ゴーギャンを待ちながら #2『わらしのいる家』
姉は昔からとても頭が良かった。
お姉ちゃんはすごく優秀なのに妹さんは、ね。
そんな声が遠くから聞こえてくる。
「瞳子は瞳子。誰かと比べることはないんだよ」
そう父は言ったけど。
神様は元々平等なんかじゃないし。
だから姉のことは嫌いじゃない。
でも姉の妹でいることは時々ちょっと息苦しい。
だから私は姉を「景子ちゃん」と名前で呼ぶ。
「景子ちゃん、サラダ持ってって。あとパンとドレッシングも」
洗いっぱなしの髪を黒い輪ゴムで束ね、上下ジャージスタイルの姉は「はーい」と「あーい」の中間みたいな声で返事をした。
目の下のクマが凄い。
昨日も徹夜だったのだろう。
「景子ちゃんたら、医療用のスリッパを履いてそのまま電車に乗って帰ってきたのよ」
母が悲しげにため息をつく。
そんな姉は今年の夏と秋にある2つの試験の準備でずっと帰りが遅かったし、祖母も最近出かけることが多く、四人揃っての夕食は久しぶりだった。
「クション!クション!」
突然くしゃみを連発する姉にティッシュを箱ごと渡す。
「あーこれもう絶対、猫皮屑アレルギーだよ」
「今頃?わらしがきてから2年も経つのに?」
「時間差攻撃だよ。お母さん!空気清浄機買って」
「そのうち慣れるんじゃない? 景子ちゃん、花粉症も酷くなりそうでならなかったし。換気すればきっと大丈夫」
「もー! クション!クション!」
その時、小さな鈴の音が聞こえた。
「わらし?」
呼んでも返事はない。
でも多分近くにいるに違いない。
雨の日に橋の袂で拾った時、わらしは灰色のネズミみたいだった。
呼吸するたびに変な音が聞こえて、このまま死んじゃうかもしれないと思ったけれど、子猫は白い毛並みの綺麗な猫になり、目やにで塞がっていた目は青と緑のオッドアイだった。
わらしは極度の人見知りだ。
滅多に人前に姿を見せない。
それでも夜になると、私の足元で丸くなって朝まで眠る。
耳を澄ますと、時々小さなイビキもかいている。
本当は手を伸ばして触りたいけど、逃げてしまうから我慢する。
いるのかいないのかわからない座敷わらしみたいな猫だから、いつのまにか猫の名前は「わらし」になった。
***
「週末は雨予報だから、公園の桜もそろそろ見納めね」
祖母の何気ない一言で、私は久しぶりに母のお下がりの画材バッグを背負って家を出る。
散ってしまう前に、父が好きだった桜を見ておきたかった。
小さな竹垣に沿った灰色の飛び石を渡り、店舗の傍を通って商店街の道に出る。
そのまま右に曲がると、祖母の店の入り口のドアに何かが貼ってあるのが見えた。
近寄ると優しい右上がりの字で
「アルバイト募集。絵画教室アトリエ・ミュレット 時給詳細応相談」と書いてある。
黒猫と青い林檎のイラストつきだ。
絵画教室という字の左側には上向きの矢印。
「絵画教室はこの2階」という意味なのだろう。
でも、今どき手書きの張り紙?
母らしくてちょっと可笑しい。
母はその見た目から、たおやかで繊細に見えたりもするが、実はマイペースでそそっかしい。
整理整頓もひどく苦手で、いつも何かをなくしては家中を探していた。
父もそんな母に付き合って、一緒によく探していたっけ。
祖母の後ろ姿がガラス越しに見えたので、ドアを開けて中に入る。
「この器、深い緑色が素敵でしょ」
祖母は深皿を手に取る。
「伊賀焼?」
「あら。よくわかったこと」
古い建具や柱を生かした店内は、レトロなペンダントライトと和紙の灯りが柔らかな影を落としている。
祖母の華子はその名前のように、歳を重ねても華やかな人だった。
シルバーグレイの髪を短く整えて、いつも姿勢がいい。
「瞳子さんは今日はお出かけ?」
背中のバックに気づいたらしい。
「有栖川公園。桜が散っちゃう前に」
「雨が降らないといいけど」
「予報では夜からだから大丈夫だよ」
「桜ももう見納めね。あ、張り紙みた?」
祖母がドアに目をやる。
「アシスタントさん足りてなかったっけ?」
「一人おうちの都合でしばらく休むんですって」
祖母はそう言ってから、ふと思い出したように
私を見た。
「お薬はまだ飲んでるの?」
「飲んでるよ。一日一回。お医者さんは長期的にコントロールしていこうって」
去年の夏休み明け、あの日みたいに全身が熱を持って腫れ上がることは、今はもうない。
「焦らず気長にね」
祖母は青海波模様の大皿を手にとると、窓に向けて傾けた。
「こうすると海みたいに光が動くのよ。青い波の模様の間を光が滑っていくの。キラキラして綺麗でしょう?」
その青にふと、あの冬の日、新宿の美術館で出会った青い髪の人を思い出す。
青年というには線が細く、少年というには大人びていた。
美術館なのに黒いサングラスをかけていた、ちょっと変わった彼のこと。
多分もう二度と会うことはない。
あの時はそう思っていたのに。
[次のお話し ↓]
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