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キュートアグレッション第3話『しみこむ』

※本話には、心理的トラウマ・身体感覚に関するセンシティブな表現が含まれます。

 ̄ ̄ ̄

 透夏は、ベッドの中央でじっと天井を見ていた。
 電気も点けず、スマホも閉じて、ただ、自分の輪郭が溶けていくのを待っていた。

 空気はぬるく湿り、汗の膜がじわじわと肌に張りついている。
 タオルケットは蹴飛ばしたはずなのに、足元は重い。
 ——なにかが、絡みついているような感覚があった。



 目を閉じると、また浮かんでくる。

 耳の奥をかすめる、ねばついた音。
 唇を割って、舌の裏まで這いずる声。

 ——あの白い指の感触。



 皮膚のきわを、ぬるり、ぬるりとなぞられていく。
 肉の内と外を仕分ける境界が、ぴちぴちと湿る音とともに、曖昧に滲んでいく。

 舌先の奥で、じゅる、と自分の唾液が喉へ落ちた。
 その感覚すら、どこか他人のものみたいだった。



 「交代して?」

 あの声が、脳の柔らかい部分を指で押されるように響いてくる。
 じわじわ、じわじわ、奥へ、奥へ。



 視界の端。小さなテーブルの下。

 白い何かが、動いた。



 見ちゃダメ、でも、目を逸らせない。

 ——“それ”は、乳白色のゼリーのように、じくじくと膨張と収縮をくりかえしていた。
 柔らかそうなのに、どこか中身の詰まった、湿った音を立てて。



 ぷるり、ぷるり。
 ゼリーの表面には、毛先や赤く滲んだリップ、爪の先が貼りついている。
 汗の塩気と、うっすら化粧品の匂い。

 ぜんぶ——透夏のもの。



 寝てるあいだに抜けた小さな「わたし」たちが、そこに集まっていた。

「透夏になりたい」
「透夏の中で、ちゃんと、かわいくなりたい」
「今度は、捨てないで……?」

思い出すのは、“あの手”だった。

ゼリーみたいにやわらかくて、でも爪の先だけが固くて、痛かった。
いつも、会うたびに繰り返された。
頬をぐいとつねり、腕を両手で押しつぶすように抱きしめる。
「可愛くてたまんないんだよ」と言いながら、歯を見せて笑った。
笑っているのに、目は笑っていなかった。
叔父の顔が、にじむように浮かんでくる。

逃げようとすれば、手はもっと強くなる。
声を上げれば、もっと押しつけられる。
胸にひっかかるほど深く、「可愛がってるんだよ」と、言葉が押し込まれる。
まるで、透夏の皮膚の内側にまで、入り込もうとしてくるようだった。

「うちの子、可愛いから仕方ないよな〜」
親は笑って、受け流した。
何度訴えても、「それくらい、愛情表現でしょ?」と、大人たちは肩をすくめた。

女たちは少し離れたところで言った。
「ほんと、ちやほやされて幸せね」
「そんなんされるの、可愛い子だけよ〜」

でも透夏は、知っていた。
あれは可愛がられたんじゃない。
“壊されそうになった”んだ。


 声じゃない。
 ——粘膜越しに伝わる“欲望”だった。

 言葉じゃなく、染みてくる。
 皮膚から、耳から、まつげの根元から、ぬるく沁み込んでくる。



 息がしにくい。

 肺の中に、水でも溜まったような違和感。
 内側から、にゅるんと何かが這っているような感触。
 喉の奥で、とろりと重い痰が絡む。

 でも、それが“快い”と思ってしまう。

 気持ち悪いのに、どこか安心するような、微熱の中でじんわりと溶けていく感覚。



 ——あの日の記憶が浮かぶ。

 ぬいぐるみの首が、ぶつりと裂けた。
 慌てて泣いた自分に、親は笑って言った。

 「可愛いものって、壊したくなるよね?」
 「だって、あんたが可愛いがったからでしょ」



 ——“かわいい”は、“壊される”ことと、いつもセットだった。



 じゅるっ……と、湿った音が響く。
 マットレスの隙間から、何かが這い出てきた。



 それは、白い“腕”だった。

 でも、骨はない。
 皮膚はミルクのように濁り、透明感のある肉襞が、とろりと滴っていた。

 ——ミルクでできた蛇。
 冷たくて、なまぬるくて、ぬめっていて。
 触れるたび、ぐちゅっ、と熱をはらんだ粘膜音が鳴る。



 その腕が、透夏の背中を撫でる。

 ゆっくり、ゆっくり。
 汗ばんだシャツ越しに、粘ついた液体が肌に浸透していく。



 シーツが、ぬるりと吸い込んでくる。

 じゅわ……と、下半身が、湿った膜に包まれていく。
 背中から腰、腿の内側にかけて、ぬるくぬるく、粘液が染みわたる。



 その時、耳元でささやかれる。

 「ねえ、透夏……ボク、もう入ってるよ……?」



 ゾクリと、全身の毛穴が逆立つ。
 自分の体が、自分のものじゃなくなる感覚。



 指先が勝手に痙攣する。
 膝がびくんと震え、足の指がつるように反り返る。

 ——脊髄が溶けて、なにかに乗っ取られていく。



 視界が揺れて、鏡が目に入る。

 そこには、“透夏”がいた。

 でもその目の奥に、笑ってる“なにか”がいる。



 「かわいいね」
 「透夏、だいじょうぶ」
 「もう、ひとりじゃないからね」



 声が、自分の喉から漏れていた。
 濡れた声。
 奥でとろけるような、甘ったるい響き。



 手が動く。
 自分の頬を撫でる。
 皮膚の温度を、質感を、指先で確かめる。



 涙が流れても、まばたきひとつしない。
 ただ、肌の上を、粘膜のような意識が滑っていく。

 それが、妙に心地よかった。
 気持ち悪いのに、気持ちいい。
 拒絶したいのに、溶けてしまいたい。



 それはもう、透夏の中に“いた”。

 白くて、やわらかくて、冷たくて熱い“なにか”が、
 ——肌の奥に。
 ——粘膜の中に。

 ゆっくり、ゆっくり、

 しみこんでいた。


(4話へ続く)


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