キュートアグレッション第4話『わたしの中の“可愛い”』
——可愛いって、罪だと思う。
だって、見つめるだけで喉が乾くし、触れたくてたまらなくなる。
潰したい、抱きしめたい、壊したい、全部同じくらい強くて。
そのすべてを呑み込むような“ぬめる声”が、私の中に棲んでいる。
昼休みのオフィス。
白く冷たい蛍光灯の光が、天井から降り注いでいる。
電子音と無表情なキーボードの音。どこかの会議室から聞こえる笑い声。
すべてが、自分の輪郭を溶かしていくように思えた。
透夏は自席で、冷めきったスープの中にスプーンを差したまま、動かずにいた。
熱も味も、わからない。
どこまでが「わたし」で、どこからが「わたしじゃない」のか。
境界が、とろりと崩れていく。
——もっと、ちゃんと透夏になろう?
内側で、ぬるりと声がする。
耳の奥、舌の裏、喉の奥、目の奥。
柔らかく、でも確かな湿り気を持った“何か”が、同時にそこを撫でる。
そこは、透夏の中でも最も敏感で、無防備な場所だった。
「透夏」は、「透夏らしく」していれば、それでよかったはずなのに。
ポーチの中に、小学生の頃からなんとなく持ち歩いていた羊のキーホルダーがあった。
くすんだ毛並み、取れかけた片目、ほつれた耳。
——でも、誰も見ていない。
透夏はそっと、それを掴んだ。
ぐっと力を込めて、指で潰す。
ぷちっ……ぶちゅっ。
中綿がつぶれた感触とともに、
指の腹から肘の内側、脇腹、太腿の内側へと、
波のように快感が走った。
体の内側から、ぬるぬると蜜のような熱が滲み出す。
骨の芯がくすぐったく、じわじわと蕩けていく。
舌の裏に広がるのは、甘くて、腐ったような味。
布地が裂ける音、詰め物の湿った質感、それが“歯茎の裏”を直接撫でてくるような生々しさを持っていた。
——ああ、これだ。
呼吸を忘れていた。
喉の奥から、くくっと笑いが漏れそうになったのを、必死で押し込んだ。
「……かわいかった、ね」
まるで壊れたその中から、“白い何か”がじゅわりと染み出してきたような感覚。
それが指を伝って、皮膚の内側へと、にゅるり……と逆流してくる。
脊髄の奥、臓腑の隙間、子宮の下あたりで、ぬるりと丸くとぐろを巻いて、すっかり居座った。
だが——その夜。
もう一度、同じキーホルダーを握りつぶしても、何も起きなかった。
ただの布と綿。
指に抵抗もなければ、熱も走らない。
さっき感じた“あの悦び”は、どこにも残っていなかった。
——潰した瞬間しか意味がない。
潰れた後のものには、“可愛さ”がもう宿っていない。
透夏は、次を探した。
次の日の朝。
通勤途中に、道端の花壇が目に留まる。
濃い紫のビオラ。
陽の光を透かして震える、繊細で、儚いもの。
しゃがみ込んで、ひとつを指先で——押し潰す。
「くちゅっ」
柔らかく湿った音が、骨の奥で反響した。
汁気を含んだ花弁が潰れ、ぬめりが指にまとわりつく。
その瞬間、喉がくぐもり、股間に熱が走る。
じわじわと、皮膚の内側にまで“汁”が染みていくようだった。
鼻先に青臭さ。
そのすぐあと、脳裏に甘さが広がる。
——これも、悪くない。
でも……もう、分かっている。
もっと大きく、もっと“生きている何か”じゃないと。
もう、満たされない。
その午後。
上司の佐久間が、近づいてきた。
「お、透夏ちゃん〜! 今日なんか、イイじゃーん。“可愛い”って感じ〜」
「……そうですか」
透夏は、ぎこちなく笑う。
「うんうん!やればできるじゃーん!」
「そういう“素直で明るい感じ”、俺ほんと好きなんだよねぇ?」
“そういう事”だよ。
その声が、あの“ぬめるもの”と同じ質感で耳奥に響いた。
——私は、潰されるために“可愛い”をやってる。
なら、今度は私が、潰す側に回ればいい。
「……もっと潰したい」
口の中で、そっと呟く。
吐息にまぎれて漏らしたその言葉が、皮膚の下を震わせた。
「ねえ、透夏。次は、誰にしようか……?」
内側で、“白いぬめり”が囁く。
舌にまとわりつき、唇の裏にじんわりと熱をもたらす。
その夜。
透夏はショッピングモールのペットショップの前に立っていた。
ガラスの向こう。
小さな白い子犬が、丸くなって眠っている。
ミルク色の毛並み。ほんのり透けた耳の縁。
可愛い。完璧だった。
——あれを、潰したら。
どれほど“気持ちよく”なれるのだろう。
想像しただけで、奥歯が軋んだ。
胃が熱い。
背中がざわざわと粟立つ。
手のひらが汗ばんで、爪の下が疼く。
「透夏……?」
誰かが肩を叩いた気がした。
けれど振り向けない。
なぜならその瞬間、透夏の全身は——
悦びで満たされていたから。
「ねぇ、見てるよ……“それ”も」
ゼリーのような気配が、背後からぬるりと重なる。
あの夜、叔父に“可愛がられた”ときに、脳に残った染みのような感覚。
くちづけられた耳、嗅がされた汗と皮脂と洗剤が混ざった大人の匂い。
喉の奥で鉄と唾液が混ざり合い、あえかに熱を放つ。
“あの匂い”と“それ”のぬめりが、もう区別がつかなくなっていた。
だから私は、もう知っている。
壊される可愛さなんて、ただの餌。
——次は、わたしが“潰す側”。
透夏の中で、その小さな命が“自分だけのもの”になる瞬間を、何度も繰り返していた。
悦びは、もう抑えきれなかった。
