<書評>『夢の宇宙誌』、『胡桃の中の世界』
『夢の宇宙誌 コスモグラフィア ファンタスティカ』
澁澤龍彦著 1984年河出書房文庫 初出は、1964年美術出版社。

文庫本カバーの裏には、「・・・観念の可視化作用に関心を寄せてきた著者が、・・・多様なイメージに通底する人間の変身願望、全体性回復への意志、大宇宙と照応する小宇宙創造への情熱などを考察するエッセー集・・・」とある。もっと簡単に言えば、澁澤龍彦が大好きな、魔物や怪物が登場する文献から、澁澤好みのものをピックアップしたエッセーということになるだろう。
また、巻末にある著者の「文庫版あとがき」には、「1960年代に刊行した・・・著者のなかで、私のいちばん気に入っている」ものと書かれており、その理由は「私は自分なりにエッセーを書くスタイルを発見したのだった」と述べている。つまり、この作品で、澁澤龍彦としてのスタイルが確立したということだ。
その中でスタイルを確立するのに役だったテーマとして、「玩具(ホムンクルス、ゴーレム、怪物、貝殻)」、「天使」、「アンドロギュノス(両性具有)」、「世界の終わり(ヨハネの黙示録及び西暦1000年の世紀末)」の各項目が提示されている。澁澤は、この各項目について、古今のヨーロッパの文献や資料を慫慂し、そこで見つけたものを紹介しては、自分なりの理解や解説を加えている。・・・要するにこれが、澁澤の発見した「エッセーを書くスタイル」=文体となったのだった。
実際、澁澤の著書は、こうした博学なネタを基にして、そこから想像の翼を広げる形態が多い。それは、澁澤の名を一躍有名にした、マルキ・ド・サドの生涯をまとめたものでも同じ手法で書かれていた。一方澁澤は、1960年代を「政治の季節」と称して、そこから自分が逃れる道として「魔道」を選択し、その先達である京都に隠棲していた稲垣足穂に面会したことを、わざわざ記している。澁澤は、政治よりも魔道を選択したのだが、これは激動の時代に生きた芸術家(アウトサイダー)としての、最適な選択だったと思う。
ところで、澁澤が「政治の季節」と称している時代は、今から振り返れば、これは日本における外国の共産主義スパイとアメリカの資本主義スパイとの陰湿な戦いを背景とした、世間知らずの若者たちによる「政治ごっご」という稚戯でしかなかったと私は見ており、またこのことはその後の歴史が証明している。そうした「政治ごっご」の成れの果てが、国際テロリズムに共謀した大量殺人であり、また内ゲバによる陰惨な虐殺行為であったことを、私たちは決して忘れてはならないと思う。そして今や遠い過去になっているこの稚拙な「政治ごっご」は、戦前のファシズム同様に、若者や大衆がいつでもどこでも簡単に陥る危険な「流行=ファッション」であることを、改めて肝に銘じたい。ファシズムも「政治ごっご」も、今は隠れていてもすぐそこにあり、いつでも表舞台に出てくることを待っている。
政治と歴史の話題に逸れてしまった。本書の中で、私の感性に響いた箇所があったので、これを紹介したい。ページ数の次の( )は、章題である。また、<個人的見解>として、私の見方を付した。
P.57(玩具について)
遊びと労働を区別するポイントは、いろいろとあろうけれども、前者がつねに部分ではなく、全体をめざしているという点に、その一つの基準を置いてもよいのではないかと思われる。全体をめざした労働は、遊びと区別がつかない、世界に関する一つの哲学体系をまとめようとしている孤独な形而上学者は、無心に遊んでいるように見えるが、一方、科学の狭い一分野の技術的応用によって、何かの品物を製造したり、大きな工場で大勢で作業したりしている人間は、いかにも真面目に立ち働いているような印象を与える。これは、ひとえに目的としての全体と部分の関係である。
<個人的見解>
遊びと真面目の区別は難しい。何かひとつの視点で分けようとしても、それは難しいと思う。もし分けるとすれば、ホイジンガが『ホモ・ルーデンス』で述べるように、「それ自身が目的となっているもの」=「遊びのための遊び」が遊びであり、「別のことを目的としているもの」は真面目であると思う。
P.161(天使について)
「まことの愛の形式は天使的な思考の裡に存する」と言ったイタリアの神秘思想家ピコ・デラ・ミランドラは、わたしの最も愛するルネサンス汎神論者の一人であるが、――バティスタ・デラ・ポルタの観察によれば、ピコ自身も天使のように美しい容貌をしており、三十一歳で夭折したのであったが、――彼は、人間はひとつのミクロコスモスであって、教養を重ねれば天界の上級天使の位階にまで近づき得る能力を、神の愛によって与えられていると考えた。
ピコ・デラ・ミランドラ
<個人的見解>
ピコは、著書『人間の尊厳について』で上述のようなことを主張した結果、もちろん異端糾問所にかけられそうになったが、メディチ家によって救われたそうだ。しかし、このピコの思想は、実はかなりの部分で正しいと思う。まず、仏教における悟りとは、正に人が天使の位階に昇り詰めることだと思う。
次に、人類が、古代に地球にやってきた地球外生命体によって、自らのDNAから作られたものであるならば、創造主である地球外生命体の下へ、将来「還る」ことができるだろう。それは天界に赴くことを意味する。またこうしたことを考えたピコは、地球外生命体に相当に近い存在だったのだろう。だからこそ、美しい容貌を持ち、また夭折したのだ。
P.228-230(世界の終わりについて)
「米国イリノイ大学工学部のフェルスター教授は、六十六年後の西暦2026年に、人類最後の日がやってくるだろうと予言した」・・・同博士は人口増加について数学的計算をした結果、かかる結論を出したもので、問題の西暦2026年には、人口はほとんど無限にまで殖え、人間はみずからを殺戮せざるを得ない状況にまで追いつめられる。博士の説によると、人類は飢えや放射能や、病気や天災などでむやみに滅びるものではなく、むしろ逆に、人口が殖えすぎて押し合いへし合いの結果として絶滅する、というのである。
――とすれば、この人類の恐ろしい未来風景は、わたしが先ほど述べた、レミングや羚羊などの狂気の運命をそっくりそのまま模倣したものにほかならず、より高次の超越的な目から見れば、六十六年後の人間の運命も、全く動物たちの盲目的な行動と相似の形態をあらわすものと言えはしないだろうか。いかにも小動物の集団自殺のイメージには、人類絶滅のおイメージが雛型として隠されていたのであった。
<個人的見解>
2026年というのは、現在からもうすぐである。フェルスター教授の生きた1960年という時代では、2026年は遥かに遠い未来であったが、今はすぐ目の前にある現実である。そして、人類が自らの愚行によって絶滅するというシナリオは、無謀な核ミサイルの製造と実験を繰り返す国があることを考慮すれば、予言が実現しないことを、ひたすら祈るしかない。
P.237(世界の終わりについて)
「世界がふたたび生き返るためには絶滅しなければならない時がやがて来るだろう」と彼ら(注:ストア派の思想家)の一人セネカは書いている。「その時はすべての原素(エレメント)がそれ自身の重みによって落下し、星々は互いに衝突し、物質はいたるところで燃えあがるだろう。われわれが現在見ているものはすべて、宇宙の大火によって焼きつくされるだろう」と。キケローの「神々の本性について(ナトウラ・デオルム)」にも、同じような考えが述べられている。
<個人的見解>
これは、原題宇宙論による恒星の生涯やブラックホール、そしてビックバンを繰り返す宇宙の生成に、酷似している。まるで、こうした宇宙論を誰かから教えてもらったのではないかと思えるような、正確さを持っている。そして、私は「彼らは誰かから教えてもらったのだ」と考える。もちろん、教えてくれたのは古代に地球を訪問した地球外生命体であり、セネカやキケローは、古代人が語り伝えた「宇宙創成論」を、どこかの神殿で発見したのだと思う。
『胡桃の中の世界』
澁澤龍彦著 1984年河出書房文庫 初出は、1974年青土社。

文庫本カバーの裏には、「・・・『夢の宇宙誌』のモチーフを継承し発展させた本書は、その後の著作活動の展開を告知するメルクマールである。」とある。簡単に言えば、『夢の宇宙誌』と同じテーマで、続編としたまとめたエッセーであり、この分野が澁澤の得意とするものであったということになる。
『夢の宇宙誌』同様に、面白おかしく著者の博学と闊達な文章を楽しませてもらったが、こちらはなぜか抜粋しようと思う箇所がなかった。ただ以下の「ギリシアの独楽」として登場するイユンクスなるものに、非常に関心を惹かれた。しかし、本文は長文になるので引用せず、そのイユンクスの解説図と、私の関心事項を参考までに記した。
P.177-197(ギリシアの独楽)
イユンクスというギリシアの魔女が使った呪具の一部は、その形態が映画『2001年宇宙の旅』で登場した宇宙ステーションに酷似している。映画の製作者がイユンクスを意識したということは想像できない一方、おそらくは銀河の形態を意識したものだろうと想像できる。一方、イユンクスを作った古代ギリシア人は、紐を通した円盤を回転させて音を発することを目的に製作しているが、その形態は偶然に銀河(及び宇宙ステーション)と酷似している。また、その発する音は雷鳴などの自然の驚異を再現したものとされているが、この形態と音は、宇宙と自然そして「神」的存在を表現したものではないだろうか。
つまり、古代ギリシア人は(来訪した地球外生命体によって)銀河を知っていた(教えられていた)。また、雷鳴に似た武器=レーザーを使用する「神(ゼウス)」が実際にいたのだと思う。そして、この「神(ゼウス)」とは、古代に地球に来訪した地球外生命体であり、彼らの鮮烈な記憶として、古代ギリシア人は、銀河と雷鳴とを表現するイユンクスを呪具として製作したのだ。それから数千年後、地球外生命体=神による人類の進化を表現した『2001年宇宙の旅』において、神が由来したところの銀河に似せた宇宙ステーションが出現したのは、まったく偶然ではなく、必然であったと私は考えている。
<私が、アマゾンのキンドル及び紙バージョンで販売している、短編小説集です。>
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