木漏れ日の並木道|風まかせ文芸部 第63回「遠い花火の音」
iさん主宰の、風まかせ文芸部・第63回お題企画に参加しています。
お題:”遠い花火の音”がテーマ
ショートショート、小説、詩、エッセイ──ジャンルもスタイルも自由。
──初参加です。よろしくお願いします。
都心からそう遠くない駅前なのに、商店街はずいぶん寂しくなった。
この街に住むようになってから、かれこれ15年くらいになる。
いろんなタイミングが重なって、
「これからも家賃を払い続けるくらいなら──」
そう思って、無理も重ねて小体なマンションを買った。
住宅ローンの終身刑受刑者の出来上がりだ。
とはいえ、会社にも仕事にも恵まれていて、正直稼ぎは悪くない。
パートナーを専業主婦にしておける程度の余裕はある。
それでも葉子──妻は仕事を辞めなかった。
そのおかげもあって、地下のパーキングに好きなクルマを停めておくこともできる。
クルマのローンを払っているのは葉子だ。だから、クルマ選びに私の発言権はない。
プリウスを乗り継いでいたけれど、
「あんな悪そうな顔になって、恥ずかしい」
と、突然シトロエンを契約してきた。
「ちょっとお利口さんっぽいでしょ?」
なんて言っていたけれど、結局のところ、ディーラーが近いからという理由も大きかったのだろう。
まあ、便利だ。マイナートラブルが正直多いから。
「今週代休があるんでしょ? じゃあ点検に持ってってよ」
「定期点検の時期じゃないだろ?」
「毎回キュルキュル鳴ってるの、気にならないの? 『ベルトかなあ』って言ったのあなたでしょ」
ひさしぶりに遅く起きた朝、パンや卵で適当なブランチを作って食べてから、ディーラーの予約を確認する。
クルマで行けば目と鼻の先の距離でも、帰り道が億劫だ。
「運動不足なんだから、そのくらい歩きなさいよ。またiPhoneに怒られるわよ」
──まあどのみち、私に選択権はない。
ディーラーでは恭しくオーガニックコーヒーが出てきて、仕立てのいいスーツを着た営業マンに挨拶され、そして油染みひとつない作業服を着た“サービスフロント”だという担当者から説明を受けた。
「正直──よくあるんですよ」
まあ、そういうものなのだろう。
少しは期待していたけれど、当然のように代車は出ない。
どうせ、予定なんてない。のんびり歩いて帰ろう。
おおまかな方向はわかるけれど、もちろん歩いたことのない道だ。
やっと大きくなりました──といった風情の並木道がゆらゆらとした木漏れ日を投げかけてくる。
このあたりの地名は、『鬼平犯科帳』でも読んだことがある。
そのころは農村だったのだろう。そのあとはどんな変遷があったのか、旧道沿いの商家はすっかり寂れて、中途半端な住宅街になっていた。
一応セットしてあったGoogleマップのナビが、謎のショートカットを案内してよこす。例によって、たいして近道にはなりそうもない。
──そして、その道の先に停まっていたのは、一台の趣味のいいシトロエンだった。
黒いボディに臙脂の塗り分けがあるのが、遠目にもわかる。蟹の目のように突き出たライトが丸い。
ああ、思い出した。チャールストンだ──もちろん、シトロエン2CVの。
家の前の、カーポートもない駐車場に停められている2CVは、近づいていくと塗装もそれなりに褪せているのだけれど、ピカピカに手入れされているのがわかった。
花の咲いている植え込みや、車寄せに埋め込まれたレンガやタイルで、ずいぶんと勿体をつけた佇まいのその家には、小さな看板が出されている──家、じゃないのか?
──Je te veux
その看板は、Boulangerie──パン屋の文字の方が小さかった。
「サティか」
頭の中で『Je te veux』のちょっと奇妙な旋律が流れ出す。
家自体はそこそこ古そうだけれど、リフォームの手が入って、そして店舗スペースを作り込んだのだろう。
パン屋ではなくBoulangerie──バゲットやハード系のパン、そしてクロワッサン。エシレバターやゲランドの塩……ああ、頭の中がジャンボンを挟んだシンプルなサンドイッチのイメージでいっぱいになってくる。
──たまらないな。
気がつけばドアを開けていた。
ガラスのドアチャイムがシャラシャラとした音を立てる。
──空気が、止まった。
「昌晃?」
──悠だった。
「いやだなあ、なんで?」
「なんで、って……シトロエンがさ」
「うちの? 看板娘にはなってるけど、冬しか乗れない“おばあちゃん”だけどね」
「いや、そうじゃなくて──」
私は、我が家のシトロエン、C3をディーラーに預けてきたところで、といった話を、悠──20年? もっとか。再会したかつての恋人に言い訳がましく聞かせた。
コックコートを着た悠は、あのころとちっとも変わっていないように見えた。
私は──ダメだ、運動不足だし、体重はどれだけ増えたんだ。髪の毛だって、あのころみたいにポニーテールじゃない。
「近所にでも住んでた?」
「〇〇だから、そんなに近いってわけでもない」
「そっか、毎朝バゲット買いに来てもらえる感じじゃなさそうね」
今さら店の中を見回す。今どきのパン屋だ──ガラスの衝立の向こうに、バターたっぷりのパンが並んでいる。
──食品衛生責任者 ロッシュ悠
壁に貼られた無愛想なデザインのプレートと、マーカーで書かれた文字に目が止まる。
「なーに見てんのよ。ロッシュは旦那の苗字。フランス人なんだ。しばらくフランスで暮らしてたの。
旦那のお母さんがパティシエールでね。色々教わってるうちに、楽しくなっちゃって、パン屋になっちゃった」
白黒の紙焼き写真が額に入れて飾られている。
どこの街なのか、石畳の街角。エプロンをしたメガネをかけた上品そうなマダム──フランスの空気と時間。
「それで? どんなパンをご希望ですか、お客様?」
悠がちょっと芝居がかった様子でそう告げる。そういうところは──あのころと変わっていない。
「コールドミートでサンドイッチにしたいんだ」
「じゃあこのビール酵母のパンがいいかな。サンドイッチにするならね、私これが一番好きなの」
「カンパーニュも欲しいな。あ、それから、エピも」
「もしかして気つかってる? そういうの、いらないよ」
「──好きなんだ、エピ」
「そうなんだ。知らなかった、全然」
私たちは、20年ぶりに笑った。
「でも──」
店先まで送ってくれた悠が、どこか懐かしい表情で言った。
「──うれしいな。シトロエン、おそろい」
「ああ、それは嫁が──」
「あら、そうなの? つまんないな──嘘よ。また買いにくる?」
「多分──」
「美味しいエピ、焼いておいてあげる。好きなんだよね?」
「ああ──」
歩いて帰る道に、パンの濃い香りがつきまとってきた。
「──昨日、パン買ってきたんだね」
「ああ」
「どうやって食べたの?」
「ハムとチーズ挟んで」
「レタスは? たくさんあるからって私、言ったよね」
「忘れてたよ」
「もうそんなのばっかり──あ、またエピ買ってる。まあいっか、好きだもんね……ああこれ、マスタード多めで美味しい。どこのパン屋さん?」
「回り道したら──あったんだよ。どうしてだか」
「じゃあ私もう行くねー。もう最悪、飲み会の次の日の早出って」
朝の葉子はいつもこんな調子だ。
私は、苦手な朝のバラエティ番組が映っているテレビを消して、コーヒーのおかわりを注いだ。
ビール酵母のパンは、リベイクしてジャムを塗っても美味しい。
──恋は、遠い日の花火ではない。(了)
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📚 もう少し長い物語を読んでみたい方へ──現在連載中の長編です。
私には、「選ばなかった人生」と「なれなかった自分」をめぐる物語があります。

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