6月の読書予定 5月の反省会議
さて、6月の読書予定と5月の反省をしていこうと思う。
私の目標や反省を真剣に読んでくれている人がいるのかわからない。
というのも、失敗続きというか、目標も反省も長期記憶どころか短期記憶にすら書き込まれない様子を見て、真に受けている人もいなくなってきたように思うこの頃だけれど、目標だけは立てたいじゃないかということで書いていく。
5月の読書目標は
① 山口昌男
② ウイリアム・アイリッシュ『幻の女』
③ エラリイ・クイーン『Yの悲劇』
④ その場の思い付きで
というものだった。かなり軽いものにした。
山口を読み始めると、思っていた以上に時代の頭で考えられていて、私にとってはまじめに読むのが難しかった。
というのは、山口や時代のせいというよりも、むしろ今の時代にも何処の時代にもお邪魔できない私の頭のほうの問題で、ある立場からの発言をなかなか消化できない厄介者のぼやき的なものが読書より先に響いた。私の思考的な怠惰や齟齬を見せつけられるような経験となった。
どうしても言いたいことと、やっている形式とのズレが見えてくる。
例えば全然関係のない話として、今朝たまたま、吉本隆明『読書の方法』を手に取って少し読んだけれども、冒頭から、
手当たり次第に読んで、有益も無害もなく、世界の判断に役立つつもりでもない。
何に向かって読むということもなくて、むしろそれを無にしてしまうようなものが読書には必要だ。
的なことが書かれている。
私は吉本のしぐさには、どこか機械的なところがある気がしている。
自分の中で確信が生まれると、その地点から頭も素材も機械的に動き、操作されて、それらのことが組み合わさっていく。その組み合わせが突飛であっても、頭の働きはそういうものには見えない。吉本の頭の中で機械のようにまさぐられた跡がにじみ出してくる。
つまりは、有害無害、判断に役立つ/立たない、無にしてしまう、などではなく、読書をすることである頭の働き方を獲得してしまった男を見つけるということになる。
内容や何かではなく、そういう風に動く頭自体を本人自覚なく得たのだとすれば、もはや機械のように動き続けるしかない人間を生んだということかもしれない。情緒的な言葉の裏でもネジが動いているように思えてくる。それを本人は萌え出だすような感覚で捉えている。
読書から得たものと得たわけではないと自認しているものとのズレこそが見えてくる。
こういうことを書いてしまうと、あの吉本ののっぺりとしたどもり調子の声で、「だってそう考えなければ仕方がないじゃないか」「他にやり様がないことをそうやって責めてみたってどうにもならないじゃないか」などと言われそうな気がしてくる。
とにかく、軽く書いて済ませてしまったけれど、こういうことが見えるとき、ある時代の本を時代に乗って、または時代を超えたと本人が考えているような統一的な頭の働かせ方に乗って読むことが難しくなってくる。
ミステリが読めないのも似た構造になる。
ミステリの箱庭にお邪魔できないという私の側の問題に直面する。
それを猫があり得ないような隙間を平然とすり抜けるように、するりと読んでしまう自分を空想するのだけれど、いつでも私は犬の顔で抜けられない鉄格子に頭をぶつけている。
一冊の本が読めないことには別の理由もある。
読みだして、何かを思ったときに、それをすぐに書かなければならなくなっている。その場で書かないと消えてしまうからだ。
内容やアイディアはメモして残るのだけれど、その場で書かなければ、熱も理由もなくなって書けなくなる。
そのために書き出すのだけれど、書き出すと読んでいたものは置いてけぼりになって、ほとんど読み終わったものになる。
書くために読んでいるわけでもないものも、書き終わったり、熱が冷めると読み終わっている。
または、「ああ、あれはなんだっけ?」と別の本を探して、その本の方が主題になる。その本もまた別の本に繋がって……、数行読んだ本たちはもう読み終わったものになっていく。
または本に限らない。
読書の最中に何か別のことが思い浮かんでいて、それが気になると文字を追いながら別のことを考えている。そういうものが何となくまとまると書かなければならなくなる。
ひとまとまりではなくても、ある程度の熱量が引き継いでいけるくらいの塊にしておかなければならなくなる。
塊で終わると、もちろんそれは溶岩の冷えた石ころになって終わるのだけれど、それでも一応の形にして保存しておきたくなる。
読書はもう読書という形でなくてもよくなっている。
こういうこと全体を変えなければ読書目標も何も意味がなくなっている。
それでも目標を立てるのは、目標が必要なわけではなく、ある程度の目安という束感が欲しいだけになる。
なんとなく気に入った女性がいれば、ネックレスやイヤリングを見ても、その想像がリアルになる。ただ一人で宝石を見ても何の感慨もない。
そういうことに似ているのかもしれない。
え?
これは何の話だっけ?
つまりはとりあえずは目標を立ててみようか。
時代を超えて読むとなると、結局古典なのかなぁ。
古典を読みながら、自分の頭をほどいていく必要があるのかな。
今、パッと目について、たまたま並んでいるから、
カルヴィーノ『なぜ古典を読むのか』
ナボコフ『ナボコフの文学講義』
を読もうかな。彼らの頭の動きは嫌というほどわかっていて、結局時代というか形式に回収されるけれども、日本の古典を読みながら、この二冊(実際には三冊)を読んでみようか。
忍耐の訓練、または過剰をどう扱うのかという話になっていくのだろう。
ということで、ウダウダと書いてきましたが、自分の整理をつけていこうという目標となりました。
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