ナボコフ先生、その地図は噓つくのであります!
『ナボコフの文学講義』を読んでいる。
忍耐力のない自分をなんとか騙し騙し操って、とにかく本を手に持っている。
6月の読書予定で選書したので、読もうということで何とかやっている。
以前にも思ったことをまた同じく思った。
頭の中で思っただけなのか、noteや別の媒体に書いたのか忘れてしまったので、ここにも書こうと思う。
ナボコフはこの本の中で、地図や見取り図を作れという。
それは頭の中にそういう映像を思い浮かべろという以上のことで、実際に精密に図を作ることを推奨している。つまりは、まあ、本当はそれくらいの精度で読めということを実践して見せているのだけれど、とにかく本当に図を作ってしまう。
私はそういう読み方がひとつのものとして、あってもいいとは思う。
しかし一方で、そういう読みをするときに、自分が何をしているのかということはわかっていなければならないだろう。
SNSに
『ナボコフの文学講義』を読んでいて思うのは、ナボコフでさえも、というか誰もがある不認知の元に読書しているということかも。
例えば、コップが落ちて割れた、というときにその落下距離はテーブルの高さなどによってほぼ想定されている。
ナボコフが(作中の)地図を描くときも、細部は常識や不認知を土台にして立ち上がってくる。
精密に読んでいるつもりの人ほど、その影がよく見えてくる。
と書いた。
つまりは、私たちもそうだし、ナボコフが精密に読んだつもりであるときも、ある操作が行われている。むしろ、図を作ったりしたときに、その操作が表面化して、実際には齟齬を生み出すものだと思う。
「コップが落ちて割れた」
というときには、落下距離は手に持っている高さやテーブルの高さが読み込まれている。
またコップがぶつかる地面や床は、コップが割れるくらいの強度があり、コップは割れる素材で、またその割れ方はすでに想像されている。割れるときの音も再現されている。
これらを図にしたときにどういうことが起こるのか、コップの素材、その産地やどのような経路で持ってこられたのか、無数の分岐が生じてくる。
思い出のコップかもしれないし、どうでもいいコップかもしれない。そこで割ることに意味があるとか、落とすことに意味があるとか、厳密には処理できない面が無数に出てくる。
それを処理してしまうときに、実際に突き当たるのは、その図ではなくて、どういう処理にしたかということ自体になる。働いてしまった補完の量や方面になる。
ナボコフの言っているのは、コップが落ちて割れた、というようなものではなく、部屋の配置や周辺の地図、それらを移動するときにかかる時間や、日差しの向きなど、そういうもので世界観を掴むということなのだけれど、それはやはりコップの例と同じ処理/補完が生じてくる。
この処理の境をナボコフは常識や不認知に明け渡しているし、それをどの程度明け渡すかは任意かつ、不知になっている。ということは、わかっていないことを精緻に分かったつもりで語っているといことになる。
精緻であるという形式へ埋もれていく所作には無自覚である必要が生じる。または自覚的であるという身振りを示すことで、それへの精密な説明をスキップすることが必要になる。
ただ、これはナボコフ批判ではない。
言葉というものを使って語るとき、読むとき、それが必然的に向き合うというか、集団的に共有することで言葉を動かしているものになる。
言語というものは描かれたものを示すときに、描かれなかったものの補完によって成立するという必然性がすでに組み込まれたものになる。限界の相互関係も否定の相互関係も、常に相互的な配置によってそれが言及可能な位置を得ているからだ。
ナボコフがこの授業をしたのは、当時流行の心理学的解釈や社会学的解釈を嫌い、「まず作品そのものを見ろ」と言いたいがためだ。
そして、ナボコフの図にするという映像化的な解決は、実際には心理学的解釈や社会学的解釈と別種の類型と私には見える。
小説は映像化できないものを書くことがあるし、またナボコフの作品を読んでも、それをしている。
しかし、そういう書き方をする人でも、他人に教えるときには、このような方法になる。それが文学の空白を逆説的に示唆する意図が隠れていたとしても、彼のやり方は映像化やそれに準じる作法になってしまった。
この自己認識のズレが、本当は面白く読まれる種類のものだろう。
文学を共通の何かとして伝達するときに、様々な人が形式に負けたというか、そういうやり方でしか志向も思考もできなかったということが見えてくるものかもしれない。
批評を読んで馬鹿らしいと思うとき、またはそこに面白さを見るときに、文学を説明する矛盾と、文学ではなく論理で面白がる面と、文学をそう読む人がいることを面白がる面とがいろいろに交錯しているということがあって、文学への言及がいつでも失敗に終わることを見届けているにすぎないということ、それ自体を面白がる感じがあるのだろうか。
「ああ、こういう説明にしてしまうのか」
ということだけが見えた時に、それを文学に接続している可笑しさこそが、私たちが笑っていいもののように思えてくる。
そして、文学に文学と名付けたことで動いていくものが、私たちを惑わせ続けているし、指向性を与えて、道の先に何かがあると思わせるもので、それはすでにそれではないものへ向かわせる。
成功だ! と思ったとき、それが幸せな失敗であるにすぎないもので、それをそう思わないということが要求されているとしたら、ちょっと面白い。
このような接続が必然になっているときに、というか、それが必然になっていること自体が生き延びさせているものや、文学以前の仕組みであったときに、可笑しいだろう。
私がここに書いたものも。
一方的な意見では不味いだろうから、少しだけナボコフがしそうな反論を書いてみようか。
以下、空想上のナボコフ的反論
もちろん読者は補完する。そんなことは当たり前だ。
私は読者が補完しないなどと言ったことはない。
問題は、どのように補完するかなのだ。
コップの例についても、 「コップが落ちて割れた」という文章から無数の可能性が派生することは認めよう。しかし小説を読んでいるとき、我々は無数の可能性の世界にいるのではない。 作者が与えた細部によって、可能性は絶えず削減されている。優れた読者とは、勝手な想像を増やす人ではなく、作品が与えた制約を正確に受け取る人だ。
それに地図化は、心理学的読解や社会学的読解と同じではない。地図は本文から作られる。心理学や社会学は本文の外部から持ち込まれる。
十分に注意深い読者は、その構築を追体験できる。
もちろん読解は収束運動だ。しかしそれ以外に何があるのか。
読者が私の作品を読み終えたとき、私が与えた模様を見ているなら、それで十分だ。形而上学的な保証など必要ない。
などなど。
私が思うにナボコフがやっていることは、再読的な収束だ。
その約束が読者とも言えないような対象(自分を含めて)との間で交わされると信じているから書けている。
私からすると、それすらも幸せだということなのだけれど。
遅延ということが行われているのかもしれない。
「かつてあった」とか、「数秒前まであった感触」などが、遅延や延長されることで、それらが存在になっている。
その引き延ばされたものが、そういうものであることを問わずに漠然と配置されたり、それがそれであると受け入れられたときに読みが成立する。
そこに疑問を持った時点で、文学に類すること、いやもっと大きな括りで、言語に関することに疑義が生まれてしまうのだろう。
遅延はないままに足場になり、ないのにあると想定されることで、言語という仕組みが動き出す。動き出すと連鎖になる。
遅延的存在は一瞬のうちに消失というか、明滅しているという感覚で、遅延的な一時物として、言語を駆動させている。
このような運動が読み方や受け取り方の全体を支えている。
これらをナボコフは地図化の過程で本質的な問題にはしない。
その手前で留まることで言及可能になっているように思う。
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