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ゴーギャンを待ちながら #1『それとも向日葵?』

[あらすじ]

幼い頃父親を交通事故で亡くし、友人との距離感を上手くとれない逢坂瞳子(18)は学校に行かず、亡き父のアトリエで絵だけを描く毎日を送っていた。
ある日、父との思い出の美術館で色の見え方に違いを感じる魚住理人(21)と出会う。
少しずつ心を通わせる二人だったが、理人は10年前の瞳子の父の死に深く関わっていた。
見える色の違い、失った時間、家族の秘密。
亡き父の遺した絵に導かれるように、瞳子は自分だけの色を探し始める。

色には名前があると思っていた。
赤とか青とか緑色とか。
みんな同じように同じ色の名前を呼んでいる。
でもあの年の夏。
始まりかけた夏の少しだけ風の強い日。
彼と見た小さな公園の青い滑り台は、記憶の中の青と少しだけ違って見えた。
桜色のキャンバスに遺された、私が見ていた青。


         ***


画材屋の紙袋は嫌になるほど重たくて、紙の固い角が掌に当たるたびに何度も位置を直す。
1月の空気は冷たく、凍えた指先が痛いほどだ。
マスクの下でため息が漏れる。    
久しぶりの新宿は鈍色の空だった。
だけど、このまま家に帰るのもつまらない気がして。
足が向かった先はアジアで唯一ゴッホの『ひまわり』を見ることができる美術館だった。


学生証を見せれば高校生までは無料のはず。
胸に抱えた紙袋と灰色のダウンコートが擦れる音を気にしながら歩かずに済むと思うと、少しだけ呼吸が楽になる。


夕暮れの美術館には余白がいっぱいだ。
ここでは立ち止まっても誰にもぶつからないし、誰にも責められない。
少しだけ透明になれる場所。
白い壁に反射する光にふと病院を思い出した。
マスクを外して紙袋をロッカーに放り込む。
今頃、学校ではホームルームが終わる頃だろう。


父はよく私をこの美術館に連れてきた。
『ひまわり』の前に立つと今でも隣に父がいるような気がする。
笑うと目元に柔らかな影のできる人だった。
「この絵はね、ゴッホが黄色い家でゴーギャンを待ちながら描いたんだよ」
網膜に焼きつくようなその黄色い花弁を見ていたとき、背後に人の気配がした。


「ゴッホが好きなの? それともひまわり?」
「え?」


黒のハイネックに着古したダウン。
何度も色を抜いたような髪は、白に近い灰色の中に淡い青が滲んでいる。
彼は黒いサングラスをかけたまま『ひまわり』を見ていた。
美術館なのに。


「ゴッホ? それともひまわり?」

同じ言葉を2度繰り返す。
「……わかんない。けど、お父さんは好きだった」
「そっか」
サングラスの下の表情はわからない。


知らない人と話すのは苦手だ。
話しかけられるのはもっと苦手だ。
それなのに、聞いてしまった。


「あなたは?」
「俺?」

彼はほんの少しだけ首を傾げた。

「俺は別に」
別に?

「どっちも好きじゃない」
「じゃあ、なんで来たの?」
「暇つぶし?」
「暇つぶしで美術館に来るの?」
「だめ?」
「だめじゃないけど」

彼の口元がわずかに綻ぶ。
変な人。


通路の隅に立つ学芸員の視線がこちらに向けられたような気がして。
咎められたわけではないのに、急いで『ひまわり』から離れた。
立ち止まってしまったら、この妙な胸の騒めきに名前をつけなくてはいけない気がしたから。




天現寺の交差点の先、古川にかかる橋を渡った先に私の家がある。
曽祖父の代は和菓子屋だったという家は、今は1階が祖母の店、2階は母の絵画教室だ。
私たちの住居はこの店舗の裏、築70年を越える古い家だった。

2階に灯りがついている。
絵画教室は休みだったので、きっと外出先から母が戻ったのだろう。
紙袋を抱え直して外階段を登り、教室のドアを開けた。

「瞳子ちゃん? まあずいぶんと大荷物だこと」

石膏像や壺や壊れたギター、ポットや片方だけの靴、その他諸々のものが置かれているモチーフ部屋、通称宝部屋から母が顔を覗かせた。
母の薫子は驚くと目を見開く癖がある。
四十も過ぎたというのに、その顔は時々少女みたいだ。

「明日の準備?」
「そう。でも今終わったところ。今夜はあーちゃん特製のビーフシチューよ」
あーちゃんと私たちが呼んでいる祖母の作るビーフシチューは、奮発していい肉を使うので機嫌の良い時にしか作らない。
きっと何かいいことがあったのだろう。

「私の分もたくさん買っちゃった」
紙袋を手渡した時、自分の指先が木炭で黒く汚れていることに気づく。
「人混みで疲れなかった?」
汚れた指先からさりげなく視線をそらして母は私を気遣う。

「大丈夫だよ。心配しないで」



玄関の引き戸を開けて上り框を上がる。
勝手口の扉の向こうは父のアトリエだった。
あの頃と何も変わらない。
油絵具とテレピンの匂いの中、北側の小さな窓の前に置かれたキャンバスには色褪せた布がかかったままだ。

机の上の古いラジオ。
コンクリートの床に落ちた群青の絵の具。
10年の間に、うっすらと黄ばんだ布のかかったイーゼルの横にはもう1つ別のイーゼルがある。
ケント紙の中の描きかけの自画像の前に座ると、不機嫌な私が私を見ていた。


(正確に写すことも大事だけど、なにを伝えたいのか、それを伝えることが大切なんだよ)

FMラジオから流れてくるJポップの最新曲に混じって父の声が聞こえてくる。
あの日と変わらない父の声。


2Hの鉛筆で影をつけ、2Bに持ち替えて暗さを際立たせていたら少し濃くなり過ぎた。
練りゴムで消してまた重ねる。


(光と影の繋がりを意識してごらん)

自分の顔のはずなのに、居心地の悪さを感じて何度も描き直す。
父の描く影はどこか柔らかかった。
なのに父のような線が上手くひけない。
だから私の顔はずっと不機嫌なまま。
不機嫌な私が何枚も床の上に落ちている。


そんな顔にもいい加減見飽きて、窓ガラスに自分の顔を映してみた。
口角をあげて微笑んでみる。
でも。
やっぱり上手く笑えない。
ぎごちない線が一本、張り付いただけ。
外はすっかり夜の色に染まり、その暗闇にもう8歳ではない私の白くぼやけた輪郭が映っていた。



(瞳子の気持ちが伝わるようにね)


私の気持ち?
嬉しいとか悲しいとか、好きとか嫌いとか。
ぜんぶ遠いところにある気がする。
アトリエの絵の具の匂いに少しだけむせて、なぜかあの『ひまわり』を思い出す。

「ゴッホが好きなの? それともひまわり?」


名前も知らない人の声。

美術館なのに黒いサングラスをかけていた。
暇つぶしで美術館に来るなんて。
青灰色の髪の不思議な人。



だけど、その時の私は知らなかった。
あの出会いが、始まりと終わりになることを。



[次のお話 ↓]


[全話まとめてこちらから↓]


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