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『殴り殴られ詩人酒場』ep.80「椿、一枝、紅」

「帰ったよ!」
「おや、朔ちゃん。随分と早かったじゃないか!」
割烹着の上から腰を揉みしだきつつ、イヨさんが顔を出した。
彼女が纏う甘辛い匂いに俺は顔をしかめる。

「なんて顔してんだい!」
「椎茸! 俺が此処うちにいる限りはやめとくれって何回言ったらわかってくれるんだい?」
「朔ちゃん? あんたがどっかに片付くのなんか待ってたらね、じきに歯っ欠けばばあになってきのこどころかなんも噛めなくなっちまうだろ!」
「お? 言うねェ。そしたら俺……」
匂いは一層濃くなってきた。
鳩尾を撫でる、寄せては返す波に似た嗚咽に俺は目尻を赤くする。
「朔ちゃん、まだあれの良さがわかんないのかい?」
「ああ……わかんないね! わかりたくもねェや。」
「あんた人生のほとんど損してるよ!」
「んだよ、椎茸如きで大袈裟な……」
「如きとはなんだい? 如きとは!」
「ああ?」
「謝んな!」
「……誰に?」
「決まってんだろ!」
「へ?」
「椎茸にだよ!」
イヨさんが俺の額を指で突いた瞬間のことだった。
背後で風船がぜた。

「おや、玉田君じゃないか!」
玉田と呼ばれた青年は腹を抱え、顔中真っ赤に染めている。
ひぃ、ひぃと絞め殺されでもしそうな声を絞り、震えていた。
三和土たたきには、彼のものと思しき引きずりの足跡がかすれ伸びている。
「失礼しました……つい……」
斜めがけ鞄の紐を握り込み、ふらふらと俺の横へと歩み出た。
生まれ落ちたばかりの仔鹿のような身体は俺の右肩に凭れかかる。
「なんだい? まだいたのかい?」
「……」
彼は口元を押さえたまま、若干の不服の色を俺へと向けた。
しかし可笑しさに贖えぬが運命さだめ
喉奥で破裂し続ける笑いを必死に堪えているのだろう。
小刻みな震えの中に、不規則に爆発的な身慄いがやってくる。

「雪ん中、大変だったろう……?」
「ああ、そりゃあもう! いくらなんだって郵便函ポストが……」
「あんたじゃないよ!」
「あ?」
「玉田君に言ってんだ。」
仔鹿はすっかり精悍な青年へと姿を変えている。
俺は彼の靴の横に外套の裾を垂らした。
「で、今日はなんだい? 手紙かい? それとも……」
「ええと……その……」
玉田君の困り果てた視線が脳天に注がれる。
俺は上眼に首を傾けた。

「なんも……なんもないんです。」
「なんもないのに、わざわざ……?」
「ああ……ええと……」

蝙蝠の石突から広がる水たまりにイヨさんのぎろぎろとした眼が映る。

「朔ちゃん! あんたって子はほんとに仕方ないね!」
「だってこいつが覗いてたから……」
「覗いてないですって!」
「いんや、覗いてた!」

一瞬、妙な静寂が在った。
音とときとが一緒になって、白くてついたかの如きしずけさであった。
そこへ季節外れの虫が一匹鳴いて、全てが元の通りになると、玉田君は上り框に腰掛けて茸にかぶりついていた。
俺は「解せぬ」と彼を眺めつつ、濡れ外套を衣桁いこうに着せた。

「味はどうだい? 口に合うかね?」
「美味いです、いいもんですね。」
笑い合う二人を尻目に、軒下にぶら下げた外套をひと殴りして階段を駆け上った。

「朔ちゃん!」
階下したではイヨさんが菜箸片手に怒鳴っている。
俺は構わず背を向けた。

光の侵入をも許さぬほど神経質に閉ざした襖でさえ、ふとどきものはいとも容易く破り入る。
鼻を摘みつつ、俺は万年筆を走らせる。
思い出したように窓に目を遣れど、灰白はいしらむ空は時刻ときを知るには心許無く、俺は首を傾げるばかりであった。
濡れ原稿は乾きつつある。
懐中とは名ばかりの、小卓で仰向く懐中時計をのぞけば明け暮れ不明の六つ時を指している。

いつの間にやらふとどきものは姿をくらましていた。
乾涸びた喉がちりちりと痛んだ。
俺は水を求め、階段を降りた。

「おはよう、朔ちゃん。」
土間からイヨさんの声がする。
そうか、朝か。
水を飲みの干した俺は、襷を噛んだ。
「今日もまた随分と冷えるね。」
「ああ、この分じゃまた吹雪くかもしれないね。」
皿の上の眠げな鰯を箸でつついた。

綿の雪が裏庭の土を柔らかに冷やしている。

「なあ、イヨさん。あの椿、一枝もらってもいいかい?」
「ん?」
「あれだよ、あれ。」
「どれ?」
「あれ!」
「どれ!」
俺が沓脱足の草履片足をつっかけた瞬間、花は雪を真っ赤に染めた。
緑色の鳥がどこへともなく飛び去った。
哀しみは白くたなびき、やがてかき消えた。

「開き切ったのはだめなんだ。」
イヨさんは隣に立ち、殊に見事な一輪に指先をあてた。
花はぼとりと頭ごと雪に沈む。
「ほら。朔ちゃん、選んでごらん。」
俺は手渡された花鋏を手に迷っていた。
これだと思った花は、触れた途端にことごとく落ちていった。
足元はもう、真っ赤に染まっている。
「蕾を摘むのが怖いのかい?」
図星だった。
「よく咲いた花を摘む方が酷なんだ。選ぶなら……」
「これは……?」
イヨさんは表情を変えるでもなくただ俺の手元を見つめている。
寒さか、惧れか。
俺はようやく一枝に鋏を入れた。

息を吐く。
彼女は頷き、花鋏を手に去っていく。

俺は乾ききらない外套を羽織る。

「ちょっと出てくるよ。」

「行っといで。」

空は白、紫の雲が低く垂れ込めていた。


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ご都合よろしい方は当時の郵便配達員の携帯品を調べてみてください。
今日、あなたの元を訪れたあのバイクのお兄さん。
良かったですね、今が令和で。



自分で書いておいてなんだが、これはいいぞ。


ご利用は計画的に。


習作です。
すみません、悪口です。


ゆきお様・解説
すみません、掲載遅くなりました。
Web小説には相応しくない不親切設計ゆえ、ゆきお様の解説なしには成り立っていない節がございます。
ありがとうございます。

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