ…。

宇宙飛行士になるから、子どもはいらない。
物心ついた頃から私は「子どもはいらない」と周りに言いまくっていて、なぜかそれを鮮明に覚えている。そんなことを言っていた、むらたゆりちゃん(5歳)のロジックとしては、
子どもを産む前には、好きな男の人と結婚しなきゃいけないし、それがなんか恥ずかしい。
私は大きくなったら宇宙飛行士になるから、子どもは育てられない。
なにより、子どもを産むのはめちゃくちゃ痛いって、ママが言ってた。
といったところだろうか。

それはパートナーのピエールと知り合って、彼に本気で子供が欲しいと言われるまで、変わらなかった。
要するに、自分がいつか子供を産むなんて、人生で一度も真面目に考えたことなどなかったのだ。(ごめんよ、愛子。)
なので、ピエールに「百合は本当にいつか子供をつくりたいと思ってるのか?」と念を押されたときは、正直困った。当時はまだフランスに来て間もなく、仕事も割と忙しかったし、とにかく、やりたいことが多すぎる。自分の世話をするので手いっぱいなのに、赤ちゃんを育てるとか、できるわけないじゃないか。

心の準備なんて、一生できない。
なーんて思っていた私が、重い腰を上げて本気で向き合う気になったのは、まず一つ目に、フランスは無痛分娩が主流であることを知ったから。これはデカい。二つ目に、ピエールのフランス人特有の、気づけばいつの間にか説得されてしまう演説と、相変わらずのしつこさ。そして何より三つ目に、この人とだったら、子育ても楽しそうと、頭の片隅でなんとなく、ずっと思っていたからだ。
南仏はビアリッツの霧の濃い海辺で、「1年以内に、子作りを始めてみよう」という約束をしたのが、2024年の年の瀬。

私もピエールも仕事を辞め、無職となったタイミングで子作りを開始したのが、2025年6月。妊娠が発覚したのが、その翌月。
スペインのコンポステラ巡礼路を歩いている真っ最中だ。
「実は今、妊娠しているらしくて…」と、カミーノの道中で知り合った人たちに話すたびに、「おめでとう!なんて素敵なことなの」と、たくさんの祝福の言葉をかけてもらった。
ああ、子どもが産まれるというのは、こんなにも人から祝福されるものなのか。
そう思う一方で、当時の私はまだ、それをどこか他人事のように感じていた。
私を全力で母親にしてくれた、先生たち。
スペインでの700キロの旅を終え、人生で経験したいことのないレベルの身体疲労と、妊娠初期の悪阻と闘いながら、電車と飛行機を乗り継ぎ、這いつくばるようにパリへ戻った。
スペインの片田舎の薬局で買った妊娠検査薬が陽性だったとはいえ、その先に何をすればいいのかなんて、何ひとつ知らない世界だったので、とりあえず家から一番近い、徒歩10分ほどの医療センターの産婦人科を予約した。
シュナイダー先生
そこで担当してもらったのが、白髪と髭が素敵なシュナイダー先生。話すときに眼鏡の上縁から見上げちゃうタイプの、定年間近のご年配のドクターだ。
若いころは、手書きの処方箋とかカルテをイケイケに書いてたんだろうなあと想像できるが、デジタル化した現代に明らかに追いつけてないのだろう。診察内容を右手と左手の人差し指のみで一文字ずつ入力するから、問診時間の8割くらいは先生のパソコン作業に費やされる。
普通だったら「待たされる」と感じるかもしれない。でも私は、そのゆっくりと流れる時間が、とても好きだった。
2回目の検診で、赤ちゃんの心臓の音を聞かせてくれた。その機械は、30年以上使われているのではないかと思うほど色褪せ、ところどころ擦り切れていたが、その古びた装置から流れてきた鼓動は、想像していたよりもずっと速く、不思議なくらい力強く、鮮明だった。
それまで頭でしか理解できていなかった「妊娠」が、わずか数秒で、身体中に染み渡る実感へと変わった。
ところがシュナイダー先生との別れは、突然訪れた。
病院に引き渡される前に検診一回を残したところで、「この医療センターのマネージメントがひどく、ストレスフルでもう耐えられん!」との理由で、その医療センターを去ることになってしまった。
いかにも先生らしい理由だなと思いつつ、「出産まで頑張って」と言われ、差し出された手を握った瞬間は、思いがけず胸がいっぱいになった。
ただの月一度の定期検診ではあったが、シュナイダー先生は、私が母親になっていく最初の数か月を、ずっと見守ってくれていたのだ。
「出産したら、先生に真っ先に報告しないと!」と思っていた矢先の話だから、きちんと別れを惜しむ準備もしていなかった。握手をして診察室を出たあと、少しだけ泣いた。
ギラ先生
エコー検査を担当してくれたのは、ギラ先生。これがシュナイダー先生とは真逆の、若くてイケてる先生。
プローブを滑らせながら、画面を一瞬見るだけで必要な断面を見つけ、次々と画像をキャプチャする。その手際のよさは、見ていて惚れてしまう。

しかも、その合間に必ず褒めてくれる。
「赤ちゃん、とても健康ですよ。」
「発育も理想的です。」
「ほら、この横顔。パーフェクトだ!」
本当にそう思って言ってくれていたのか、それとも毎回の決まり文句だったのかはわからないが、その言葉を聞くたびに、私たちは顔を見合わせて、にやりとせずにはいられない。


三回目のエコーで性別を教えてくれたときも、
「小さくて素敵な mademoiselle だよ!」
と、相変わらず、かなり芝居がかった言い方だった。
世の中の全ての妊婦さんのように、私も、少なからず漠然とした不安を抱えていたが、ギラ先生と話していくと、その不安は少しだけ脇に置かれて、「早くお腹の中のこの子に会いたい」という気持ちのほうが大きくなった。
先生は毎回、子どもが生まれてくる喜びを、少しずつ育ててくれたのだ。
ゴーザン先生
妊娠7か月目からは、出産するネケール病院(Hôpital Necker)へとバトンタッチとなる。近所のラボで血液検査と尿検査をして、その結果を持っていくのはシュナイダー先生の時と同様。それ以外にも、麻酔士、病院専属のエコー士と検診をする。
それと同時に、近所の助産師の先生(ゴーザン先生)との出産準備クラス(全部で6回)が始まる。
予定日が近い妊婦さん3人で、週に一度、1時間。全部で6回のプログラムだ。回によってはパートナーも参加し、陣痛が始まってから出産までの流れ、無痛分娩(ペリデュラル)のこと、呼吸法や陣痛を和らげる姿勢、授乳や新生児のお世話まで、一通り学んでいく。ゴーザン先生は、母乳育児が専門だったので、その回だけはかなりの熱が入り、2時間コースだった。
ゴーザン先生は、これまた若くてエネルギッシュで、物事をはっきり言ってくれる、女性の助産師さんだ。
「これって大丈夫ですか……?」
「そんなことして問題ないですかね……?」
といった感じで、あたふたしながら質問する私たちに、
「ん? 全く問題ないですよ。」
と、一刀両断してくれるのだ。その潔さを、私もピエールもとても気に入った。
というのも、妊娠がわかってからというもの、私たちは暇さえあれば、片っ端から調べていた。ベビーベッドはこれがいい。哺乳瓶は何本必要。おしゃぶりは?抱っこ紐は?おくるみは?搾乳機は?
調べれば調べるほど、「必要なもの」がどんどん増えていく。正直、しんどい。
「これもやっぱりあったほうがいいですよね?」と聞くたび、ゴーザン先生の答えは、たいてい同じだった。
「いらないです。」
その一言に、何度救われたことか。
ゴーザン先生は、知らなくても大丈夫なことを教えてくれた。妊娠も出産も育児も、必要なのは、やみくもに新しい知識を増やすことだけではないのだ。
経験したことのない、痛みを待つ。
着々と出産に向けて準備は続けたが、結局のところ、出産への恐怖は、出産直前まで消えなかった。
予定日が近づくにつれて、臨月の重たい身体と痛む腰にはうんざりだし、生魚が食べられないのも億劫だったが、「では今すぐ出産したいですか?」と尋ねられても、素直に「はい」とは言えない。
陣痛がどんな痛みなのか、わからない。経験したことない未知の痛みが、もうすぐ、しかも確実にやってくる。しかも、出産を乗り越えた先には、きっと今の私には想像もつかないほど大変で、自分ではコントロールできない日々が待っている。
それをただ待つというのは、なかなかの怖いものだ。
我が子に会えるのは、もちろん楽しみだが、臨月の私は、どこかとても、気が重かった。

陣痛が始まったのは、夜の10時半頃だ。
ピエールとNetflixを見終え、「よし、そろそろ寝よう」と就寝の準備をしていたとき、これまで感じたことない痛みを下腹部に感じた。
あれ。なんか痛い。
その、喋れなくなるほどの痛みは、1分ほどで消え去り、またやってくる。
「これが陣痛というやつか…」
ゴーザン先生に教わったポーズを取り、ゆっくり、大きく、深呼吸をしながら、痛みを逃す。
陣痛が来るたびに、タイマーを押して間隔を記録した。痛みは少しずつ強くなり、間隔も短くなっていく。そして、10分に一度ほどになった、午前4時半頃、タクシーを呼び、病院へ向かった。

© ピエール
タクシーで20分ほど揺られ、パリ15区にあるネケール病院に到着すると、他に妊婦さんはいなく、すぐに診察室で診てもらうことができた。子宮口がすでに2センチ開いていたので、即入院となった。
「陣痛の痛みを、とても上手に逃せていますね」
助産師さんに褒められ、ちょっといい気分になる。
分娩室へ移動すると、お腹には陣痛の強さと赤ちゃんの心拍を測るモニターが取り付けられ、麻酔科の先生が硬膜外麻酔のカテーテルをセットしてくれた。
カテーテルを入れる前には、さらに細い針で、背中に局所麻酔までしてくれる。フランス人は痛みに敏感なのではないかというのが、私の個人的な説だが、要するに「麻酔のための麻酔」のおかげで、カテーテルを入れるときにも、ほとんど痛みを感じなかった。
麻酔は、自分でボタンを押すと薬が追加投与される仕組みになっている。
「ああ、これで、ようやく痛みから解放される。」と思っていたが、人生そこまで甘くない。
カテーテルのセッティングが終わったのは、朝の6時半頃。うーん、確かに少し痛みが和らいだような気はするが、何度ボタンを押しても、陣痛が来ているときは、普通に痛い。
無痛分娩といっても、こういうものなのだろうか。
いや、ゴーザン先生は、麻酔が効いたら痛みは一切なくなるって言ってたけどなあ…。
そう思いながら耐えていたが、さすがにおかしいということになり、麻酔科の先生にもう一度確認してもらった。すると、どうやら薬が外に漏れていて、麻酔がほとんど体内に入っていなかったらしい。
どうやら私は、「少し痛みが和らいだ気がする」というプラシーボ効果だけを頼りに、陣痛の痛みをほぼフルで感じ続けていたらしい。
ここで、私の「フランス人痛み激弱説」が確信となるわけだが、「すごいですよ、よく耐えましたね!」と、また看護師さんたちに褒められる。だいぶ痛かったけどなあ、と思いながらも、やはり褒められるとテンションは上がる。
カテーテルを入れ直してもらい、時間をあけながらボタンを数回押した。
すると、あらまあ、これはすごい。
さっきまでの痛みが、嘘のように消える。がちで、ゼロ。
前後での私の変わりように、ピエールは衝撃を受けたらしいが、超チルモードに入ってからは、とにかく子宮口が開くのを待つ。助産師さんたちに何度も内診してもらうが、なかなか進まない。そこで途中で、人工的に卵膜を破る処置をすることになった。
そう聞くと、なかなかぞっとするが、すでに麻酔がしっかり効いていた私は、「どうぞどうぞ。もう何でもやってください」という(超チル)対応をかます。
13時頃。前日の22時から一睡もしていなかった私とピエールは、「ようやく少し眠れる…」と思いながら、うとうとし始めたが、すぐにたたき起こされた。
子宮口が、8㎝から10㎝まで、急に開いたらしい。
赤ちゃんの頭が産道で圧迫されている。さらに、へその緒が首に巻きついている。早く出さなければ、危険な状態になる可能性がある。
そう先生たちに告げられて、空気が急変した。
私は言われるがままに、力を込めた。
助産師さんたちとピエールの声に合わせて、踏ん張った。
そして、14時13分。
2955gの元気な女の子が生まれた。

一人で頑張らなくていい。
日本で出産を経験したことがないので比較はできないが、フランスで妊娠・出産を経験して強く感じたことがある。それは、この国は、本気で子どもを産み育てることを社会全体で支えようとしているということだ。
妊娠初期の一部の検査や加圧ストッキング、そして(全く効果なかった)つわり用の薬を除けば、ほとんどの医療費は社会保険でカバーされる。
日本人である私も、「外国人だから」と線を引かれることは一度もなかった。フランス人と同じように診てもらい、同じように制度に支えられ、同じように安心して出産の日を迎えることができた。
日本では高額になりがちな無痛分娩も、フランスではごく一般的だし、その上、私がお世話になったネケール病院は全室個室。おかげで、他の産婦さんに気を遣うことなく、授乳や睡眠、自分なりのペースで4日間の入院生活を過ごすことができた。それでいて、追加費用は一切かからなかった。

もちろん、フランスの医療制度にも課題はあるのだろう。それでも、妊娠期間を通して私がいいなと感じたのは、制度そのものだけではない。
フランスでは、子どもを産むことが、母親や家族だけの問題ではなく、社会全体で支えるべきこととして考えられている。そのマインドセットが、医療や制度の端々から伝わってきた。
「頑張って一人で乗り切らなければ」と思うより、「安心して頼っていいんだ」と自然に思えたことで、妊娠と出産という、経験したことのないことへの不安と恐怖を乗り切れたのだと思う。

たくさんの愛を、与えられるように。
妊娠がわかった日から、愛子に会うまで。
丁寧に診察をしてくれたシュナイダー先生。
エコーのたびに、赤ちゃんのことをたくさん褒めてくれたギラ先生。
不安を一つずつ取り除いてくれたゴーザン先生。
そして、ネケール病院で出産の一部始終を支えてくれた先生たち、助産師さんたち、看護師さんたち。
外国からやってきた私を、フランスで生まれ育った人たちと同じように守ってくれた、この国の医療制度。
もちろん、それだけではない。
私の妊娠を、自分のことのように喜んでくれた家族や友人たち。
スペインの巡礼路で、出会ったばかりの私たちを心から祝福してくれた人たち。
そして、誰よりも近くで、9か月間、当たり前のように見守ってくれたピエール。
彼らがいなければ、私は健康な赤ちゃんを無事に産むことなど、到底できなかった。

愛子が産まれたその日の夜。
出産で疲れ切っているなか、ベッドに置くと泣いてしまう愛子を、そっと腕に抱く。すると、不思議なくらいすっと泣き止み、そのまま眠ってしまった。
私はその瞬間、自分が母になったことを実感し、急に色々なことが色鮮やかによみがえってきた。
妊娠が発覚したスペインの小さな町アストルガから、パリの診察室、エコー画面の中で初めて見た小さな身体、毎週重いお腹をかばいながら通った出産準備教室、そして、「ココリコ」と名付けられた、病院の分娩室まで。
ああ、本当に、良い旅だった。
多くの人に支えられ、励まされ、祝福され、たくさんの愛に恵まれた9か月だった。
「愛子 Aiko」という名前には、たくさんの愛を与えられるだけでなく、自らもたくさんの愛を与えられる人になってほしいという願いを込めたのだが、その願いは、愛子を授かった日から、もうすでに叶いはじめていたのかもしれない。
そう思うと、「愛子」という名前をつけられたことが、なんだか少し誇らしくなったり。
兎にも角にも、妊娠と出産の旅は、ひとまず終わった。
母になる旅は、まだスタート地点に立ったばかりだ。

