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自由な社風です!と言われると、逆に疑いたくなる。 #琥珀の夏

「自由な社風です!」
そう言われると、最近ちょっと疑ってしまう。
例えば、「意見を自由に出していい」と言われても、本当に“自由”な空気って、どれだけあるだろう?

辻村深月さんの『琥珀の夏』を読んで、そんなモヤモヤが改めて浮かび上がった。



舞台は「ミライの学校」という宗教団体。
親元を離れた子どもたちが共同生活を送り、自分で考える力を育てる――
そんな理念のもとで運営されている教育施設だ。

象徴的なのが「問答」という取り組み。
戦争や平和などのテーマについて、生徒自身に考えさせ、答えを導かせる。

一見すると、自主性を育てるように見えるけれど、
ある子どもがこう言う。

「結局は、大人の考える“正解”に誘導されてるだけ。
褒めてもらうための答えを探すようになる。」

この一言に、ゾッとした。
「自由」や「自主性」といった言葉が使われる場ほど、
その裏に見えないコントロールが潜んでいることがある。


以前勤めていた「自由な社風」を標語にした会社でも、似たような感覚を味わった。

「なんでも発言していいよ」と言われながら、実際に通るのは声の大きい人の意見ばかり。
リモートOKなのに、出社しないと「やる気がない」と見なされる空気。

言葉としての「自由」は掲げられていても、
実際にその自由を使えている人は、ほんの一部に限られていた。


もちろん結局は、その場所でどう自分を活かすか。が基本だとは思うけど、
自由な社風を実現するのは現実的には難しい。
自戒も込めて。


本当に自由を大切にするなら、
その価値観を実現する「仕組み」が必要なんだと思う。

キラキラした言葉は、人を惹きつける。
でも惹かれるからこそ、立ち止まって問いたくなる。

それは本当に、必要な価値観なのか?
仕組みとして、実現されているのか?
その言葉の裏にあるものを、ちゃんと見ようとしているか?

『琥珀の夏』は、そんな問いを静かに突きつけてくる物語だった。

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