恋より熱い、化学式
あの頃、髪の毛が2Fe+O₂→2FeOの女は夢見る少女だった。
午前0時の交差点、微熱の日も歌い、踊り続けていた。
「Y子12歳、夢は…アイドルになること!」
2Fe+O₂→2FeO
これは少女Y子の夢を巡る一夏の物語である。
1.化合物への道に道連れ選び
夏休み目前のある日、
私は野球部がすっ飛ばしてくる球をフェンスの網の一つ一つに詰めて遊んでいた。
すると、見覚えのある人影が近づいてくることに気がついた。
いつもならば2FeOとして群れて移動しているY子が珍しく単体である。
テルミット反応でも起きたのだろうか。
【テルミット反応】
〈酸素と電子のやりとりが同時に起こるダイナミックな化学反応〉
酸化鉄とアルミニウムの粉末を混合し、
高温で着火させることで金属鉄を取り出す酸化還元反応。
金属同士が電子をやりとりし、激しいエネルギー変化を起こす本格的な酸化還元反応が進行する。
Fe₂O₃ + 2Al → 2Fe + Al₂O₃
↑
尊敬しているでんじろう先生がテルミッてるのでご覧ください。
こいつらは引っ付くにもスパークするし、
離れるにもスパークするし、
光と炎なしには生きられぬ騒がしい奴らなのだ。
いつもならばエビもびっくりの反り具合で
ピチピチ跳ねながら珠玉の悪口を頼んでもいない“お通し”の如く提供してくる彼女が
今日は夏休み明けのスライムのごとく干からびている。
Y子「…お願いがあるんだけど…」
私「(…野球ボールをぎゅっと握る)」
Y子「あの…」
私「しゅっ…宿題とかは自分でやってよね!人の分までやる余裕ないから!」
…言えた。
Y子「違う!宿題じゃない!」
私「…じゃあ2月にバレンタインチョコ代理で渡しに行くとかもしないからね!」
Y子「違う!チョコじゃない!」
私「…」
Y子「…あのね、お…お…」
私「お金は貸さない!持ってない!」
Y子「お金でもない!」
私「じゃ…じゃあ何…?」
Y子「オーディション一緒に受けてほしい!!」
Pardon?
私「ミナミちゃん連れてきなよ…歌うために生まれてきたらしいし…」
ニコイチなどと言って、
2Fe+O₂→2FeOの如くベッタリのミナミちゃんではなく、
なぜ私なのだ。
なぜ、常日頃からアルゴン(Ar)の如く
ほぼ単体でぐったりしている私なのだ。
勝手に白羽の矢を立てないでいただきたい。
【アルゴン(Ar)】エントリーNo.18
無色無臭の空気よりやや重い気体。
単原子分子として存在し安定な化学結合は形成しない。
不活発で反応しない元素であることから、ギリシャ語の怠け者を意味するArgosから命名。
※沸点が非常に低い:−185.85℃
私は立てられた矢をバッキバキに折りながら、
後に大ヒットを飛ばすあの曲の中のあの台詞を叫んでいた。
「僕は嫌だ!」
バッキバキに折れた白羽の矢を再度グサグサと刺され、
最終的に私も折れた。
あの校庭には、
フェンスにギチギチに詰め込まれた野球ボールと、
バキバキの白羽の矢と、
無理矢理化合物にさせられたアルゴンが残されていた。
2.実験準備
あの日、照りつける太陽の元
HArFとなった我々。
【HArFの作り方】
アルゴンとフッ化水素の混合気体を、
冷却したヨウ化セシウムの基盤上に吹き付け固化させ、紫外線を照射してフッ化水素を光解離させ、アルゴンと反応させる。
極秘裏に、道に面しているわりに誰もいない公園で
猛特訓を積む。
というより、あちらは積むで私は詰む。
Y子「ねえ!歌うから聴いてて!」
ダンス付きで
あややの「The 美学」を披露するY子を直視できない。
恋する女と その男の化学
反応したら そこで KISS & KISS & KISS
なぜよりによってこの選曲なんだ。
「ここでいう“化学”並びに“反応”はスチールウールの燃焼実験です。」
という妙に冷静なアナウンスが安住紳一郎ボイスで流れたことを今でも鮮明に覚えている。
世界がTBSに支配された瞬間だった。

Y子「あんたは?あんたは何歌うの?」
私「…え?(決めていなかった)」
Y子「ねえ!」
私「じゃあラルクのHEAVEN'S DRIVEにする。」
Y子「はあ?」
生まれ過ぎた悪夢が膨張して
誰も手に追えない
〈サビ〉
眩しいくらいの日差しに恋焦がれてるんだ
全てを吹き飛ばして
Ride on heaven's drive
道連れに罰を受ける前に
(略)
悪夢膨張どころか爆発である。
そして日差しには恋はしていないが焦がされていた。
3.化合物選定当日
私は重要なことを忘れていた。
完全に油断していた。
Y子、メイク道具マッキーペンしか持ってないし
マッキーペンこそが至高だと思っている。
そうだ。
こいつ、運動会の時も
「見てェ!今日うち、メイクしてんの〜」
とか言って“ペンキ塗りたて”みたいなノリの眉毛と
ゴムパッキンみたいなアイラインで現れたんだった…
時すでに遅し。
待ち合わせ場所に現れたY子を直視してしまった。
望遠鏡で太陽を直視するのと同等の禁忌を犯してしまった。
案の定である。
【Y子(オーディションフォーム)】
髪:2Fe+O₂→2FeOのツインテール
眉毛:マッキーペン
アイライン:マッキーペン・修正ペン(目頭)
アイシャドウ:色鉛筆(ピンク・茶色)
おまけ:目の下キラキラシール×3
服:学校の制服(白Yシャツ・紺プリーツスカート)
ギラギラの酸化希望者たちに混ざっても異彩を放ち過ぎている。
話題性だけなら申し分ないが、
あのアイドルグループに適した化学反応が起こせる物質かと言えば謎である。
それはアルゴンである私にも言えることである。
それでもこの場にきたからには、エントリーNo.18として全力でやってやろうとは思っている。
マッキーペンの漆黒で囲まれた先の桜エビのような瞳には2Fe+O₂→2FeOの赤い炎が燃えている。
4.燃焼試験
5人の審査員が横一列に等間隔で綺麗に並んでいる。
─ん?
左から3番目の審査員の手元に
“マッキーペン”を発見。
笑い死ぬかと思った私は頼まれてもいないのに、
「今からそこのマッキーペンが死んだことを悲しむあまり泣き叫ぶ人の物真似しまァす!!」
と選手宣誓の如く大声で叫び、
審査員にマッキーペンを掲げさせ、
そこに瞳の照準を合わせ大いに泣いた。
ひとしきりやらかし、浮かんでいたY子のマッキーフェイスも涙とともにすっかり流れ去ったところで満を持して披露したのは…
虹/L'Arc〜en〜Ciel
…二次審査だけに。
100均で買ったデッサン用の林檎に釘打ちつけた小道具まで持って行く徹底ぶり。
アイドルではなく不審者オーディションならばトップ合格間違いなしだった。
「一匹狼、月に向かって吠えません。
どちらかと言えば太陽に吠えたい。
“むれる”ことはどちらも嫌いです。
“群れる”と“蒸れる”です。
今、足が蒸れていて嫌です。」
帰りの電車、Y子は一言も発しなかった。
かなり安定した2FeOのように静かだった。
ただ、必要以上にO₂と結合したのか随分と重苦しい表情をしていた。
一方、思う存分悪ふざけという名のテルミット反応を起こし余分な結合物を振り払ったので心身ともに軽々であった。
エントリーNo.18としての使命は果たせたと自負している。
5.実験結果
実験のことすら忘れかけていたある日、
私はまた野球部がすっ飛ばしてくるボールをフェンスの網目に詰め込んでいた。
2Fe+O₂→2FeOが2Fe+O₂→2FeOしながら走ってくる。
アルゴン(Ar)の私は身構える。
Y子の手が震えている。
無言で差し出してきたのは
─────────
不合格
─────────
参加はしたけれど、酸化はできなかった。
なるべく顔は見ないようにしたのに、
Y子がわざわざ顔を見えるようにしてきたので見てしまった。
マッキーが塗られていない目から、
大粒のH₂O(ほんの少しのNacl)がボロボロと流れ落ちていた。
彼女は何事にもまっすぐで、
何事にも必死に取り組む強さがある。
毎日毎日飽きることなく私に「●ね!」
と言い放つのだって、
あれはアイドルになった時に他の子たちと殺り合うための練習に余念がないだけなのだ。
彼女の涙は単に化合実験の副産物ではない。
“本気の証”だ。
私は自分に届いた結果を心の中で酸化させた。
アルゴンがアルゴンであるために、
無理をして化合物になる必要はないからだ。
Y子も1ヶ月もすると、
元気に2Fe+O₂→2FeOしていた。
アルゴンはいつも通りアルゴンであったし、
Y子はことあるごとに顔面マッキーペンであった。
夢見る少女じゃいられなくなったY子は今、
アイドルを推す側になっているそうだ。
これは風の噂である。
同じく風の噂で、
私が大便になったことが彼女に伝わっていないことを願う。
↑
私が大便にされた経緯
“俗”と結合してつまらない生き物に成り下がった。
でも大人になるってそういうことだ。
でも最近それはそれでいいと思えた。
ということを4000字もかけてかたるアルゴンであった。
【参考資料】
◽︎化学反応式一覧
◽︎アルゴン
◽︎こども理科実験教室サイエンスデイズ
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