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キュートアグレッション第7話『可愛い、の臨界』


 梨奈の首に添えた手は、羽のように軽いはずだった。
 撫でるだけの圧だった。
 けれど——彼女は、呼吸を止めた。

 わずかに開いた唇。
 喉がひくつき、かすかな音を立てる。
 うるんだ瞳が、透夏の奥をまっすぐ見つめてくる。

 そこに“怯え”はなかった。
 あったのは——甘やかな、沈黙。

 (ほんとうに……わたしのこと、見てる?)

 息を呑むたびに、梨奈の匂いが胸を満たす。
 シャワーのあとのボディソープの残り香。
 そこに微かな汗と、肌の温もりが混じっていた。
 その奥で、血が流れていることが——じんわりと、指先に伝わってくる。

 (ああ、今なら……壊せる)

 その想像だけで、背筋にひやりとした痺れが走る。
 怖い。でも、それ以上に——心地いい。

 「……ねえ、梨奈」

 囁くように声を落とす。
 梨奈はまばたきを一度だけした。
 声はない。けれど逃げない。動かない。

 「苦しい?」

 小さく首を振った気がした。
 けれど、それは“肯定”か“否定”か、曖昧な動きだった。

 「じゃあ、平気?」

 今度は、返事がなかった。
 ただ、睫毛が濡れていた。
 音もなく、静かに、涙の気配が滲んでいた。

 (ああ……可愛い)

 無表情に近いのに、そこには感情の“層”があった。
 痛み、羞恥、困惑、恐怖、そして——微かな、悦び。
 その全てが、たまらなく愛おしくて、歪んでいた。

 「可愛い、ねぇ……梨奈、わかってる?」

 返事はなかった。
 そのかわり、肩がわずかに震えた。
 まるで悦んでいるみたいに、細かく。律動のように。

 「なんで、そんな顔してんの」
 「……」
 「逃げてもいいのに。怒っても、いいのに」

 梨奈の睫毛が揺れる。
 唇が開きかけて、でも言葉にならなかった。
 喉が震え、吐息が透夏の頬をかすめていく。

 「ねえ、お願い……泣いて?」

 その言葉に、梨奈がふっと笑った。
 それは微笑とも、嘲笑ともつかない淡いもの。
 目尻に、そっと涙がにじんでいた。

 その表情に、透夏の理性が崩れかける。
 揺れる心と身体。
 欲望と痛みの境界が、甘くとろけていく。

 「だめ……可愛すぎる」

 喉元に添えていた手を、そっと離す。
 けれど、その痕が薄紅に染まり、まるで花のように浮かび上がる。
 可憐で、残酷で、美しかった。

 透夏はそっと梨奈のシャツの裾に触れ、肋骨の下へと指を滑らせる。
 細くて、やわらかくて、脆い。
 骨と皮膚のあいだにある、生の境界をなぞる。

 「ここ……すぐわかるんだね」

 声は静かで、優しげだった。
 けれどその奥には、狂おしい熱が潜んでいた。

 梨奈の肩がわずかに揺れる。
 視線を伏せたまま、震える手が透夏の頬に触れた。
 置かれたその指先が、ほんの少しだけ震えていた。

 その仕草に、透夏の胸の奥が焼けるように熱を持つ。

 唇が重なり、息が混ざる。
 梨奈はわずかに目を見開いたが、拒むことはなかった。
 ——熱い。甘い。やわらかい。

 舌先が触れるたびに、感情が混ざる。
 皮膚の裏で蠢く“何か”が、目を覚ましていく。

 目が合った瞬間、梨奈は何も言わず、ただ見つめ返してきた。

 (全部、飲み込んで……わたしになって)

 髪を撫で、頬を撫で、首筋へと唇を這わせる。
 そこに滲む涙の味が、透夏の中に満ちていく。

 「ねぇ……もっと、泣いて。苦しんで……」

 その声は、祈るようでもあり、願うようでもあった。
 神にすがるような、でも神を食らうような声音だった。

 梨奈は、かすかに首を傾けて視線を逸らす。
 その横顔が、たまらなく綺麗だった。
 綺麗すぎて、憎かった。

 目の端から涙が一粒、耳元へと落ちていく。

 (その涙が、欲しい)

 次の瞬間、透夏はその首筋に、そっと噛みついた。

 梨奈の体が、びくりと震える。
 でも、それは拒絶ではなかった。
 弱々しく背中に回された腕は、どこか甘えるようだった。

 「……」

 透夏の理性が、ふっと溶ける。

 すべてを奪ってしまいたくなる衝動。
 その一方で、壊してしまうことへの恐れ。
 交差する感情のはざまで、透夏の手が震えた。

 そして——

 梨奈は、微笑んでいた。
 壊れかけの、少女の笑顔で。
 壊されることに、悦びを見出したような、狂気すれすれの優しさで。

 その笑顔に、透夏は深く、堕ちた。

 視界が白く染まり、感覚がぐにゃりと歪んでいく。
 現実が泡立ち、世界が音を失う。

 そして。

 梨奈の首は、静かに傾いていた。

 口元には、微笑みのまま、ぬるく赤いものが滲んでいる。
 それは血であり、花弁のようにも見えた。
 うれしそうだった。
 まるで、夢にまで見た瞬間が叶ったかのように——。

 梨奈の瞼の奥で、何かが——かすかに、動いた気がした。

 「……あれ」

 透夏の指が震える。

 何かが、違う。
 違うはずなのに、気づけなかった。

 ——どうして、こんなに、悲しいの。


(8話へ続く)

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