舞い踊れ!第六話:楽屋裏 欠落抱く 三人衆
日がすっかり傾き、江戸の空が茜色に染まる頃。 参蔵屋の大番頭・光五郎は、立派な菓子折りの手土産を小脇に抱え、息を切らして大芝居の役者たちが滞在しているという長屋へとたどり着いた。
表通りの喧騒から少し離れたその長屋は、江戸中を熱狂させている役者たちの住まいにしては思いのほか質素であった。 木戸が開け放たれたままの薄暗い庭先では、裏方とおぼしき者たちが忙しなく雑用をこなしている。
光五郎は手土産を抱え直し、こほんと一つ咳払いをして居住まいを正した。
「頼もう。私は参蔵屋の番頭の者だが、大看板の中村芝翫殿にお目通り願いたい」
光五郎が大きな声で呼びかけると、庭先で手拭いを畳んでいた小柄な男がビクッと振り返った。 しかし、その男は一言も発さない。ただひたすらに目を丸くし、慌てたように両手と首を激しく振り、口をパクパクと開閉させるばかりである。
光五郎にはその身振り手振りの意味が全く読み取れなかった。
(なんだこの男は。人がせっかく丁寧に話しかけているというのに、無言でバタバタと奇妙な踊りを見せおって……)
光五郎が訝しげに眉をひそめていると、無言の男は己の言葉が伝わらないことを悟ったのか、深い深いため息をついた。そして、すぐ隣で背を向けて洗い物をしているもう一人の男の肩を、ポンポンと叩いた。
「おう、巳之助(みのすけ)。どうした?」
肩を叩かれた男――三郎助(さぶろうすけ)が振り返ると、巳之助と呼ばれた小柄な男は、三郎助に向かって何やら手信号のような身振りを送ると同時に、足でドンッ、シュッシュッと地面を擦るように踏み鳴らした。
光五郎から見れば滑稽な動きにしか見えなかったが、三郎助はそれを見ると、ニコニコと人の良さそうな笑みを浮かべて大きく頷いた。
「なるほどなるほど! 表にお客さんだな!」
そう言うと、三郎助は手についた水を払い、光五郎に向き直って深々と頭を下げた。
「とんだ無礼をお許しくだせえ。手前は三郎助と申しやすが、実は耳が全く聞こえねえのでございます。そしてこの巳之助は、声が出せねえのでございます。今、喋ることも聞くことも『両方できる者』を奥から連れてまいりますゆえ、少々お待ちくだせえ」
なるほど、それで先ほどから頓珍漢な対応になっていたのか。 光五郎が心の中で納得していると、巳之助がバタバタと長屋の奥へ駆け込んでいった。
(……声を失った男に、音を失った男か。華やかな大芝居の裏側とはいえ、難儀な者たちが裏方として働いているのだな)
光五郎が少しばかり同情の念を抱いていると、程なくして長屋の奥から巳之助が戻ってきた。 三郎助の言葉通り「目と耳と口」がまともに使える男を連れてきたのかと思いきや、巳之助に手を引かれて現れたその男は、目を固く閉じたまま手探りで歩く盲目であった。
(……声を失い、音を失い……連れてきたのが、光を失った男だと!?)
光五郎が呆気にとられていると、手を引かれてきた盲目の男が愛想よく口を開いた。
「お待たせいたしました! 手前は文次(ぶんじ)と申しやす。して、ご用件は!」
元気が良いのは結構なのだが、文次は光五郎のいる場所とは全く見当違いの方向――庭先の石灯籠――に向かって、堂々と胸を張って喋りかけている。
巳之助がやれやれと首を振り、無言のまま文次の頭を鷲掴みにすると、ぐいっと強引に光五郎の方向へ首を向け直した。
「おっと、すまねえ! お客さん、こっちでしたか!」
文次が頭を掻きながら笑う姿を見て、光五郎は眩暈を覚えながらも手土産を差し出した。 もちろん文次には見えないが、光五郎は生真面目に頭を下げる。
「うむ。実はかくかくしかじかで、あの舞台の『七難隠す化粧』のやり方を、是が非でも芝翫殿に直接教わりたいのだ」
光五郎が熱を込めて用件を伝えると、文次は困ったように腕を組んだ。
「はあ……化粧の秘伝なんぞ、そう易々と教えられるもんじゃありませんよ。第一、座長たち役者衆はさっき帰ってきて、化粧のまま皆そろって湯屋(公衆風呂)へ行っちまいました。いつ戻るかもわかりませんし、またの機会になすってくだせえ」
「そこをなんとか! これはお家の危機なのだ! 役者殿が戻るまで、ここで待たせてくれ!」
有無を言わさぬ大番頭の凄まじい気迫に押され、文次は「……仕方ねえなぁ」とため息をついた。
「じゃあ、そこの上がり框にでも腰掛けてお待ちくだせえ。おい、三郎助、巳之助! お客さんにお茶をお出ししろ!」
文次がまたしても明後日の方向(今度は物干し竿)に向かって叫んだのを、巳之助が面倒くさそうに首を直し、それから三郎助に向かって両手で湯呑みを持ち上げるような身振りをした。 ここから、凄まじいドタバタ劇が始まった。
耳の聞こえない三郎助は、巳之助の身振りを見ると、パッと顔を輝かせた。
「おうおう、そうかい! まだ日は落ちてねえが、もう酒だな! 待ってろ、極上のやつを出してやるからよ!」
三郎助はニコニコしながら戸棚へ向かい、上機嫌で徳利(とっくり)と猪口(ちょこ)を取り出そうとする。大の酒好きである彼の中では、常に「客人のもてなし=酒」という勝手な方程式が出来上がっているのだ。
その徳利が触れ合うかすかな音を、視力を失った代わりに極限まで研ぎ澄まされた聴覚で察知した文次が、すかさず明後日の方向(庭の植え込み)に向かって怒鳴り声を上げた。
「違うわ! 茶だ茶! なんで客人の前で明るいうちから酒盛り始める気なんだ、この呑兵衛野郎!」
文次の怒号は当然三郎助には届かないが、巳之助が慌てて三郎助の肩を叩き、両手を交差させて「違う」と示し、改めて大げさに「お茶をすする」身振りを繰り返した。
三郎助はそれを見て、ポンと手を打った。
「なるほどなるほど! わかったぜ、茶請けの菓子だな!」
そう言って、三郎助は今度はおもむろに戸棚から茶菓子(煎餅)の入った鉢を取り出し、ドカンと光五郎の前に置いた。
光五郎は目の前に置かれたパサパサの煎餅を見つめ、瞬きを繰り返した。
(……いや、喉が渇いているところに、煎餅だけを出されても……)
光五郎が困惑していると、音で状況を察した文次が再び怒鳴る。
「おい、三郎助! お茶はどうした! お客さんの喉がカラカラだぜ!」
巳之助が激しく足を踏み鳴らし、三郎助の注意を引いてから、必死に急須の形を手で作って見せる。 それを見た三郎助は、きょとんとした顔で首を傾げた。
「ん? お茶は出さねえのか? ……ああ、そうか! 茶請けがあるなら、お茶じゃなくてやっぱり酒か!」
「だから酒じゃねえって言ってんだろ!!」
再び嬉々として徳利に手を伸ばそうとする三郎助と、怒鳴り散らす文次。 一向に話が進まない永遠のループ状態を前に、巳之助は深い深いため息をついた。そして、呆れ果てたように自ら急須を持ち、とぼとぼと湯を沸かしに奥へと引っ込んでいったのである。
その一連の滑稽で不器用なやり取りを見つめながら、光五郎の目頭は次第に熱くなっていった。 懐から手拭いを取り出し、ずずっ、と鼻をかむ。
(ああ……五体満足でありながら、お見合いが五十回全滅したくらいで胃を痛め、弱音を吐いていた己の何と不甲斐ないことか……!)
光五郎の目から、ほろりと大粒の涙がこぼれ落ちた。
(彼らは己の欠落を責めることもなく、不器用ながらも助け合い、懸命に裏方の仕事を全うして生きているではないか。それに比べて、私はどうだ。参蔵屋の大番頭として、もっと主家のために……藤お嬢様のために、這ってでも頑張らねばならんというのに!)
光五郎が一人で勝手に深く感動し、手拭いで涙を拭いながら生真面目な決意を新たにしていると、長屋の表の戸がガラリと荒々しく開いた。
「おうおう、湯屋の帰りは風が冷てえな! まったく、化粧を落とすだけでも一苦労だぜ!」
ドヤドヤという騒がしい足音とともに、風呂帰りですっかり化粧を落とし、無精髭をうっすらと生やしたむさ苦しい男たち(役者衆)が長屋に入ってきたのだった。
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