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緑豊かなる杜へ

小さい頃から、書くことは私の友人です。

会いたいときに会いに行く、そんな感じでつかず離れずの関係をずいぶん長く続けています。

書くことは、自分の日々感じたことをつらつらと。行き先の決まっていない旅のように、感情の赴くままに書いていました。

小学生の頃は、それこそ今流行りの3行日記をつけていたなあ。

しかも絵日記だったから描くこともセットでついてきて、それが今の自分の仕事にもつながっているから不思議です。

振り返ると、うまくいかなかったことや誰にも言えない悩みを日記帳には聞いてもらっていました。親の仕事の都合で転勤が多かったからかな。

今はnoteにも悩みを書くことが多いですが、言葉や感情は飾らずにありのままを最近は書けるようになってきました。


15年前の2011年の3月もまた、書き続けていた時期があったことを今でもよく覚えています。

当時の私はまだまだ青くて未熟な中学生。その頃はちょうど宮城県に住んでいました。

小さな頃からいろいろなところを転々としてきたけど、一番思い出深い良い街です。人もあたたかいし、ご飯もおいしい。

なにより緑豊かなあの街のことを、今でも大好きだと胸を張って言えることがうれしい。

当時は本を読むことに熱中していて、自由時間は全部読書に捧げていました。

思春期だったこともあったから、感情がよく動いて日記帳に書く言葉は支離滅裂だったけど私の全部が詰まっていたと言えるでしょう。

だから、あの地震が起きた時も私の心は大きく揺れたのです。

地震が起きたときはちょうど学校で翌日の卒業式の準備をしていました。急いで校庭に避難して、家の方向が一緒の生徒たちで集まって帰った記憶があります。

帰り道に季節外れの雪が降っていたのがとても印象的でした。

家の近くまで行くと、看板が目に入りました。「この先の坂で土砂崩れ発生。通行止め」。それを見て、日常が一気に反転したことにようやく気がつきました。

家にたどりつくと、家の中は真っ暗。薄暗闇の中で家中の物が散乱しているのを目にしましたが、家にいた家族が無事だったことにほっとしました。

私の住んでいた地域は、地震の被害が大きかったわけではありません。でも、しばらくの間生活は変わってしまいました。

卒業式は延期。食べ物を買うためにスーパーの前で母と二人で長い列に並んで待つ日々。

ガスだけが一向に回復しなかったから、母はカセット式のガスコンロで料理をしていました。

発災して数日間は水や電気の供給も不安定だったので、家にあったラップをお皿に敷いてご飯をよそっていたことが印象的です。

不安だらけの毎日をやり過ごすために、こっそり私は日記に気持ちを打ち明けていました。

当時は誰もが不安を抱えていて、また事情もそれぞれ違ったため不安を話すことはどこかいけないことだとされている雰囲気があったからです。

その頃に書いた日記は手放してしまいましたが、覚えていることがあります。母がホットケーキを作ってくれたことです。

流通が悪く、いつものような食事ができない中で食べたホットケーキはいつもの日常を思い出させてくれました。

ほとんどの記憶が溶けていってしまったけれども、あの日食べたホットケーキのことを日記に書いたことだけはきっとずっと覚えているでしょう。


今年であの地震から15年。気づけばあの頃の年齢と同じくらい歳を重ねました。故郷を離れた今、感じるのはもうすぐ芽吹く緑の気配。

私は現在休職中で、就職してからしばらく遠ざかっていた書くことにまた向き合っています。

あの頃も今も、生きるために書いていますが、なんと今回は自分の言葉を人に届けるためにZINEを制作中です。

書くことは今も私の良き友人ですが、今や私の中だけのことではなくなりました。私と外の世界をつなぐ糸になったのです。

糸はきっとリボンのようにしなやかな形をしていると思います。このリボンで私の過去と今と未来を結んであげたい。卒業式の花束みたいに。

あの日、延期になった卒業式。あれは私のための卒業式ではなかったけれど、とても印象に残っています。

この記事を書くことで、ようやく私はひとつの過去の後ろめたさを手放せました。ずっと私はあの出来事を書くことが怖かったから。

外の世界に向かって言葉が届くことに怖さはあるけれど、私は本づくりに挑戦します。これは私の出発式です。

昔からの友人と手を取り合ってできる本は、きっと緑豊かな言葉の杜になることでしょう。




(本文1,809文字)


「灯火杯 6th 2026Spring」に参加します。

この記事を拝見して、自分の中で今こそ書けるときだと思いました。

6回目の開催、おめでとうございます。



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