パウロが伝える福音──全ての人が信じて生きる神の計画/コリント第一15章前編
パウロが伝える「本当の福音」
新約聖書において、パウロ書簡とされるもののうち、コリント第一は「真性書簡」、つまりパウロ本人によることが確実とされています。
そのコリント第一の中でも、とりわけ第15章には、パウロが「これこそ福音」と伝えた核心がまとめられています。
ところが近年、誤読による解釈が拡散され、多くの信者が本来のパウロの意図を正確に受け取れていません。
キリスト再臨が迫る今、あらためてこの箇所を丁寧に読むことには、大きな価値があります。
📌この記事では──
コリント第一15章の本文に基づいて、パウロが伝えた福音の核心を読み解いていきます。
コリント人への第一の手紙
── 第15章 1-22節 ──
1|思い起こして欲しい、あの福音
【コリント人への第一の手紙 15章1-2節】
1 兄弟たちよ。
わたしが以前あなたがたに伝えた福音、あなたがたが受けいれ、それによって立ってきたあの福音を、思い起してもらいたい。
2 もしあなたがたが、いたずらに信じないで、わたしの宣べ伝えたとおりの言葉を固く守っておれば、この福音によって救われるのである。
パウロは、かつてコリントの聖徒たちに伝え、彼らもそれを受け入れ、寄って立ってきたあの福音を、もう一度思い起こして欲しいと言います。
2|福音について最も大事なこと
パウロは、福音について最も大事なことについて語ります。
この箇所には、最も大事なこととして、二つのことが書かれています。
【3-8節】
3-4 わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。
すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、
5-8 ケパに現れ、次に、十二人に現れたことである。そののち、五百人以上の兄弟たちに、同時に現れた。その中にはすでに眠った者たちもいるが、大多数はいまなお生存している。
そののち、ヤコブに現れ、次に、すべての使徒たちに現れ、そして最後に、いわば、月足らずに生れたようなわたしにも、現れたのである。
その二つとは、
キリストが、聖書に書いてあるとおり、①罪のために死んだこと、②葬られたこと、③よみがえったこと
そして実際に、①ケパ、②十二人、③五百人以上の兄弟、④ヤコブ、⑤すべての使徒、そして、⑥パウロ自身にも、現れたこと
です。
🤔「聖書に書いてあるとおり」とは
聖書(レビ記23章)には、次のとおりイスラエルの祭りが定められています。
過越祭(第一月の14日の夕方)👉犠牲✔️
種無祭(第一月の15日~)👉安置✔️
初穂祭(第一月の16日)👉復活✔️
七週五旬節(第四月の末ごろ)👉聖霊降臨
角笛祭(第七月の1日)👉再臨の合図?
大贖罪(第七月の10日)👉第70ヨベル?
仮庵祭(第七月の15日~)👉千年王国?
ハヌカ(第九月の25日~)👉新天新地?
1~3は春祭り、4は夏祭り、5~7は秋祭りです。
8は冬祭りで、レビ記の祭りではありませんが、新約聖書に宮きよめの祭として記述があります(ヨハネ10章22節)。
パウロは、これらの祭りのスケジュールを神の計画の型として理解していたと考えられます。
つまり、
「①罪のために死んだこと、②葬られたこと、③よみがえったこと」とは、1~3の「過越祭・種無祭・初穂祭」を指しており、イエスの「犠牲・安置・復活」によって、聖書に書いてあるとおり、神の計画が成就したと言うことです。

まさにイエスは、
①過越祭の日に処刑され、②安息日の種無祭には安置されており、③三日目の初穂祭の夜明けに復活しました。
よって、
イエスこそが、聖書に書いてあるとおり──神の計画のキリストであったと言っているのです。
🤔「実際に現れたこと」とは
そして、
よみがえったイエスが、①~⑥の者に現れたこと、つまり、イエスの復活は500人を超える大勢の目撃証人によって証明されると言っているのです。
📌福音の前提となる最も大事なこと
イエスの犠牲・安置・復活は、聖書に書いてあるとおりの預言成就であり、これがイエスがキリストである証拠だということ
特に復活は、500人を超える大勢の目撃証人によって証明されるということ
つまり、
パウロが伝える福音が真理だと言えるのは、聖書預言の成就に基づくものであり、自身の他に500人を超える目撃証人の存在が、最も大事なことだと言っているのです。
よってこの箇所を、
「福音の三要素」として、出来事の羅列そのもの(犠牲・安置・復活)を信じることが大事だと言っているのではないのです。
パウロは、この後に述べる福音が、確実な証拠に基づいてることが最も大事なのだ、と言っているのです。
補足:
イエスは、①~⑥の者に現れました。
ここでは六で終わっているので、聖書的には七があるはずなのです。
七つ目は、キリスト再臨時にすべての人に現れる(すべての人が見る)ことによって完成するのです(黙示録1章7節)。
【9-11節】(省略)
3|死人の復活はないと言っている者への反論
次にパウロは、復活はないと主張する信者に対し、「もし~なら」の形で反論しています。
【12-19節】
12 さて、キリストは死人の中からよみがえったのだと宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死人の復活などはないと言っているのは、どうしたことか。
13 もし死人の復活がないならば、キリストもよみがえらなかったであろう。
14-16 もしキリストがよみがえらなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい。(中略)
17 もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは、いまなお罪の中にいることになろう。
18 そうだとすると、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのである。
19 もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在となる。
要約すれば、
「キリストがよみがえったのに、死人の復活が無いのなら、死人は滅んでしまったことになる」と言っています。
つまり、
「あなたがたも信じている神が、キリストをよみがえらせておきながら、死人は復活させないなどあり得ない」と言っているのです。
キリストのよみがえりの目撃証人は500人を超える
キリストがよみがえったことは事実であり間違いない
キリストがよみがえったのだから死人の復活もある
キリストをよみがえらせた神が死人は復活させないなどあり得ない
と言うことです。
4|パウロが伝える福音の核心部分
ここまででパウロは、次のことを語ってきました。
イエスが聖書預言のキリストであること
500人を超える復活の目撃証人がいること
神がキリストを復活させたのだから、当然死人も復活させること
この事実を受けて、ここからが、パウロが伝える福音の核心部分です。
【20-22節】
20 しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。
21 それは、死がひとりの人によってきたのだから、死人の復活もまた、ひとりの人によってこなければならない。
22 アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのである。
聖書に書いてあるとおり、イエスは初穂として──過越祭から三日目の夜明けに復活しました(ヨハネ20章1-2節)。
いまはまだ、アダムによってすべての人が死んだ状態ですが、キリストによってすべての人が生かされるのです。
📌キリストによって、すべての人が生かされる
これが、パウロが伝える福音の核心です。
キリストを信じた人だけ、キリスト教徒だけ、福音の三要素を信じた人だけ、そんな狭い話ではなく、アダムによって死んでいるすべての人が、キリストによって生かされる、と言っているのです。
✨これが、福音でなくて何でしょうか!
5|「見ずに信じる者」と「見て信じる者」
キリストによってすべての人が生かされるのは、いつのことでしょうか?
聖書の救いは、信じることが要件のように読めますが、いったい、どのタイミングで信じるのでしょうか。
これまで生まれたすべての人に、信じるチャンスがあったのでしょうか。
【ヨハネによる福音書】
3章16節
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。
それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである
17章3節
永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。
聖書の神は、誰ひとり見捨てません。
次のとおり、すべての人が信じることになるのです。
① 見ずに信じる者は幸い
【ヨハネによる福音書 20章29節】
イエスは彼に言われた、
「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。
イエスは復活した日の夕方、弟子たちに現れました。
その時、弟子のトマスは不在でイエスに会えなかったため、復活を信じれませんでした。
すると、八日目にイエスが再び現れ、トマスは見て信じることができたのです(ヨハネ20章26-27節)。
その時にイエスが言った言葉が「見ずに信じる者は幸い」でした。
生きているうちに信じる者は、幸いな者とされます。
しかし、見れずに信じれなかった者に、イエスは現れてくれるのです。
② キリスト再臨時に見て信じる者
【ヨハネの黙示録 1章7節】
見よ、彼は、雲に乗ってこられる。
すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう。
しかり、アァメン。
神の六日間の終り──
キリストの再臨時には、すべての人がキリストを仰ぎ見て、信じることになります。
ただし、これらの人は幸いな者とは呼ばれていません。
彼らは、炉の火に投げ入れられ(火の池ではない)、銀や金のように精錬されると書かれています(ゼカリヤ13章8-9節、マタイ13章37-42節、黙示録14章9-12節)。
つまり、不純物を取り除くために練り直されるのです。
この精錬は、再臨後の千年王国時代に行われます(ヘブル8章8-12節)。
③ 死後、御座の前に立って信じる者
次の箇所は、千年王国時代の後の描写です。
【ヨハネの黙示録 20章11-12節】
また見ていると、大きな白い御座があり、そこにいますかたがあった。天も地も御顔の前から逃げ去って、あとかたもなくなった。
また、死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。
かずかずの書物が開かれたが、もう一つの書物が開かれた。これはいのちの書であった。
死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた。
死後の裁きは、千年王国時代の後、新天新地の前にあります。
死んでいたすべての者が御座の前に立ち、生きていた時の行いに応じて裁かれ、報いが与えられます。
6|裁きとは有罪宣告ではない
すべての死人がキリストによってよみがえり、罪は赦され無罪になります。しかし、生きていた時の行いによって、報いが異なるのです。
そして、報いにまったく相応しくない者──獣と偽預言者だけは、火の池に投げ込まれ、第二の死(永遠の苦しみ)となります(黙示録19章20節、20章10,15)。
生きている間に「見ずに信じる者」は幸いですが、いま信じることができなくても、キリスト再臨時(神の六日間の終り)には、すべての人が見るとあるように、その時に生き残っているすべての人が信じることになります(というより、信じざるを得ない時代になるはずです)。
そして、それまでに死んだ人々は、千年王国時代の終わり、新天新地の前に御座の前に立ち、すべての人が見て信じることになるのです。
【ヨハネによる福音書 6章40節】
わたしの父のみこころは、子を見て信じる者が、ことごとく永遠の命を得ることなのである。そして、わたしはその人々を終りの日によみがえらせるであろう」。
補足:
神の六日間:アダムから6000年間
神の七日目:千年王国時代(神の安息日)
神の八日目:新天新地(永遠)

7|すべての人が生かされる新天新地(八日目)
【ヨハネの黙示録 22章1-4,14-15節】
1-4節
御使はまた、水晶のように輝いているいのちの水の川をわたしに見せてくれた。この川は、神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れている。
川の両側にはいのちの木があって、十二種の実を結び、その実は毎月みのり、その木の葉は諸国民をいやす。
のろわるべきものは、もはや何ひとつない。
神と小羊との御座は都の中にあり、その僕たちは彼を礼拝し、御顔を仰ぎ見るのである。
14-15節
いのちの木にあずかる特権を与えられ、また門をとおって都にはいるために、自分の着物を洗う者たちは、さいわいである。
犬ども、まじないをする者、姦淫を行う者、人殺し、偶像を拝む者、また、偽りを好みかつこれを行う者はみな、外に出されている。
神の七日目が終われば、死んだ人は──これまで生きた人も、これから死ぬかもしれない人も、すべての人が生かされます。
自分の着物を洗う者、つまり、けがれを洗濯し神の価値観を着る者は、命の木にあずかる特権が与えられ、門を通って都(エルサレム=平安)に入ります。
しかし、そうしない者は、都の外に出され、命の木にあずかることができません。
このように、行いによって八日目の報いが異なるのです。
後編につづく……
📍後編も、ぜひご覧ください。
コリント第一15章後編では、キリスト再臨後の千年王国時代を治める聖徒──「見ずに信じる者」への激励が語られています。

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