キュートアグレッション第6話『あなたに、触れてはいけない』
梨奈の笑い声が、透夏の鼓膜を撫でてくる。
耳の奥に甘く絡みつき、まるで綿あめが内側から溶けていくようだった。
ミルクティーの香り、柔軟剤の匂い、ほんの少し甘ったるいリップグロスの気配——。
そのすべてが、透夏の“獣”を刺激する。
隣に座っているだけで、皮膚がぴりぴりと乾いていくのがわかった。
「透夏ちゃんって、ほんと綺麗だよね」
梨奈は、コーヒーを両手で包みながら微笑んだ。
指先の白さ。爪のかたち。手首の骨の出方。
そのどれもが、透夏の中の“可愛い”を、じわじわと焼いていく。
(壊したい)
脳裏に浮かんだその言葉を、すぐにかき消す。
違う。今日は仲良くなるための時間。近づくための、甘い儀式。
けれど。
梨奈の喉が鳴った、その一瞬で。
透夏の吐息も、喉の奥で震えてしまった。
身体が疼く。下腹がじんわりと熱くなる。
言葉じゃない“何か”が、内側でふくらみすぎていた。
——これが、“可愛い”の極地。
帰り道、透夏はわざと遠回りをした。
その途中、小さなペットショップの前で足を止める。
ケージの中で、白いハムスターが丸くなっていた。
「かわいいね」
小さな女の子が、そう呟いた。
その声に重なるように、透夏もそっと呟く。
「かわいいね」——と。
だがその瞬間、全身が“拒絶”した。
(ちがう。わたしの、じゃない)
気づけば、透夏はレジの前で笑っていた。
白い箱を抱え、優しく受け取っていた。
帰宅してすぐ、透夏は部屋の隅にケージを置いた。
蓋を開け、小さな命をそっと両手に包み込む。
ふわふわの毛並み。
吐息のように軽い体温。
小さな心臓が、ぷつぷつと指先にぶつかってくる。
透夏は、そっと息を飲んだ。
「ねえ……泣いてくれたら、もっと可愛くなるのかな」
囁くように言って、手のひらを、ほんの少しだけ閉じる。
優しく、でも確かに圧をかける。
小さな体が、ぎゅっと緊張した。
ひげが震え、前足がもぞもぞと動く。
体重が指の上で微かにずれただけで、
骨が、関節が、今にもぷちっと音を立てそうだった。
その瞬間——
びくん!
ハムスターが突然暴れ、鋭い痛みが走った。
「……っ!」
小さな歯が、指先の柔らかい部分を噛んだ。
反射的に手を離すと、ハムスターはケージの奥へ転がり込むように逃げた。
透夏は、しばらくその場に立ち尽くしていた。
手のひらには、かすかに汗と震えが残っていた。
指先には小さな歯形。少しだけ、赤く滲んでいる。
透夏はその痕を見つめながら、ゆっくりと呼吸を整えた。
(……壊せた)
その感覚が、まだ指先に残っている。
関節がつぶれる手前の、柔らかくもろい肉の抵抗。
生きたものが自分の中で“壊れていく”予感。
でも——壊さなかった。
ハムスターは、生きている。
透夏は、喉の奥でかすかに笑った。
(いつでも壊せる)
(でもいまは、飼いならす)
指先の火照りと、濡れたような掌の感覚。
その中に、なにもないのに——まだ何かを握っているような錯覚が続いていた。
透夏は、ひとり震えるように息を吸い込んだ。
幸福の中で、喉の奥がからっぽになる。
(……足りない)
その声は、身体の内側から響いてきた。
潤して。もっと。次は——。
そして、夜が来た。
梨奈から、メッセージが届いた。
《今日、楽しかったね。透夏ちゃんって、ほんと優しい。
よかったら、今度はうちにこない? ごはん、作って待ってる。》
言葉だけなら、ただの誘い。
けれど、《ごはん、作って待ってる》という最後の一文だけが、
妙に体温を持っていた。
梨奈の声で、耳の奥に響いた気がした。
(わたしのこと、呼んだ?)
——透夏は、梨奈の部屋に行った。
アロマの香り。淡い光。整いすぎた空間。
そのすべてに、“梨奈の皮膚”が染み込んでいた。
「先にシャワー、済ませちゃってたの。待たせてた?」
髪を結い上げ、肩の出たTシャツ姿で現れた梨奈は、あまりにも眩しかった。
その柔らかい笑顔を見た瞬間——
(だめだ、触れたい)
——触れたい。
——なぞりたい。
——切り開いて、その中にある“可愛い”まで確かめたい。
「梨奈」
「ん?」
「わたし……今日、ずっと、あなたのこと考えてた」
「え……」
「壊してしまいたいくらい、可愛いと思ったの」
梨奈は、ほんの少しだけ目を見開いて——そして、笑った。
あの、最初に見たときと同じ。
無垢で、無防備で、どこまでも透きとおった笑顔で。
その瞬間だった。
透夏の手が、梨奈の喉元に触れていた。
温かく、やわらかい。
力なんて入れていないのに、梨奈の息が詰まる。
「ねえ、梨奈……教えて」
「……どこまでが、わたしのもの?」
梨奈は、何も言わなかった。
けれどその瞳が、ほんの少しだけ潤んで——
まるで、嬉しそうに揺れた気がした。
透夏は、喉の奥で、かすかに笑った。
(もう少しで、届く)
そして、透夏の中の“獣”が、
——またひとつ、目を覚ました。
