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短編小説「甘くて、甘くて、甘くて、しょっぱい。」

 おおきなパソコンのモニター横から、ふわりとセミロングの髪がゆれるのが見えた。ひょこっと、いつものように彼女が顔を出す。

「先輩、今日はデートですか?」

 向かいの席に座っている野村さんは、作業の手を止めて私をにまにましながら見つめている。彼女はきっと、部署で共有しているスケジュールの今日の予定欄に書かれた、「厚木:定時以降の打ち合わせNG」のメモを見て勘繰ったのだろう。

「そんなわけないでしょ」

 私は苦笑しつつ、彼女の顔を見ずに応えた。自嘲をたっぷりと含んだ返答だったけど、彼女が気にした様子はない。

「なーんだ。ついに難攻不落の先輩が恋に落ちたと思ったのに」

 課長に呼ばれた彼女は、颯爽と立ち上がった。彼女が歩くと、その肩にかけられたカーディガンが翻る。私はそれを見送ってから、自分の作業に戻った。
 恋ならもうとっくに落ちてるよ、とは口にしなかった。

     ◆

 野村さんが入社したのは、季節を先取りした暖かな春の日だった。課長から紹介される彼女は、小柄で肌が白く、「お人形さんみたい」だと私は思った。レモンイエローのブラウスと白いフリルのスカートという女性らしい服装だったから、余計にそう思ったのかもしれない。メンターとして課長に紹介された私を見て、大きな宝石のような瞳がやさしく輝いた。

「よろしくお願いいたします。先輩」

 私はそのとき、反射的に「よろしくお願いします」と応えたのだろうけど、よく覚えていない。彼女の、薄く入れた紅茶のような爽やかな声色だけが、印象に残っている。

     ◆

 今日のタスクが全部終わったことを確認する。定時五分前。明日の支度を整えて、定時になったタイミングでタイムカードを押す。

「じゃあ、お先に失礼します」
「あっ、先輩! ちょっと待ってください」

 野村さんが、慌てて自分のバッグから出した何かを差し出した。手には、リボンでラッピングされた……シフォンケーキ。

「よかったらコレ、もらってくれません? 明後日にはもう引っ越しなのに、材料が無くならなくって」

 彼女は時折、お菓子を自作しては私にくれる。そのたびに、「同じ部署の女性社員は私だけだからくれるんだ」と自分に言い聞かせる。クッキーにパウンドケーキに、ガトーショコラにドーナツなんていうときもあった。

「いつもありがとう。いただきます」

 御礼を伝えて受け取ると、彼女が「こちらこそ、押し付けるみたいですみません」と眉をハの字にして笑った。とんでもない、と手を挙げると、

「明日、最後の出社になりますけど、よろしくお願いしますね。お疲れ様です、先輩」

と、彼女は頭を下げた。私は小さくうなずくことしかできなかった。

     ◆

 最寄り駅から二駅手前の、大きなターミナル駅で降り立った。帰宅途中の人々で混み合うコンコースを通り抜け、目的の店へ足早に向かう。閉店まで、あと三十分しかない。

 彼女が結婚を機に会社を辞めようと思っていること。私は前々から知っていた。一緒にランチするとき、彼女は気兼ねなく私に相談してくれていたからだ。野村さんは自分を育ててくれた会社を辞めることに踏み切れないでいたらしい。「会社のことなんて気にしないで。あなたの人生なんだから」と、凡庸な言葉で彼女の背中を押したのは私だった。

 店に着くなり、「あの、お菓子の詰め合わせを予約していた厚木ですが」と早口で申し出た。すでにショーケースには数えるほどしかお菓子が残っていない。予約しておいてよかった、と思った。

「あの店のお菓子、すっごくしっとり濃厚で美味しいんですよ」

 もう彼女すら、そう私に話してくれたことを覚えていないかもしれない。でも私はずっと覚えていた。いつか彼女に贈り物をする機会があったら、この店でと決めていた。それが退職のプレゼントになってしまうとは、その頃は思ってもみなかった。

「よかったら、新作のクッキーはご一緒にいかがですか?」

 閉店間際なので割引で提供してくれるとのことだった。断る力もなく、流されるがままプレゼントとともに買っていた。

     ◆

 帰宅して、野村さんへのプレゼントのメッセージカードを書こうと机に向かった。彼女の好きそうな、花柄の華やかなカード。一文字も進まないまま、買ってきたクッキーをひとくちかじる。
 あれ? 思ったよりもしょっぱいなぁ。
 ティッシュで目尻を拭いながら、そのまま食べ続ける。
 そういえば、野村さんからもらったシフォンケーキもあるんだった。私は皿もフォークも出さず、袋から取り出したケーキにそのままかじりついた。
 今度は、甘い。お店で買ったクッキーよりも、甘くて、甘くて、甘くて。

『先輩』

 彼女が私を呼ぶ声を、これまで何度味わったことだろう。きっといつまでも忘れない。紅茶のように透き通る、彼女の声を。もう一度かじったシフォンケーキは、いつの間にかしょっぱくなっていた。


     (終)


こちらの作品は、「第二回すべて失われる者たち文芸賞」への応募作品です。

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