<書評>『野生の思考』
『野生の思考 La Pensee Sauvage』クロード・レヴィストロース Claude Levi-Strauss著 大橋保夫訳 みすず書房 1976年 読んだのは1980年版 原書は、Librairie Plon, Paris, 1962 (パリのプロン書店、1962年)


大学の生協にある書籍コーナーで逍遥していたとき、『野生の思考』と言う書名に惹かれ、さらに表表紙に野生のパンジー(植物)の、裏表紙にクズリ(動物)の細密画があることに、さらに興味を惹かれた。一応哲学書・思想書コーナーにあるのだが、もともと文化人類学の本であるため、こうした表紙の絵になっている。「それはなぜだろう?」と、私は益々関心を深めて読むことになった。
なお、表紙にあるパンジーをフランス語では、「La Pensee」と書き表し、「思考」と「パンジー」は同じ表記になる。そして、本書の末尾にレヴィストロースは、ヨーロッパに伝わるパンジーの民話を紹介して、ヨーロッパ人の思考と「野生の思考」が同じことを、「思考(パンセ)」と「パンジー」が同じ表記になることで、中身も同じものであると述べていると、巻末の解説にはあった。レヴィストロースは、奥が深い。
大学生の頃、本書にある、ヨーロッパ人から野蛮人として馬鹿にされている南太平洋諸国の人々は、道を歩くときに見かける草花の用途を熟知していて、食用・非食用・毒草・薬草の分別だけでなく、花・葉・茎・根のどの部分に効用があるか、さらにそれらの処理方法(調理方法)を全て暗記しているという記述に、わたしは自分の頭の中でコペルニクス的転回が起きる経験をさせてもらった。
高校までの学校教育や新聞などのメディアで無意識に浸透していた、自分の社会観や世界観が根底から覆された気がした。当時、左翼系のメディアでは、日本人が東南アジアの人々を馬鹿にするのは良くない、もっと平等な意識を持って対応すべきである云々という主張をしていたが、そうしたいかにも教条的かつ胡散臭い左翼的アジテーションとはまったく異なる、人類と文化の真相に触れた気がした。
そうして読み進めるうちに、共時態(空間)と通時態(時間)という二項対立の用語を知り(本項後段に引用文を紹介)、さらにレヴィストロースが、言語学から援用した構造主義の概念を文化人類学に応用した歴史的な本であることを知った。さらに、レヴィストロースが南太平洋諸国の人々の思考形態を称賛する一方、ジャンポール・サルトルが差別的なフランス人としての、ヨーロッパ中心かつ優越思考により書かれた『弁証法的理性批判』に対する、センセーショナルな批判論文として書かれていることを知った。
しかし、当時の私は、サルトル『弁証法的理性批判』に対する批判としての哲学論議(最終章の「歴史と弁証法」)については、あまり理解できなかった。もちろん、これらの論議を理解する前提となる哲学の諸概念について、高校の「倫理社会」の教科書レベルしか持っていなかったことがその最大の理由であったが、それでも、全体を通じて述べられている「野生の思考」の素晴らしさから、最終章の哲学論議についてもなんとなく理解したつもりになり、その後の私のささやかな哲学修業が始まる契機にもなった。
その後私は、スピノザ、ニーチェ、メルロポンティ、ハイデッカー、カッシラー、ウェーヴァー、バシュラールらの書籍の一部を読み込むことによって、多少とも若い頃よりは哲学的素養ができてきたと思っている。そこで、今回懐かしさを味わいつつ再読した結果を、<書評>で紹介したい。
再読した中で、本書から引用したい箇所がたくさん出てきた。やはりこの本は名著中の名著だと思う。しかし、NHKのTV番組「100分で名著」では取り上げられないだろうと思う。なぜなら、文化人類学の資料が沢山ありすぎて、これらをひとつひとつ取り上げるのはTV的に無理があるからだ。例えば、サルトルのような文学的かつ哲学的表現の方が、TVには適っているように思う。
と思っていたら、2016年12月に中沢新一の解説で放送していた。
上記リンク先の簡単な紹介によれば、放送内容はレヴィストロースが構造主義の先駆けであることを中心にしているようだ。なお、放送を未見なので憶測でしか書けないが、解説者との関係から類推すれば、構造主義を社会問題の解決にどう役立てるかという話にしたのではないかと思っている。しかし、私はそうした視点で「名著」を読むことは避けている。「名著」とは、何か別の目的、しかも実利的な目的に利用できるから「名著」なのではなく、それ自体で優れた歴史的価値があるから「名著」なのだと私は考えるからだ。そもそも、「役立つ」とか「役立たない」などという(つまり、「儲かる」とか「儲からない」と同じような俗物的な)基準を私は信用していない。
閑話休題。この「名著」から、私が感動した箇所を引用して紹介したい。ページ数の次にあるのは章題であり、また末尾の<参考>は、私の読み方である。さらに引用文中の(注)は私が参考までに付記したものである。
P.29「具体の科学」
・・・何度か美術の問題のそばをかすめて通った。そこで、このような展望の中では美術が科学的認識と神話的呪術的思考の中間にはいることを簡単に述べておいてもよいだろう。周知のごとく、美術家は科学者と器用人(ブリコラージュ)の両面をもっている。職人的手段を用いて彼はある物体(オブジェ)を作り上げるが、それは同時に認識の対象(オブジェ)でもある。さきに記したごとく、科学者と器用人(ブリコラージュ)の相違は、手段と目的に関して、出来事と構造に与える機能が逆になることである。科学者が構造を用いて出来事を作る(世界を変える)のに対して、器用人(ブリコラージュ)は出来事を用いて構造を作る。
<参考>
「美術家は科学者と器用人(ブリコラージュ)の両面をもっている。」という箇所に、美術(芸術)の真相を教えられた気がした。そしてそれを体現したのは、レオナルド・ダビンチであり、彼の「人体解剖図」はまさにその好例だと思う。
P.34-35「具体の科学」
出来事とは偶然性の一つの様式でしかなく、その構造への統合(必然的とみなされる)が美的感動を生み出すのである。そしてこのことは、考察される美術のタイプの如何にかかわらず成り立つ。様式、場所、時代しだいで、この偶然性は、美術的創作の異なる三つの和のもとで、言いかえれば異なる三つの時期にあらわれる(それらが重複することもある)。偶然性は機会のレベル、制作のレベル、用途のレベルのどれかに位置する。
(中略)・・・美術的創作とは、構造と偶然事とのつき合わせという動かぬ枠の中で、作家がモデルとマチエール(注:素材)と使用者のうちどれからの情報をとくにさきに考えて制作するかにしたがって、場合によりモデルとの、もしくはマチエールとの、あるいは使用者との対話をもとめることである。
<参考>
美術的創作過程の実態が、ここに述べられている。そしてこの仕組みは、文学の領域でも同じだと思う。構造と偶然事の中から、対象(モデル)・文体(素材)・読者(使用者)のいずれかを優先するのかで、作品のベクトルは決まる。
P.37「具体の科学」
また美術が、どんなプロ的なものでも、それがわれわれを感動させるとすれば、その結果にいたるためには、偶然性を消して機会をおもてに出すような適当なところで押さえ、その偶然性を作品にもり込み、それによって物それ自体としての尊厳を作品に与えることが条件になる。アルカイック美術、未開美術、および初期段階のプロ美術だけが古くさくならないのは、偶然事を生かして制作に役立てるからである。すなわち、与えられた生のものを意味づけの経験的材料として完全に使おうとするからである。
<参考>
一般に技巧のみに優れた美術作品は、高く評価されることはない。なぜなら、作家の個性や独創性が見られないからである。しかし、古いものはたとえ技巧的に稚拙であっても、それだけで価値があるものとなる。その理由は希少性が第一だが、次に制作目的が功利的でないことがある。よくアルカイック美術や未開美術は、呪術的な目的をもって制作されたと解説されるが、それは美術の何たるかを知らない人の憶測でしかない。美術は、何よりもそれ自体を作りたいという意志から創造される。そしてそこには功利性はなく、人が美術を通じて、しかも制作という偶然の機会を通じて、自然との関係を愉しむことである。
P.51「トーテム的分類の論理」
いかなる時代、いかなる地域においても、「野蛮人」が、いままで人が好んで想像してきたように、動物的状況をやっと脱したばかりで今なお欲求と本能に支配されっぱなしの存在であったことは、おそらくけっしてないのである。また、情意に支配され、混乱と融即の中に溺れてしまった意識でもない。さきに引用した例や、さらにそれに加うべき他の例によってわかるように、彼らは思考能力のあらゆる操作に習熟し、ヨーロッパの古代および中世の博物学者や錬金術師、たとえばガレーノス、プリニウス、ヘルメス=トリトメスギストス、アルベルツス・マグヌスなどに近い考えかたをしている。このように見ると、「トーテム的」分類も、オリーブやオークや月桂樹や野生セロリなどの冠で自分の言いたいことを述べたギリシア人やローマ人の植物標識とおそらく見かけほど異なっていない。
(注:参考のため、本書の訳注を以下に引用)
ガレーノス:Klaudies Galenos(131頃―201頃)ギリシアの医者。小アジアのペルガモンに生れ、ローマで盛名を得た。その唱えたヒポクラテス流の四体液三精気説による医学理論と本草薬物学は、十七世紀までヨーロッパ医学を支配した。医学理論はまったくの空想に過ぎないが、事実の観察に基づくその動物解剖学は高く評価される。
プリニウス:Caius Plinius Secubdus(23-79)大プリニウス。ローマの博物学者。その『博物誌』Naturalis historiaは古代の博物学と諸技術の集大成として貴重な資料である。ヴェスヴィオ火山の噴火に際して、救援活動と観察に従事中に有毒ガスのために死亡した。
ヘルメス=トリトメスギストス:Hermes Trismegistos ギリシアで、とくに新プラトン主義者たちがエジプトのトート神に与えていた名前。神秘学、占星術、錬金術、呪術などに関する、いわゆる『ヘルメス文書』の著者とされていた。Hermetique, Hermetisme(英Hermeticism)などの語は、錬金術の祖とされたヘルメス=トリトメスギストスから来ている。
アルベルツス・マグヌス:Albertus Magnus(1193頃―1280)ドイツ生れの神学者、哲学者、ドミニコ会士。アリストテレスやアラビアの哲学、科学を深く研究し、新プラトン主義をとり入れ、スコラ哲学の形成に大きな役割を果たした。(トマス・アクィナスはパリでアルベルツスの教えを受け、それを継承した。)非常な博識で知られ、金の精錬法、硫黄やカリの研究、硝酸の作用の研究、化学親和力の観念など、各種の科学的貢献を行った。
<参考>
ここに「野蛮人」と称されている対象は、時間軸で二つに分かれる。ひとつは「原始人」と称される、有史以前の人々であり、もうひとつは同時代に生きる「未開人」と称される、ヨーロッパ文明の影響が少なかった人々である。そして、この二種類の「野蛮人」は、「文明人」であるヨーロッパ人とヨーロッパ文化の影響を受けた人々から、遠い遅れた存在ではなく、むしろ思考活動の次元ではまったく同じレベルにある。
そして、ここに言及されている歴史上の偉人に共通するのは、キリスト教文化及び過度の科学中心信仰によって「悪魔」、「邪教」、「非論理的」、「疑似科学」等と排除されてきた、錬金術に代表される人類の深層心理(ユング的に言えば、集合的無意識)を基盤にした、高度な学識と理論の碩学であることだ。レヴィストロースが敢えて彼等の名に言及した背景には、「野生の思考」が一般的な「科学的思考」などではなく、これらの集合的無意識からの深淵な思考であることを推測させる。
P.184「範疇、元素、種、数」
現在わかっている限りでは、大きさとしては二千という数字が、いわば一つの能力の限界に対応しているように思われる。口頭伝承に基づく民族動物学では、記憶能力、定義能力の限界がそのあたりに位置するのであろう。この限界値が、情報理論の観点から見てなにか意味のある性質をもつものかどうかを知ることができれば面白いと思う。
<参考>
人が記憶できる数が二千(個)というのは、その計数の仕方がわからないので、なんとも言えないが、個人的にはもっと多いのではないかと思う。その多いという理由は、人の脳は、ある記憶した対象を基に多くの類推や関連物を「思い出す」ことができるわけで、これはニューロンの糸が脳内に多く伸びていることに良く象徴されていると思う。つまり二千の二千倍を「記憶」しているのではないだろうか?
P.245-246「種としての個体」
他のクラスの動物より鳥類の方が種ごとに人間の名をとりやすいのは、まさに、鳥が人間とは異なっておればこそ人間になぞらえてよいからなのである。鳥は羽毛に覆われ、翼があり、卵生であるし、また生理的にも、空気中を飛びまわれるという特権があって人間社会とは分離している。
この事実によって鳥類は、人間のコミュニティから独立した別のコミュニティを形成している。しかし、そのコミュニティは、まさにその独立性そのもののゆえに、別個ではあるがわれわれの社会と相同の社会であるように思われるのである。鳥は自由を愛する。すみかを作って家庭生活をし、子供を育てる。同じ種の他の成員と社会的関係をもつこともしばしばである。そして相互に、人間の言語を思わせる音響的手段でコミュニケーションを行う。
したがって、鳥の世界を人間社会の隠喩と考えるためのあらゆる条件が客観的に揃っている。それにまた人間社会は、別のレベルにおいて、鳥の世界と文字どおりパラレルなのではないか?神話や民間伝承には、この表現様式が頻繁であることを示す無数の例がある。前に引用したチッカソー・インディアンの、鳥の社会と人間のコミュニティの比較はその一つである。
<参考>
鳥類は、かつて地球に繁栄した恐竜類の末裔であり、また進化した形態である。人が、猿から進化したように、鳥も恐竜から進化している。従って、現在地球を人が支配しているように思える一方で、鳥の繁栄も認めるべきである(さらに繁栄しているのは、虫たちだが)。一般に地球外生命体の姿を想像する場合、恐竜の進化形態として爬虫類を参考にする場合が多いが、私は鳥を参考にすべきだと思っている。
そして、ここにレヴィストロースが述べているように、人と鳥はかなり近い存在なのではないかと私は思っている。もしも地球外生命体が、既に地球に(スパイあるいは情報収集方法として)入り込んでいるのであれば、それは人の形態ではなく、鳥の姿をしていると考える方が、実は正解に近いのではないだろうか。
P.262-263「再び見いだされた時」
私にとって「野生の思考」とは、野蛮人の思考でもなければ未開人類もしくは原始人類の思考でもない。効率を昂(たか)めるために栽培種化されたり家畜化された思考とは異なる、野生状態の思考である。
(中略)
・・・野生の動植物と同じく、現在なお野生の思考が比較的よく保護されている領域がある。芸術の場合がそれであって、われわれの文明ではそれに対し、国立公園なみの待遇を与えているが、このような人工的な方式には、当然それに伴う利益と不都合とがある。また、社会生活の中にも、まだ開拓が進んでいなくて、とりわけてこれによくあてはまる領域がたくさんある。そこには、無関心のために、もしくは無気力のために、また多くの場合はわれわれにわからぬ理由のゆえに、野生の思考が依然として繁茂している。
私が野生の思考とよびコント(注:オーギュスト・コント、十八世紀フランスの社会学者)が自発的思考とするものの例外的性格は、とくにそれが自らに定める目的の広大さにある。この思考は分析的であるとともに同時に綜合的であろうとし、また両方向の極限にまで進むことを目指しつつ、同時にその両極間の調停能力を保有しようとしている。
<参考>
「野生の思考」のレヴィストロースによる定義付けがされている。そして、この「野生の思考」がもっともよく発揮されている分野は、芸術(美術)であると述べている。また、社会生活の中に繁茂しているというのは、例えば趣味の世界であろう。そうした、功利的かつ現実的な目的ではなく、ただ自分自身の愉しみとして行う作業(つまり、ブリコラージュ=器用人のすること)に、「野生の思考」があるということだ。そして「野生の思考」には、自己と他者との調停能力まであることに言及している。ここに、非生産的かつ非功利的な存在である芸術や趣味が、むしろ人間にとって最も大切なものであることが述べられている。
P.263-264「再び見いだされた時」
野生の思考を規定するものは、人類がもはや絶えて経験したことのないほど激しい象徴(シンボル)意欲であり、同時に、全面的に具体性へ向けられた細心の注意力であり、さらに、この二つの態度が実は一つのものなのだという暗黙の信念であるとするならば、それはまさに野生の思考が、理論的見地からも実際的見地からも、コントがその能力なしとした「継続的関心」に基づくものであるということではないか?人間が観察し、実験し、分類し、推論するのは、勝手な迷信に刺激されてではない。また偶然の気紛れのせいでもない。文明の諸技術の発見に偶然の作用が一役を演じたとするのが素朴な考えであることは、本書のはじめに見たとおりである。
<参考>
人が何かを見つけたい、何かを作りたい、何かをしたい、等ということの原動力は、その人の持つ好奇心だと思う。そこには建設的とか論理的とか実利的などの前提が入り込む余地はない。ただ、そのことを、そのことだけを、その世界だけにおいて、無心に集中して、人はやりたいだけなのだ。そうした趣味的かつ真摯な作業の結果として、芸術は生まれ、また科学的発見もなされたのではないか。
P.266「再び見いだされた時」
このようにわれわれは、人間と世界が互いに他方の鍵となるという、展望の相互性が機械文明の面に移されているのを再び見出すのである。そしてこの相互的展望は、それだけで、野生の思考の属性と能力を教えてくれることができるように思われる。(中略)登場する存在は、同時に主体として、また客体として、ぶつかり合う。そこで使われるコードでは、両者をへだてる距離の単なる変動が、声なき呪文の力をもつのである。
<参考>
この最後の「そこで使われるコードでは、両者をへだてる距離の単なる変動が、声なき呪文の力をもつ」という表現は、少しわかりにくい。私の解釈では、この「コード」とは、例えば人が自然を理解するのに使う「道具」であり、または「言語」と読み取る。そして、人と自然とを隔たる距離は常に変動するものだから、そこで使われるコードも変動していくから、その変動する全体に対応するようなコードは、科学的なものよりも呪文に近いものになるだろう。そして、そうした呪文を「見える形」にしたものが、芸術なのではないか。
P.291「再び見いだされた時」
古文書の効力はわれわれを純粋歴史性と接触させることである。トーテム呼称の起源神話について前に述べたのと同じで、文書の価値は、書かれた出来事の内的意味から来るものではない。出来事自体は取るに足らぬものであってもよいし、また完全に欠如していてもよい。数行の自筆原稿や文脈なしのサインだけの場合がそれにあたる。しかしながら、ヨハン=セバスティアンバッハの三小節を聞いただけで心をときめかさずにはいられぬ人にとって、彼の署名はどれほど大きな価値を持つことか!出来事そのものは、前にも述べたとおり正式文書以外の方法でも証明できるし、また一般に別の手段の方が正確なのだ。それゆえ古文書には、別にもたらすものがあるのである。一方でそれは根本的偶然性の中で出来事を構成する。(出来事に理あらしめるのは解釈だけで、解釈は出来事自体にはぜんぜん属さないものだから。)他方でそれは、歴史を物的存在たらしめる。まことに、古文書の中においてのみ、過ぎ去った過去とそれが今なお生き残っている現在との間の矛盾の克服が可能なのである。古文書は出来事性の化身である。
<参考>
ここに言及されている「古文書」は、古い芸術作品と言い換えて良いと思う。古文書はその正確な意味を解釈することが唯一の目的ではない。芸術に「解釈」が不要であるように、古文書はそこに書かれていること自体が重要であり、そこから過去と現在をつなぐ時間軸の歴史を想像(イメージ)するための材料なのだ。そこに余計な意味を不可する必要はない。
P.298-299「歴史と弁証法」
したがって、私の展望の中では、自我は他者に対立するものではないし、人間も世界も対立しない。人間を通じて学ばれた真理は「世界に属する」ものであり、またそれゆえにこそ重要なのである。だから、私が民族学にあらゆる探求の原理を見出したのに対し、サルトルにとっては民族学が、乗り越えなければならぬ障害、粉砕すべき抵抗という形で問題を作り出すものとなるのは納得できる。なるほど、人間を弁証法によって定義し、弁証法を歴史によって定義したとき、「歴史なき」民族はどういう扱い方ができるのか?
(中略)
すなわち、現在の地球上に共存する社会、また人類の出現以来いままで地球上につぎつぎと存在した社会は何万、何十万という数にのぼるが、それらの社会はそれぞれ、自らの目には、――われわれ西欧の社会と同じく――誇りとする倫理的確信をもち、それにもとづいて――たとえそれが遊牧民の一小バンドや森の奥深くにかくれた一部落のようにささやかなものであろうとも――自らの社会の中に、人間の生のもちうる意味と尊厳がすべて凝縮されていると宣明しているのである。それらの社会にせよわれわれの社会にせよ、歴史的地理的にさまざまな数多の存在様式のどれかただ一つだけに人間のすべてがひそんでいるのだと信ずるには、よほどの自己中心主義と素朴単純さが必要である。人間についての真実は、これらいろいろな存在様式の間の差異と共通性とで構成される体系の中に存在するのである。
<参考>
ここは、サルトルのヨーロッパ中心思考=未開人蔑視差別思考を批判した箇所である。そして、誰がどうサルトルの思考を擁護したとしても、レヴィストロースの思考が正しいものであることは否定できない。過去も現在も、ヨーロッパも南太平洋も、人が考えることに違いはない。
P.306「歴史と弁証法」
いわゆる左翼の人間は、実践の要請と解釈の図式との合致という特権が与えられていた現代史の一時期にいまだにしがみついている。この歴史意識の黄金時代は多分もう終わったのであろう。終わったのかも知れぬと考えることは少くともできるが、そのこと自体、黄金時代が偶然的状況に過ぎぬことを証明するものである。
<参考>
これもレヴィストロースによるサルトル批判なのだが、ここに言及している「左翼」とは、単に共産主義思想による政治的な「左翼」ではなく、自分たちを「進歩的」、「革新的」、「リベラル(中道)」であり、かつまた唯一の「文明人」であると自称し、「野生の思考」を「未開人の遅れた文化」と一方的に根拠なく決めつける、文化的差別主義者を意味している。そして、そうした思想が一時的に世間で評価されたことはあっても、それは単なる偶然の一過性のものに過ぎず、当然人類共通の真理でもなんでもない、雑多な思想の一つであり、すでに死に絶えているのだ(ニーチェ風に言えば、「死臭が蔓延している」)。しかし、この「既に死に絶えた思想」にしがみつくことで利益を得ている人が、未だに(特に日本で)多くいることが不思議でならない。
P.317「歴史と弁証法」
歴史認識はすでに野生の思考の中に深く根を下ろしている。そこで花を開かないのがなぜかは、いまわれわれにはよくわかる。野生の思考の特性はその非時間性にある。それは世界を同時に共時的通時的全体として把握しようとする。野生の思考の世界認識は、向き合った壁面に取りつけられ、厳密に平行ではないが互いに他を写す(そして間にある空間に置かれた物をも写す)幾枚かの鏡に写った部屋の認識に似ている。多数の像が同時に形成されるが、その像はどれ一つとして厳密に同じものはない。したがって像の一つ一つがもたらすのは装飾や家具の部分的認識にすぎないのだが、それを集めると、全体はいくつかの不変の属性で特色づけられ、真実を表現するものとなる。野生の思考は、imagines mundi(世界図――複数)を用いて自分の知識を深めるのである。この思考がいくつかの心的建造物を作り上げると、それらが世界に似ておれば似ているほど、世界の理解が容易になる。この意味において、野生の思考を類推思考と定義することができたのである。
<参考>
レヴィストロースの用語を借りれば、「野生の思考」とは、通時態(歴史)と共時態(世界)を綜合するものであるとともに、また通時態(歴史)と共時態(空間)という制限を乗り越えてしまう。また、それらを構成する個々の関係性は、自由自在に移動することで、複雑な現実世界への適応性を拡げることになる、という意味に私は理解している。そしてこのコンテキストで類推すれば、「野生の思考」と同意義の分野として、芸術(美術と文学)と神話(口承文芸と呪術)を挙げることができるだろう。
* 巻末の訳注には、いろいろと教えてもらったことが多かった。そのうちの三つを引用して紹介したい。なお、項目の前にある漢数字は該当する本文のページ数である。
P.334-335「訳注」
二八―2 共時態synchronieと通時態diachronie:
もともとソスュールが言語学において言語事実を観察するための二つの見方として立てた区分。「言語状態と進化位相(『一般言語学講義』一一五頁)」訳注六二-1参照。その後言語学では、いろいろ精密な定義を与えて一般に用いられてきた。マルチネ編『言語学事典』及びデュクロ、トドロフ『言語理論小事典』の「共時態/通時態」の項参照。
レヴィ=ストロース以来、「通時態」と「共時態」は人類学をはじめ言語学以外の広い分野で、対象の進化の相と一時期における状態、継起性の軸と同時性の軸、歴史と構造を指して、かなり自由に使われている。しかしレヴィ=ストロースがこの考え方を人類学に導入したのは、単にその二面を区別するためだけではなく、ソスュール以後の近代言語学における共時態優先の確立のもつ意味のためであって、その意味で「構造主義」の出発点になるものである。しかしながら、レヴィ=ストロースは、この二態を区別するだけで満足せず、つぎにその両者を綜合する視点をもとめる。そのとき手がかりにするのはヤーコブソンの史的音韻論である。
P.339「訳注」
六二-1 同時性の軸と継起性の軸 axe de simultaneite et axe de successivite :
「あらゆる科学は、その取扱う事物が占める軸を、より慎重に表示することが望ましいに違いない。どのばあいでも、つぎの図(注:省略)にしたがって区別することが必要であろう。
1,同時性の軸(AB、注:図では横軸)――これは共存する事物のあいだの関係にかかわる。この上では時間の干渉はみじんもない。
2,継起性の軸(CD、注:図では縦の上から下への軸)――この上では同時に一つ以上の物を考察することはけっしてできない。ただし第一軸の事物はことごとく変化しつつこの上に位する。
価値を扱う科学にとっては、この識別は実践的必然となり、ある場合には絶対的必然となる。この領域においては、学者は二軸を考慮しないでは、それじたいとしてみた価値の体系と、時間に即応してみたこのおなじ価値とを識別しないでは、その探求をげんみつに組織することなど、とうていできない相談である。」(ソスュール『一般言語学講義』一一三頁――小林英夫氏訳による)共時態と通時態(訳注二八-2)に対応する。
P.345「訳注」
二〇一-1 ブルローラー rhombe(注:rhombeは「ひし形」の意味で、オースストラリア原住民アボリジニが儀式に使用するものは、英語ではbullroarerと称している。):
オーストラリアにおいては、一般に長楕円形の板で、それに人間の毛髪もしくはオポッサム(注:和名フクロギツネ。鼠に似た夜行性の小動物)の毛などで作った紐をつけたもの。それを空中で回転させることが多い。このような独自の機能のため人類学においてはオーストラリアやニューギニアのブルローラーが有名であるが、この器具自体は世界各地にあり、古代ギリシアの演劇にも用いられていた。(注:Iynxイユンクス UFOに似た円盤状の板に紐を付けたもので、これを振り回して音を出していた。)
上記<書評>の『胡桃の中の世界』に、「イユンクス」に言及した箇所があるので、参考まで添付する。
私は、『野生の思考』は本文のみならず、訳者の偉業でもあるこの巻末の「訳注」が素晴らしいと思う。この訳注は、これから構造主義とか哲学とか民族学あるいは文化人類学を学ぶ者にとって、良い水先案内人=教科書になるものだ。実際、私もそれまで全く知らなかった専門用語を、この訳注を読むことで多くを学んだ。また訳注の存在は、単なる付け足し・参考ではなく、本を読み解く上で重要な部分であることを認識することになった。
特に哲学書などの翻訳は、単純に外国語を日本語に置き替えることではなく、その背景となる思想を良く理解しなければできないこと、さらにそうした思想を作り上げる参考になった各種資料を再確認することが重要である。そうした延長上に、数十年もかけて翻訳された、渡辺一夫のラブレー『ガルガンチュアとパンタギュリエル物語』がある。
<私が、アマゾンのキンドル及び紙バージョンで販売している、ラジオドラマやエッセイをまとめたものです。>
いいなと思ったら応援しよう!
しがない年金生活の一方、健康状態の関係から身体を使う仕事は難しいため、趣味と実益を兼ねてnoteに様々な投稿をしています。皆さまからの私の投稿へのご支援をいただけることは、今後さらに多種多様な投稿を継続していくことにつながりますので、どうぞ宜しくお願いいたします。