キュートアグレッション第8話『梨奈の答え』
透夏が私の喉に触れた、あの夜。
肌を伝ったその手は、微かに震えていた。
優しさにも、残酷さにも似ていて、でもどちらでもなかった。
——あれは、欲望の温度だった。
(苦しい?)
そう訊かれたとき、私は答えられなかった。
苦しい? そんなはず、ないのに。
だって私は今、
「この手で壊してほしい」と願っていたのだから。
(じゃあ、平気?)
その言葉にも、首を振ることしかできなかった。
——平気なんて、軽い言葉じゃ済まない。
嬉しくて、たまらなかったから。
喉の奥が痺れる。
指の輪郭が、皮膚の内側に焼きついていく。
ゆっくり、締まっていく感触。
空気が薄くなるのに、胸の奥は満たされていく。
——こんなにも、欲しかったんだね、私。
透夏の目に、私はちゃんと“可愛い”として映ってる?
“壊すに値する”くらい、狂おしい何かに見えていた?
(……なら、それでいい。)
私は、私の“終わり”をこの人に差し出した。
***
颯斗に近づいたのは、復讐なんかじゃない。
ただ——透夏の目が、私に向けられる瞬間が見たかった。
誰かの「もの」になった私を見て、
透夏がどんな顔をするのか、それが見たかった。
その日。
偶然を装って颯斗に近づき、
無防備な視線と他愛のない会話に紛れて、
私の中の「それ」は、笑っていた。
(ねえ透夏、見てる?)
彼の手が私の腰に触れた時、
その何倍も強く——私は透夏を感じていた。
——透夏の視界に、私は焼きついている?
可愛いって、残酷でしょう?
全部、あなただけのためだったんだよ。
***
中学の頃、私は「影」だった。
前髪で目元を隠し、声も小さくて、
教室の壁紙みたいに存在していた。
その私のノートを拾ってくれたのが、透夏だった。
ページの端に描いた“可愛い女の子”。
誰にも見せたことのない、落書き。
透夏は笑って、それを見てこう言った。
「すごく可愛いね。……羨ましいな」
——その瞬間だった。
私の中に、なにか火がついた。
可愛いものが、人の目を奪う。
可愛いというだけで、触れられ、欲しがられる。
私は——その「可愛い」に、なりたかった。
高校の廊下で、最初の“それ”に出会った。
ロッカーの隙間に落ちていたのは、
くたくたの小さなハムスターのぬいぐるみだった。
ころん、と転がるようにして私の足元にいた“それ”は、
ガーゼのような耳と、まるいビーズの瞳をしていた。
——まるで、誰かが落としていった宝物みたい。
その可愛さに、思わず手を伸ばした。
その瞬間だった。
ぬいぐるみの“皮”が、ぱかりと裂けた。
何の抵抗もなく、静かに、やさしく——
でも確実に、中身がこちらへ“顔”を出した。
そこに詰まっていたのは、
どろりとした透明の粘膜のようなものだった。
ロッカーの埃とともに、
ひやりとしたその質感が、私の指先にぬめりと絡む。
——冷たいのに、なぜかあたたかい。
ぬるり、と滑る感触。
粘膜の表面は、うっすらと脈打つように震えていた。
それは、生きていた。
それは、私を——待っていた。
私は、夢中で指を這わせた。
ぷにぷにとした弾力。押すとわずかに沈み、指が吸いつく。
水飴のように、つるりと逃げ、でも確かにそこにいる。
ぬるく、やさしく、甘い。
それを撫でるたびに、胸の奥がちくりと疼いた。
何度も、何度も。
指先で感触を確かめるように、私はその“なにか”をなぞった。
やがて、私は——
その中心に指を立て、ぐっと、押し込んだ。
『わたしに、入って。ねぇ、わたし、可愛いでしょう?』
声にならないその声が、粘膜越しに脳の奥へ直接響いた。
瞬間、胸の奥がずるりと溶けるようにゆるみ、
指先から内臓の深部まで、じんわりと熱が染み込んでいく。
ぶちん。
膜が破けた音がした。
内側から、熱い何かが溢れ出した。
それが指に絡み、掌へ、手首へと染み込んでいく。
——その瞬間、私は確かに“変わった”とわかった。
“可愛いもの”を壊して、その中に自分を滑り込ませる。
それが、私の「変身の儀式」になった。
***
透夏に喉を締められながら、私は思っていた。
(ああ、届いたんだ……この手が、ようやく。)
気道が塞がれて、肺がきしむ。
でも、私の中は静かだった。
心臓の鼓動が、遠くの雷みたいに響いてくる。
肋骨の下、骨の弓なりをなぞる透夏の指先が、
まるで「私の輪郭」を確かめるようだった。
(もっと……もっと奥まで、来て)
壊れる。砕ける。
でもそれは、なぜか「嬉しい痛み」だった。
わたしの体が、透夏の指で“解体”されていく。
筋が引き剥がされていくような錯覚に、私は息を飲む。
熱い、冷たい、痺れる、痛い、やさしい。
全部混ざって、世界の色が崩れていく。
……快楽とは、きっとこういうものだったんだね。
透夏は、ささやいた。
「もっと、泣いて。苦しんで。それが一番、可愛いから」
——言われた瞬間、快感が走った。
肋骨の下に、指が差し込まれる。
骨の縁をなぞられ、ずぶずぶと深部を侵食される。
そこに、私は歓喜する。
——ほら、透夏。
わたしの“中”は、あたたかいでしょ?
喉が圧迫される。
酸素が抜け、意識が薄れていく。
でも、こわくない。
これは、死じゃない。
あなたの中に、私が“入っていく”瞬間。
透夏、あの時あなたが言ってた言葉——
「……梨奈って、私のどこが好き?」
答えは、ずっと決まってたの。
——全部だよ。透夏の、全部。
可愛いと狂気と、壊れる寸前の、全部。
壊れていく自分の感覚のなかで、
私は笑った。
幸福が、波となって全身を包んだ。
私は、その言葉を——ずっと待っていた。
「……うれしいの、透夏。壊してくれて、ありがとう」
最期に見た透夏の瞳に、
確かに私だけが映っていた。
そのまなざしの奥に、かつて見た“可愛い”が宿っていた。
その瞬間、
私は、世界のすべてを手に入れた気がした。
——ありがとう。
私の“可愛い”を、終わらせてくれて。
——幸福の中で、
視界がゆっくりと白く沈んでいく。
その奥で、
透夏が何かを叫んでいた気がしたけど……もう聞こえなかった。
最後に。
私の瞼の裏で、なにかが——かすかに微笑んだような気がした。
***
……どれくらい、時間が経ったんだろう。
まぶたの奥が、じん、と熱を持っていた。
意識はふわふわと浮かんでいて、身体の感覚はまだ曖昧だ。
でも——気づいた。
私は、まだここにいる。
(……透夏、行ったの?)
部屋は静かだった。
息を吸うと、まだ微かに彼女の残り香があった。
喉が少し痛む。
だけど、心はやけに澄んでいて……どこか、満たされていた。
ゆっくりと手を伸ばし、スマホを取る。
震える指で、LINEを開いて──
たったひとことだけ、メッセージを打つ。
『透夏、今日はすごく嬉しかったよ。本当に、幸せだった』
——送信。
(……これで、また会えるよね)
そのときだった。
——「ピンポーン」
チャイムが鳴った。
(……透夏? 戻ってきてくれたの?)
鼓動が跳ねる。
震える手で立ち上がる。
足元が少しふらつくけど、それでも確かに前に進んでいた。
玄関の前で、息をひとつ吸う。
ドアノブに手をかけ、ゆっくりと回す。
(会える……今度こそ、ほんとうに——)
ガチャ。
扉が、開いた……。

